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過去の@GAKUTOMO


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●2014/03/31 @GAKUTOMO
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※烏丸紫明下ル西側の空き家の庭

20140330.TY
 147期の本科の知のESSENCE≠ナ競争について考えました。ある仲間の感想に興味深い部分がありました。『教育から競争を無くすことは不可能と思うし、過去に比べれば競争という感じは薄らいでいるように感じる(就職以外で学歴というのがそれほど重要性をおびなくなってきている)。自分が学生時代競争やテストが無ければ絶対に勉強していないと思う。…(略)。』と書いてくれていました。

 2010年の前衛1月号に掲載されていた佐貫浩氏の『子ども・青年の傷つきの場としての学校を組み替える』という論文を重ねて運営委員会で読み返してみました。

 そこにこのような文章がありました。『今、子どものたちが学ぶことの意味は、何よりも競争によって与えられている。そこでは競争は、彼らから意欲を引き出す第一の要因として働く。しかしこの意欲の引き出し方は、深刻な問題性を抱えている。第一に、この意欲は、何よりも競争それ自身から引き出されており、学習のおもしろさに依拠していない。…第二に、この意欲は、その学習空間が競争空間であり続けることでのみそこにいる人間の中に引き起こされるものであり、競争の磁場が消えると、意欲もまた途絶える。この意欲の引き起こしと断絶が交互に繰り返されるとき、人格の中に、競争がなければ目的も意欲も見出すことができない空洞が広がっていく。…』

 『…幼いころからそういう主体的な目的の発達を抑止されて競争の意欲が肥大化させられると、評価と競争から自立できない、評価と競争のないところでは目的が見いだせない受動的な人格がつくられる。そして社会への関心から切り離された競争の世界に閉じこめられ、本来青年期において達成される社会と自分との再統合=i社会や歴史の中で自分の役割を位置づけ、自分の生きる意味を発見していくこと)ができないまなになってしまう。…』その仲間が、そのまま佐貫氏の指摘にあてはまるだとか、だからダメだとかいうことをいいたい訳ではけっしてありません。彼の言葉が、佐貫氏の論文を思い出すきっかけにしてくれました。

 教育から競争を無くすことは不可能≠ニいうことでも、佐貫氏の言葉を借りていえば、教育においても、『競争による学習意欲の回路』ではなく『生きる目的と直接結びついた学習意欲』『文化・科学の価値に結びついた学習意欲の回路』といったところでの学習意欲ということもありえると思います。私たちは、そういう教育の中で育ってきているからこそ、そう不可能≠ニ思ってしまうと私自身も思っていました。

 現代日本において、だれしも経験している競争が強いられた教育環境の中で培われた感覚が、労働学校での学びを通じて変化・発展、本来の人間がもっている学習意欲をとりもどすプロセスや、社会と自分との再統合≠フ役割を位置づけるプロセスになってほしいし、それをめざして運営活動しているんだと、運営委員どうし論議することもできました。

 話は変わりますが…先生が全体会で興味深い意見を述べられていました。それは、分散会の発表である班で、『保育をしている子どもたちが、保育園では、個人を尊重、情緒の安定を大事にしていく中で、小学校では、テストだ、受験だと競争の中におくりだす不安がある』という意見に対して、先生が、『どこかで人間が大切にされる経験があると、競争の社会だけではおかしいんだと気付くことができる。人間的な関係を広めていこうとする。』と全体会のまとめの中で言われました。私には、その子ども・その人の成長に信頼をおいた言葉としてハッとさせられました。
 また話は変わりますが…今回運営委員会で佐貫氏の論文を読んで、発見したことがあります。今まで読んでいたのに、そのつながりを今回は感じることができ、ハッとさせられたので、紹介させてもらいます。

 佐貫氏の論文に『今日の子ども・青年の中に新しい希望を切りひらくには、すべての青年を労働・職業を中心とする社会参加への導き入れることができる社会の仕組みを早急に実現するだけでなく、学校という子どもたちが生きる空間の性格を根本的に組み替えることが不可欠だろう。』とあります。

 知のESSENCE≠フ初めに人間らしさとは何かを考えるにあたって、人間とは何かということを考察したときにみた『人間の特徴』…“考える力がある”(知性)、“道具を作り、ものを作る力がある”(労働)、“社会をつくって生きている”の三つが、この佐貫氏に(今までも何度も読んでいましたが初めて)重なってみえてきました。
 そういう意味で今、青年をとりまく環境というのは、『人間の特徴』と関わるところでおさえつけられ、人間らしさを発揮することをおさえつけられていることが(感覚的にだけでなく)よくわかります。

 講義をきいて、分散会で仲間の意見からも学び、そして全体会で各班の発表や先生のまとめから学びとる…その一連での学習の大切さと、今まで自分たちが積み上げてきたことを結ぶつけてとらえなおすなかでの再発見や新発見…それに気付くことができるかどうか…じっくりと学ぶなかでの、その深まりが大切なのだと、(ようやく)実感をもって思えるようになってきたのかなと思います。


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●2014/03/28 @GAKUTOMO
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※大谷大学で

▲20140328TK
介護現場で働くKさん。Kさんは職場の仲間の仕事のやり方に対して悩まれていました。私もこの間、職場の仲間の働き方について悩んでいたのでお互いの状況を話し合って「どうしたらいいのかな・・・」と考えていました。

でもこの間、GAKUTOMOで書いてきた“仕事のできるって何か、だれもが働ける職場づくりってどういうことか”を話すと、すごく真剣に聞いてくれて「確かに、その仲間は前の職場でもいろいろあって辞めて、いまうちの職場にいる。辞めてくれっていうのは簡単だけどそういう職場集団であってはいけないよな。働く者同士は教育しあっていかないといけないもんな」と深くうなづいておられました。

そして最後に「TKさんはその話は職場のみんなと論議できたの?」と聞かれました。・・・痛いところです。私も実際に自分の職場では組合の場でも、職員会議の場でも、休憩時間でも、このことについて職場の仲間と話せていませんでした。自分自身もそのことに振り返り、そういうことを話し合える労働者集団をつくっていかないとと思いました。


▲2014 0327TK
Hさんの家に経済ゼミの案内を届けにいきました。話すなかで彼女がサッカー好きであることを初めて知りました。私は、先日の差別的な横断幕のことをどう受け止めてはるのだろうと思い聞いてみました。彼女は「あれね、カチンときましたよ!でも無観客試合にすることで差別撤廃の重要性が伝わったり話題になって、関心のない人にも問題として考えてもらう機会になったことは重要だと思う。」とのことでした。そして「今日(25日)の赤旗に無観客試合をした両監督のコメントも含めた記事載ってるよ。」と教えてもらいました。

さっそく帰って記事に目を通すと、「人と人とは違いがある。だから世界は美しい場所になるのだと思います。」「どんな人にたいしても、経緯と愛情を忘れずに接してきた・・・それが私の哲学であり、生き方です」と両監督はコメントされていました。スポーツでも貫かれている“一人ひとりが人間らしく自分の能力を発揮できる社会”の観点。おもしろいなと思います。

同時に自分が押し出せる範囲だけの学習にとどまらず、日々アンテナを張ることも職場の仲間と話をかみ合わせていくことのなかで重要だなと思いました。

◎∞∞TKさんが連日@GAKUTOMOで発信しています。それも§J働者との対話です。それも℃ゥ分が仲間から学んだ内容です。「前向きに……」というのはTKさんの生涯の行動スローガン≠ノなるといいですね。


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●2014/03/27 @GAKUTOMO
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※パレスサイドホテルの南 烏丸下立売り北西角

▲20140325.TY
 本科では、講義に欠席や遅れてきた仲間に、運営委員から講義の補習をしています。

 補習はあくまでも補習であって、講師の先生が90分講義され、それに基づく分散会討論・全体会とあるものを、短時間で伝えるのは限界もありますし、“次の講義は絶対に出席してほしい”という思いをこめて補習をしています。

 実際に補習をすすめると、私たち(運営委員)自身の学習が深まります。自分でわかったつもりでいたことが、仲間に伝えようとすると…当然ですが、そんなに簡単なことではないのです。それを、先期に本科を受講して運営委員になった仲間たちが挑戦しています。

 今日、私も第8課の補習をして改めて発見しました。“景気循環と恐慌”の話のところですが、テキストにこういう一文があります。『資本主義以前の社会で経済困難といえば干ばつによる飢饉や自然災害でした。これとは違って、恐慌や不況は飢饉や災害とは異なる資本制経済固有の現象です。』

 “資本制経済固有の現象”、そうですよね、封建制では自然災害などにより生産力がおち、ものがなくなるからこそ、経済困難になるが、資本制経済では、不況や恐慌のはじまりは、生産力があり、ものがつくられすぎ、売れなくなり、会社が首切りなどをして、失業者が増え、その中で(ものはあるのに)餓死者もでてしまう…生産力があり、それが資本の利潤追求の結果、こんな経済困難にぶちあたってしまう。資本制経済って、一見“合理的”で“無駄がない”ように見えて、けっしてそうではないと思います。

 『マルクスは生きている』(不破著・平凡社新書)にこう記されています。『高度な経済を基盤にした文明社会であるはずの現代社会で、なぜ貧困と格差が広がるのか。どこにその原因があるのか。社会のどこを変えたら、そういう不合理をなくせるのか。百四十年前に、この大問題に明確な解答をあたえたのが、マルクスです。』

 そう考えていたら、第12回現代経済学ゼミナールの第5講義に“ハッと”しました。(恥ずかしながら、今まで押し出しをするときに、「第5講義は全体のまとめです」くらいにしか言えてなかったのですが…)『“先進資本主義国”日本と社会主義論』そうか、高度に発達した資本主義国だからこそ、その生産力など活用することで、未来社会が展望できるのではないのか。

 5月にある34セミでのそうですよね。同じ高度発達した資本主義国である、日本とドイツ。事故があった日本では「再稼働」が持ち上がり、事故がなかったドイツでは脱原発へ動いている。この違いは何?しかもテーマに“環境倫理思想”とありますが、政治面や経済面で原発問題はきくことがあっても、思想面ではなかなかきくことができないと思います。ドイツの脱原発というのは、『マルクスは生きている』の中で不破さんがいっていた“「社会的理性」の事前の働き”ってこととつながることなのでしょうか。

 補習をしながら、あっちこっとへとつながっていって、“ハッと”しつつ“???”になっていました。すぐに短絡的に解答を求めるのではなく、その“???”が大事なことかなと最近は思います(以前は完全に前者でした)。

◎∞∞『資本主義のしくみ』をすべての147期生にひろげてください。科学的社会主義の学習の基本は独習です。独習がひとりでにできる認識へ受講生を高めないと。


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●2014/03/26 @GAKUTOMO
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※パレスサイドホテルの南 烏丸下立売り北西角

▲20140325 KY
この半年ほど、民医連で働く青年が、職場の後輩にどう援助したら良いか・・と悩んでいます。

「こういう学習ばっかりやってるイメージがあるみたいで。仕事もきちんとやってて活動もしてるっていうのを見せたいんです。」「だから、仕事の勉強もちゃんとしたいんです」と、経済学ゼミナールで学ぶことを躊躇していました。「『知のエッセンス』やっと読み終わりましたよ。『看護の力』も読まなあかんなと思ってるんです。」とは言っていましたが・・。

後輩に対して、自分の姿勢が影響を与えることを自覚した問題意識は重要だと思います。専門職として、技術的な知識ももちろん必要だと思います。その技術的な知識を、いつ、どの瞬間に、どのように発揮するのか、その判断をするには、観点が問われます。その観点を正確にするためには、「こういう学習」が不可欠だと思います。

患者さんの姿を(疾病を)その「生活と労働から捉え」るということが、民医連の綱領には掲げられています。生活と労働が、日本資本主義と無関係に行われることはあり得ません。日本資本主義の現段階、しかも、歴史的な変化が起こっていると言われる今、その変化を捉えずに、国民の気分、職場の仲間の中にある気分も捉えられないのでは、と思います。

なんとしても決意してほしいところです。さらに職場の仲間にも、そういう影響力を持ってほしいところです。再説得していきます。

◎∞∞「観点が問われます」その通りですが、仕事の勉強はせずに、科学的社会主義ばかりを学習している。それは事実ではない。これまでどんだけ(10年を超えているだろう)仕事の勉強をしてきたか。研修(お金は京都民医連もち)もあるやろう。科学的社会主義を年1回か2回、それも受動的に講義を聞くだけ……。そんなん比較になるか? ようやっと「現実に生きている社会についての学習」に目覚めだしてきたという段階。たとえば、自分で『資本論』を独習することができているのか? KYさんも科学的社会主義の独習はほとんどない。10年やっていても自分で科学的社会主義の文献を選択して独習は皆無? でしょう。「ばっかり……」ではないのだ。

京都民医連の中で「看護の力」の普及と学習をスローガンに活動した時期がKYさん! あったのではないか。それがどれだけ徹底されたのか? 学習新聞に連載された「看護の力を読む」はどんな扱いをしたのか? そこは「言わないで……」ではない。思いつきで労働者は成長させられない。KYさん自身が地に根をはった活動≠確立することがこの瞬間に、同時進行形でもとめられているのではないか。BUTでなくAND≠フ思想は10年以来事務局長は強調しているが、どこまでわかったのかなぁ。

『資本主義のしくみ』をどれだけ広げているか? 理論と実践の統一≠アれもKYさんの固有の課題なのだが。情熱をかけてとりくめてはいない。……KYさんの考え(世界観、思想、考え方……その都度の気持ち)と程度はちがっているだろうが同じ状況が「民医連で働く青年」にあるのではないか。

前向きに! これが持続して前進・成長する構え≠ニしてKYさんに求められているのではないか。すなわち「民医連で働く青年」にも……。

@GAKUTOMOを書き出した のは大きな前進だ。3ヶ月近く空白があるが。前進だ。何かがそうさせているのだろう。


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●2014/03/25 @GAKUTOMO
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※東鞍馬口通り河端で

▲20140324.TY
 労働学校では、講師の先生がかかれる“講師通信”というものがあります。そこには、受講生の仲間の感想と総評・講義の補習がかねられています。講義→分散会討論→全体会、そしてこの“講師通信”という過程を通じて“理論”が深められ、さらに実践としてつながっていくと私は思います。

 第8課の“講師通信”にこういう一文がありました。『第2課から第5課は資本制経済のしくみをいわば「静止画」でとらえて分析したものです。それにたいし、この第8課の内容は、資本制経済をいわば「動画」で見るようなものといえるでしょう。』

 資本制経済のしくみを「静止画」「動画」でとらえる…これ自身は、以前にも先生が講義でも言われていて印象的で、運営委員会でも注目していたところでしたが、今日はそれが次につながって、一人“ハッと”しました。

 それは、第12回現代経済学ゼミナールを本科の仲間にどう押し出すか、どういうところから話してみるか、運営委員で論議していた時でした。

 第12回現代経済学ゼミナールでは、『「世界の構造変化」に向き合う日本資本主義』として、“日本資本主義の現段階をどうみるか”というところからはじまり、日本のエネルギー問題、大企業の世界戦略について、日本の労働者の状態、そして資本主義が高度に発達した日本における未来社会を展望した話などなど…多岐にわたり、現代日本、そして未来の日本を考えるものになっています。

 (私なりの解釈ですが)先にあげた資本制経済を「動画」で見るようなものとありましたが、その「動画」がよりぱっきりとくっきり、より鮮明に、具体的に、そして未来を見る目でとらえることができるんだと“ハッと”しました。当然ともいえますが…本科の内容とつながったものになっていることがよくわかりました。

 (話はかわりますが…)先日の@GAKUTOMOに書いた柳田先生のことを調べていたら、学習通信にも関連するものが、学習通信040624と、学習通信061124にありました。

▲20140324 KY
自転車のサドルがボロボロになって、新しいものと取り替えてもらいました。その際、事務局長より、サドルに全体重を乗せるんじゃなくて、ハンドル、ペダル、サドルの三点で支えて乗るのだと教えてもらいました。ナルホド、体重の掛け方を意識して乗ってみると、軽やか・・全身をつかって前に進む感じです。

力の使い方を考えること。
これまで学んだことを総動員して今の課題に取り組むこと、すでに持っている条件を活用することが不十分な現状、、と重なります。
様々な仲間の様々な関心事から、あらゆる側面から科学的社会主義のものの見方・考え方を押し出せる「学習教育活動家」にならなあかん・・発信していかなあかんと思いました。


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●2014/03/24 @GAKUTMO
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※東鞍馬口通り河端で

▲20140324TK
合同会議で労働学校の本科の出席が後退していることを知りました。自分の組織した仲間も欠席が続いているとも書かれていました。

受講生の欠席にはいろいろ理由があると思います。偶然が重なって班の仲間が来なかったようにも見えます。私も運営委員のときに最初はそう思っていました。でも当日の結果だけを見ていては見えてこないことがあります。

自分自身が講義の内容にこだわって、この人にこの講義は聞かせたい!と思って相手に働きかけるとき、相手の行動が変化します。切り開くことは可能な人もでてきます。それは“思い”だけではだめでしょう。自分自身のこれまで積み重ねてきた講義学習も盛り込んで話してみる。そこが大事なことではないでしょうか。このGAKUTOMOを書いていて、この内容は自分の学習運動に対する姿勢とも重なる部分だと思いました。自分の弱い部分。でもそこが見えてきたということは解決できる課題でもあるということ。がんばります。

◎∞∞毎日@GAKUTOMOを書くことが、生活の中に新しい部分をつくりだし、どんなときでも前を向いて! 


▲20140323.TY
学習会館3階の正面にある額におさめられた書“道は ただ一つ その道をゆく 春 虎三”をご存知ですか?

147期の仲間が注目しています。しかもその仲間は大学生で、他の仲間に語っています。「この書を書かれた“とらさん”は、戦後、京都府知事を7期つとめられた蜷川虎三(にながわとらぞう)さんなんですよ」

もう一人の青年労働者は「へ〜」と知らない感じで聞いています。恥ずかしながら私も蜷川さんの書であることは忘れていました。その大学生は、蜷川さんのことを熱くかたってくれています。「京都府庁には“憲法を暮らしの中に生かそう”という垂れ幕が掲げられていたんですよ!」彼は19歳…年齢は関係ないですが…すごい大学生もいるんだとつい感心してしまいました。

この書は何を意味するのか?“道”ってどういう意味なのか、そこにいた三人で考えてみました。

ちょうどその頃、科学的社会主義を理論的基礎としている日本共産党の志位委員長の著作で作家・小林多喜二についてこう書かれていました。『…全体を通じてもっとも強烈な印象を受けたのは、多喜二という作家の生き方が、一つの到達点に惰性的に安住せず、つねに前の作品をのりこえ、新しい分野にふみこもう、新しい境地を切り開こうという、成長し、前進する不屈の姿勢に貫かれていることでした。その気魄にみちた生き方…小林多喜二という人は、一人の人間としても、時代を映し出す作家としても、そして革命家としても、そうした不屈性を貫き、不屈の前進性を発揮した先輩だと、私は思います。』『…同時に、強い感銘を受けたのは、多喜二が、不屈な剛毅さとともに、労働者のなかでも底辺で働く人々―日雇いとか臨時工などの人々に温かいまなざしをそそぎ、お父さん、お母さん、お姉さん、弟さん、家族にたいするあふれるような温かい愛情をそそいだ人物だったということです。』

“道”とは“生き方”なのか…それで答えをだしてしまってはいけませんが…ただ、日常ある風景だったはずなのに、その大学生の言葉から、深く考えさせてもらいました(その後は、蜷川さんの話から、知事選の話にすすみました…)。(後日、その蜷川さんの言葉が書かれた句碑が清水寺境内にあることを知りました。円山公園での憲法集会のあとにたずねてみたいです。)

ということがあった、直後、(私はその場にいなかったのですが)2階で行われた講義でも“学而闘闘而学”という額の書についても、労働運動学科でも話題になっていたようです。ただ、だれも書かれた柳田謙十郎という人物についてわからなかったということでしたが、講義の内容とも重なり、その言葉のインパクトには圧倒されたようです。
 日常あるさまざまな機会の中で、仲間はいろいろな物事にふれ、考え成長する可能性があるはず。その機会をいかすことができるか、どうか…私たちに求められる課題でもあります。

◎∞∞古本市に柳田先生の著作は沢山でます。観念論者から唯物論へ、そして学習教育運動へ 労働者運動に献身された著名人。額は「京都学習会館」が1969年に落成したときに書いてもらいました。


▲20140323TU
4月20日から始まる第12回現代経済学ゼミナール。第1講義は「日本資本主義の現段階をどうみるか」で講師は友寄さんです。さて、今回も経済ゼミ募集のために講義内容を押し出す学習をすすめています。「経済」2月号に同タイトルの友寄さんの論文が載っています。GAKUTOMO仲間と読み合わせ、論議しました。仲間の感想から、面白いものが聞かれました。「輸出主導型の資本蓄積?拡大再生産」の「行き詰まり」を示す指標の多くが、今、京都でたたかわれている知事選挙の争点に上がっているものとバッチリ重なるのです。

なるほど、当たり前と言えば当たり前なのですが、特に京都では、構造改革路線を先取りし京都の経済をどん底に突き落としてきたのが山田府政なのですからそうなるのは必然なのでしょう。友寄論文のむすびの日本経済の再生のためにでは、新たな拡大再生産軌道を形成するための旋回基軸となりうるのは中小企業と農業であろうとされています。これも、尾崎さんが掲げる「循環型経済」と響き合うものです。京都知事選は、「変革の時代」を進歩的革新的な方にすすめる一歩としたいものです。経済ゼミ募集と重ねて知事選勝利に向け奮闘したいと思います。


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●2014/03/18 @GAKUTMO
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※学習会館のバラの新しい葉

▲20140316TU
先日、ペレットストーブを購入したことを書きました。そして、「選んだのは経済的な価値観だけで判断したものより上回る価値があると思うから」と書きました。GAKUTOMO仲間と「資本主義のしくみ」を学習するなかで発見したのですが、「資本論」の剰余労働にたいする渇望のところで、「ある経済的社会構成体において、生産物の交換価値ではなくそれの使用価値が優位を占めている場合には、……」(P.400)剰余労働は制限されていると言っています。

「ある経済的社会構成体」の前には、奴隷制や封建制の社会のことが述べられてるので、そのままとれるのですが、マルクスが「ある経済的社会構成体」というような書き方をするときは、だいたいにおいて普遍性をもたせようとしているときだと注意する必要があると思っています。となると、それは未来社会でも言えることなのではないでしょうか。「生産物の交換価値ではなくそれの使用価値が優位を占めている場合=v、そういう社会はありえるし、価値観は変化していくということでしょう。自身の感覚に理論的な裏づけがされたように思いました。そのことは経済学ゼミナールの第2講義、「日本のエネルギー問題――再生可能エネルギーをどうみるか」でさらに深めたいと思います。

◎∞∞使用価値に注目する社会……労働者家族を社会ととらえればそこにも。未来社会だとかと、当てはめないで労働生産物の使用価値に注目するということは、どういうことであるのか。

電動自転車の購入も、スマホを買わない理由も、使用価値に注目しているからではないのか。ペレットストーブだけをとりあげるのは、いかがでしょうか。


▲(20140314 RK)
他職場の先輩職員と仕事をしながらの雑談で、人に対する機械的な対応という話題になり「あんたもそんな話し方してるで」と言われてハッとしました。

以前から、集中セミナーなど種々の講義の案内を毎回していましたが、「いつも同じような話しかせんし、聞いてるこっちの反応を見ずに一方的にしゃべってる」と。話の内容は毎回変えてるつもりだと思いながらも、一方的にしゃべってるという指摘には思い当たるフシがありました。この1週間の33セミの募集活動で、対話内容を充実させられずに思案していましたが、そもそも対話とは何かという学びを実践の中で活かせていなかったのではないか。

合同会議でも指摘されていましたが、対話とは相互発展するということであり、「知のエッセンス」P.54には「お互いに議論する中から、それぞれの考え方を発展させること」「いろいろな人と対話して、自分の考え方の狭さを知り、他の人の意見も採り入れて自分の考え方を発展させることもできます。また、議論の中でお互いに認識を発展させて、新しい認識を得ることもできます」とあります。

対話が相手との関わりの中で相手だけでなく、自分自身の認識をも高めてくれるものだとすれば、自分が相手をどうにかするということではなく、相手の言葉に関心を寄せて話を聴く。相手が拒否的な反応を示せば、それはどうしてなのか関心を寄せて丁寧に話を聴く。そこから相手の内発的な力(意欲や関心)を知り、それにそった働きかけ方をしていく。

対話がそういうものだと確認すると、相手に興味関心を寄せることが、機械的に人を見ずに、怖がらずに対話をすることの出発点なのかなと感じました。

◎∞∞RKさんの実践で最大の課題は、狭いことだ。福岡から京都に帰って1年、同じ人たちへの働きかけ、自らが成長する事への踏みだしの曖昧さ、助言を受け入れる勇気と決断のなさ、……本気で革命家として成長しなければならない。

24時間すぎれば、対話の内容は大きく変化するのは当たり前のこと。私たちも、また外の世界も多様な姿で存在しているし同じところにとどまっていることも出来ない。


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●2014/03/13 @GAKUTMO
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※3月9日-車いすマラソン 平安女学院の前で

▲20140312 KY
保育観、看護観のように、障がい者福祉観といえば、どういうものなのか仲間に聞いたところ、糸賀一雄さんという方を教えてもらいました。早速「福祉の思想」という著書を手に入れて少し読んでいます。

糸賀さんは、知的障害のある子どもたちの福祉と教育に一生を捧げた実践家と言われており、「近江学園」や「びわこ学園」を創設した方です。本の中で、糸賀さんは「人間の新しい価値観の創造」ということを言っています。「精神薄弱(1968年出版なのでこういう言葉で書かれています)という現象が社会で問題となるのは何によってなのか」という、“そもそも”の問いから、人間の価値観に問題性を見出していきます。そして、「この子たち」が社会から疎外され学園のなかで生きてきた取り組みの歴史が、ささやかながらも「人間の新しい価値観の創造をめざす歴史的な闘いの一環でもあった」と。

これまた早速、共同作業所で働く仲間に、こんなこと書いてあったんや!と伝えました。合宿ゼミナールでの学習にも結びつく、まさに未来社会とかかわって、人間の全面的発達の問題だ、と思いました。彼女は、「新しい価値観の創造なんて・・なかなか難しいですよね〜・・」とつぶやいていました。

資本主義の下では、人間能力の発達は「副産物」だと、不破さんは言っていました(「党綱領の力点」148頁)。働く能力、企業の役に立つ能力、お金もうけに役立つ能力が求められる社会。そのなかで共同作業所の役割がどういうところにあるか!面白いと思います。

未来社会では、人間の発達が主目的になる・・そこでは、「人間の新しい価値観」がすでに生まれているのではないか。

さらに糸賀さんはこう言ってます。「人間の新しい価値観の創造などといえばとてつもなく大きなことのようであるが、私たちは、この子どもたちとの共同生活のなかで、いつのまにか私たち自身のこの子たちをみる目の変革を経験させられてきたように思う」と。川島みどりさんは、そのために、まるごと相手を受け入れて理解する方法を訓練しなあかんと言っていました。

資本主義社会がどういう社会であるか、科学的社会主義のものの見方・考え方を学ぶ意義は大きいです。

◎∞∞「人間は成長・発展する」ということを、障害者も傷病者も、KYさんも。すでに学んだ人間論を総動員して考察すなければならない。

●ルソー著「エミール」から
かりに人間が大きく力づよく生まれたとしても、その体と力をもちいることを学ぶまでは、それは人間にとってなんの役にもたつまい。かえってそれは有害なものとなる。ほかの人がかれを助けようとは思わなくなるからだ。そして、ほうりだされたままのその人間は、自分になにが必要かを知るまえに、必要なものが欠乏して死んでしまうだろう。
──略──
死をふせぐことよりも、生きさせることが必要なのだ。生きること、それは呼吸をすることではない。活動することだ。わたしたちの器官、感覚、能力を、わたしたちに存在感をあたえる体のあらゆる部分をもちいることだ。もっとも長生きした人とは、もっとも多くの歳月を生きた人ではなく、もっともよく人生を体験した人だ。百歳で葬られる人が、生まれてすぐ死んだのと同じようなこともある。そんな人は、若いうちに墓場に行ったほうがましだったのだ。せめてその時まで生きることができたならばだ。

 わたしたもの知恵と称するものはすべて卑屈な偏見にすぎない。わたしたちの習慣というものはすべて屈従と拘束にすぎない。社会人は奴隷状態のうちに生まれ、生き、死んでいく。生まれると産着にくるまれる。死ぬと棺桶にいれられる。人間の形をしているあいだは、社会制度にしばられている。


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●2014/03/12 @GAKUTMO
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※3月9日-車いすマラソン 平安女学院の前で

▲20140311TU
東京都知事選を控えたある日、GAKUTOMO仲間が「都知事選までに宮部みゆきの『火車』を読もうと思っているんです。そこに出てくる弁護士のモデルが宇都宮健児さんらしいです。」と教えてくれました。残念ながら宇都宮さんは負けてしまいました。が、もともと宮部みゆきが好きだった私は、その本が気になって仕方なく、ついに購読してしまいました。

さすが宇都宮さん、小説のなかで、「う〜ん」と思わせることを語ってくれます。

「そうです。あなたは今、こう考えておられるかもしれない。なるほど、消費者信用の世界にいろいろ問題があることはよくわかった。構造上の問題、金利の問題、行政の不手際、教育の不足。それはわかった。でもしかし、返すことができないとわかりきっている金を借りてにっちもさっちもいかなくなるのは、やっぱり個人の問題じゃないか。やっぱり、その個人に弱点があるから、世の中を甘く見ているところがあるから、だからそこまで落ち込んでしまうのだ。その証拠に、日本国民全員が多重債務者になるわけじゃない。現に俺だって、そんなふうにはなっていない。まともな、ちゃんとした人間なら大丈夫なはずだ。多重債務を抱えるのは、やっぱり本人に何らかの欠陥や欠点やがあるからなのだ、と。違いますかな?」

そして、自動車事故の例を出して、

「無論、居眠り運転のトラック野郎には過失があった。が、彼をそういう勤務状態においた雇い主にも問題はあった。大型トラックと普通乗用車が一緒に走行するような道路に、衝撃を受け止める中央分離帯をつくらなかった行政側も悪い。道幅が狭いことも悪い。道を広げたくても広げられないのは、自治体の都市計画が悪いからだし、地価が途方もなく高騰しているからでもある」

「そうやって考えてゆくと、事故には無数の原因があるし、理由がある。改善しなければならない点も多々ある。仮に、今ここで、私がそれを全部棚上げしにして、『でも結局は、事故を起こすのは、そのドライバーが悪いからだ。被害者も加害者も同じことだ。まともな人間なら事故など起こさない。事故に遭うのは、そのドライバーに欠点があるからだ』と言ったら、あなたはどう思われますか」

「多重債務者たちを、ひとまとめにして『人間的に欠陥があるからそうなるのだ』と断罪するのは易しいことです。だがそれは、自動車事故に遭ったドライバーを、前後の事情も何も一切斟酌(しんしゃく)せずに、『おまえたちの腕が悪いからそうなるのだ。そういう人間は免許なんかとらないほうがよかったんだ』と切って捨てるのと同じことだ。『それが証拠に、ほら、事故を起こしていない人間だっているじゃないか』とね。そういう人間を見習え、とね」

この小説は、平成4年に出されました。自己責任論が振りまかれる以前です。「ルポ虐待」にしてもそうですが、今は様々なところで、誰しもが陥る可能性のあるものが自己責任とされています。貧困しかり。

宇都宮さんは、こうした自己責任論を早くから批判し、多重債務者の問題に取り組み、サラ金規正法などへと結実させてきたのです。小説を通して凄さを知りました。都知事選で負けたのが本当に悔しい。

京都では、子どもの貧困を目の当たりにした小児科医尾崎望さんが府知事選をたたかうことを決意されています。何としても勝利したいものです。

追伸、マルクス・エンゲルスの時代から自己責任論と対決できる唯一の理論は、科学的社会主義だということも加えておきたいと思います。

◎∞∞社会的関係の中で育まれてきた個人≠ノ対する問題意識が弱いではないか。人間≠ニいう概念で問題をとらえるときこそ、解決の糸口が見えてくるのではないか。以下の引用の「学生」を労働者、青年と読みかえて考えるとき、学習教育活動家の対象者の実像が浮かび上がるのではないか。自己責任を狭くとらえることによって、「自分の今は社会の責任」との開き直りの段階を支持することになる。そこで止まってはならない。人間をとりもどす″s為を問わなければならない。そこから「一人ひとりが大事」がはじまるのだ。自己責任≠ニいう資本のイデオロギーが入り込む素地をもった人間がつくりだされているのだ。

●新村洋史著「人間力を育む教養教育」から
 端的な特徴は、自己を民主的主権者ではなく、大企業の立場にすえて、差別・選別の能力主義(競争主義)の社会や教育を肯定し、人間はそれぞれ「自己中心的な多様な人生を送ればそれでいい」「人はさまざまである」「各人それぞれがどんな人生を送ろうとも自己責任だ」と考える学生が多くなったということである。

 それは言いかえれば、社会への積極的な関心に裏づけられた学習観や、仲間とともに連帯・共同して生きるという「理想主義的学習観」をもてないようにさせられる傾向が深く広く進行しているということである。この意識動向も裏返せば学生に生きることへの恐怖や不安をうむものとなる。

また別の学生たちは、自己に対する意識さえ明瞭にならないまま、ただ浮遊する日常を生きている。この茫漠(ぼうばく)とした「人間・社会現実」感覚と、とらえどころのないような自己の内面状況もまた、学生たちを不安と恐怖に苦しめている現状の特徴である。それが、後の調査で示されるように、「自分というものがわからない」「何事につけても自信がもてない」「自分の意見というものがない」という内面的状況をつくりだしている根本要因であると観ずる。

 「自信がもてない」のは、学生自らも漠然とは気づいているように、自己の人格に届くような学びや「熟慮」する学びを奪われていることが要因である。「自分がわからない」「自分の意見がもてない」ということの要因も同じである。それらの社会的要因こそ、「能力主義教育」という支配的教育現実がうみだす法則である。その法則が「学び」という人間的本質を奪うからである。

 しかし、他方で、自分の求める人間観や生き方を問えば、理想主義的な人間像や学習観を圧倒的に多くの学生たちが、自分の人生目標として書くのである。それは、「建て前」だけのポーズであるとは、決めつけがたい。

 以上のように、学生たちは、一方で、「能力主義(教育)」を肯定する感覚を強めつつも、他方で、理想主義的な人間・社会観を失いきってはいない。この事態は一見すると矛盾である。学生たちの認識は矛盾をはらんだ理解・認識や価値観の混在・混乱や不安定状態にあり、理知的自信をもって統括・総合された域に達していない。これが、事態の真相である。


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●2014/03/11 @GAKUTMO
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※3月9日-車いすマラソン 平安女学院の前で


▲20140311TK
 京都駅前にある企業組合に学習の友を届けに行くと、にぎやかな音や大きな声で何かを訴える様子が聞こえてきます。その音で(お!今日は金曜日だったな)と思います。それは関電前の「金曜日行動」。企業組合の窓口の人も「聞き慣れましたね」と日常のことのように話されています。友を届け企業組合を帰る頃、行動を終えた人たちがすがすがしい顔で、独自の鳴り物アイテムを鞄に片付けながら解散していく人たちの様子も目にしました。
 3月4日のしんぶん赤旗の主張を呼んでみると2012年の3月から始まっているというこの抗議行動。私たちが金曜日だということを忘れていても、毎週必ず行われている。主張は「原発ゼロを求める世論を支えてきた柱の一つ」と金曜日行動を評価しています。そして継続しその世論の存在を示し続けることの重要性も。一つのことを毎週同じ時間に集団で行うことは簡単なことではないと思います。しかしやらなければ危険な原発は再稼働されていく。「何としても止めなければ!」の強い思いが伝わってきます。


◎∞∞何がこうした行動を呼び起こしているのか。人間の命と生活が全面的に否定され取り返すことの出来ないリスク≠もった「原発」だからだ。命の叫びなのだ。人間を殺すな! と。

▲20140309TU
実は、ついにペレットストーブを買いました。一年前から考えていたのですが、寒がりの私は嫁の「あったかいで〜」との誘惑に負け、高額出費。

ペレットストーブはペレット材を用いたストーブのことです。ペレット材とは、要は間伐材や廃材などを原料にして加工した木の燃料チップというところでしょうか。この原料を地域森林から調達するシステムが確立すると、ペレットを軸に地産地消のサイクルをつくることができるそうです。そして、もうひとつ、カーボンニュートラル(二酸化炭素中立性)であるということです。カーボンニュートラルとは、ペレットを燃やしても大気中の二酸化炭素の量を増減させないことをいうそうです。ペレットを燃やしたときに排出する二酸化炭素は、成長過程で吸収したものなので、大気中の二酸化炭素の増減に影響を与えないからとのことです。

問題は、燃料費としてはまだ少し割高ということです。技術と需要が進めばもっと安価になると思うのですが…。

それでも、選んだのは経済的な価値観だけで判断したものより上回る価値があると思うからです。(その経済的価値も原発エネルギーは安価という原発推進派の都合のよい解釈と、電力会社が儲かるようになっているしくみが根底にあるからなのですが…。)いずれにせよ経済的な価値観だけで判断せずに理性的に判断することが求められる時代に入っています。そう、人間が目的とされる社会ということです。

4月6日の京都府知事選。候補者の尾崎さんは、「地域循環」型経済プランを掲げておられます。第12回現代経済学ゼミナールは、「日本のエネルギー問題――再生可能エネルギーをどうみるか」をとりあげます。いろいろなことが結びつくのであります。


◎∞∞マルクスは「資本主義的生産が、いかに急速にかつ深く人民の力の生命源をおかしてしまった」といっている。出来ることは、てまひま≠ゥけておこなうという生活態度を獲得することは並大抵のことではなくなっている。大量生産、大量消費、大量破棄℃ミ会のなかで慣らされた身体と精神……。

マルクス著「資本論」第8章
 経験が資本家一般に示すものは、絶えざる過剰人口、すなわち資本の当面の増殖故に比較しての過剰人口であるとはいえ、この過剰人口の流れは、発育不全な、短命な、急速に交替する、いわばふ未熟のうちに摘み取られる代々の人間から形成されているのではあるが。

もちろん、経験は、他面では、歴史的に言えばやっときのう始まったばかりの資本主義的生産が、いかに急速にかつ深く人民の力の生命源をおかしてしまったか、産業人口の退化が、もっぱら農村から絶えず自然発生的な生命要素を吸収することによっていかに緩慢にされるか、また農村労働者さえも、自由な空気にめぐまれ、彼らのあいだで実に全能の力をもって支配している自然陶汰の原理≠ノより最強個体のみが成長させられているにもかかわらず、すでにいかに衰弱しはじめているか、を賢明な観察者に示している。


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●2014/03/07 @GAKUTMO
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※学習会館の梅の花

▲20140306TU
事務局長作成の「毎日ニュース」で、「君代」を歌う声量を4段階で校長に報告させているという記事が紹介されていました。わが娘は小学1年生。娘が「君が代」を大きな声で歌っている姿を想像すると、とても悲しくなります。こういった思いは、「君が代」が戦前どのように位置付けられていたのかや、先の戦争がどのような性格のものであったのかを認知している程度によって温度差はさまざまなのでしょう。しかし、やはり子どもとかかわり合うことをしごととしている人たちには、本当のこと、正確なことを知っていてほしいし、二度と子どもを戦場に送らないという決意をもって、しごとに向き合ってほしいと思うのです。

不破哲三著「党綱領の力点」では、『憲法改悪をとなえている潮流のなかでは、戦前の憲法にもどろうという流れが強くあることはまちがいありません。では、この流れに立っている政治家たちが、戦前の日本の政治体制をよく知っているかというと、現実にはほとんど知らないのです。』とあります。別の著書では、不破さん自身も軍国少年だったと告白されています。第33回集中セミナーは、『自民党「改憲草案」批判』。子どもとかかわる職業の人にはとりわけたくさんきてほしいし、募集でも力を発揮してほしいと思うのです。それが子どもとかかわる職業人としての責任なのではないでしょうか。


◎∞∞保育園の卒園式から小学校の入学式……子どもにとっては人生の転換点、そこにすり込まれる′Nが代イデオロギー。保育士には関係ないのか?

安部晋三政権の改憲への強烈な執着。改憲戦略と解釈改憲戦略、なにがなんでも、というわけです。その背景をつかむ資料を提供しましょう。不破哲三著「憲法対決の全体像」からの引用です。


──極東でソ連と戦うとき、アメリカの「人的資源」の節約のため、日本に軍隊を創設する必要がある。そのためには憲法が大きな障害になる。憲法をすぐ変えるわけにはゆかないから、いまはまがいものの軍隊(限定的な再軍備)で間に合わせて、「最終的に」は憲法を変えて本格的な軍隊に進む道を考えよう──こういう方針書です。これが、五十八年前のアメリカの決定でした。


日本の憲法改定についてのアメリカの方針(一九四九年決定)

 アメリカのフォレスタル国防長官が、米ソ対決≠フ情勢への軍事的態勢をととのえようと、ロイヤル陸軍長官に、「日本と西ドイツの再軍備」のための方針の研究を指示したのが、一九四八年二月。五月にはその指示に応えた答申「日本の限定的再軍備」が、国防長官に提出された。この答申は、若干の修正をおこなったうえで、翌四九年二月、統合参謀本部の決定、つまりアメリカの軍政首脳部の公的な方針として確認された。
 この決定の中心点は、次のようなものだった。

日本の軍隊創設の理由
「軍事的観点だけから見れば、日本の軍隊を創設することが望ましい。なぜなら、そのような軍隊は、日本防衛の負担を分担することになり、わか国の限りある人的資源の利用における節約という効果をもつからである」。

再軍備をはばむ諸条件
「そのような行動は、日本人が彼らの新しい憲法を改定すること、われわれがポツダム宣言を廃棄することを、必要とする」。

当面すぐやるべきこと
「日本の文民警察の増員」は、「後日問題になる可能性のある日本の軍隊の組織化のための媒体という役割をになうだろう」。「連合国による占領の終結」にあたって、「日本の限定的な再軍備を最終的に確立するための計画」をいまから準備する。「この軍隊は、米国によって組織され、初期の訓練を受け、厳格に監督されなければならない」。

将来の憲法改定と最終的な再軍備をめざす
「防衛のため日本の軍備を最終的に認めるという見地から日本の新憲法の改定を達成するという問題が探究されるべきである」。


 だからみなさん。その後、日本では、最初は警察予備隊という名前で、まがいものの軍隊がつくられたでしょう「一九五○年)。それが、「保安隊」(一九五二年)になり、「自衛隊」(一九五四年)になり、いまのように大きくなってきた。これらは全部、五十八年前にアメリカが決めた筋書きに沿って、おこなわれてきたことでした。

 そして、いよいよ、「最終的」な目標とされてきた憲法改定と本格的な軍隊の創設が日程にのぼってきたわけで、これも、アメリカの発案、アメリカ仕込みの計画なのです。

日本が参加するアメリカの戦争の筋書きが変わってきた

 いま見たように、憲法改定の根本のねらいは、アメリカの戦争のために日本に軍隊を持たせること、日本を、アメリカと肩をならべて戦争のできる国≠ノ変えようというところにあることです。このことは、五十八年前の最初の決定から今日までまったく変わっていません。


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●2014/03/06 @GAKUTMO
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※堀川商店街

▲20140302 SM
3月に入り、京都府知事選挙まで残り1ヶ月となりました。各機関、地域で決起集会や学習会が行われています。今日は、京都府知事候補者の地元地域のつどいに行ってきました。私の職場は同じ地域にあるのですが、普段から地域住民の人達の話を聞く機会がないので、いい機会と思って参加しました。会場には候補者のご家族の方も来られており、立候補する経緯や、それに伴う周りの反応や家族への影響、心境なども話されていました。決意してからは商店街での要求は何かと店の主人と話をされているそうです。そのため「(候補者が)帰宅後も医療、教育、介護、経済など様々な分野の勉強をしています」と言われていました。本もたくさん読むためにインターネットを活用して購入していたそうです。ですが地域住民と寄り添う、地域活性化を謳っているのにインターネットはあかん!地元から購入しなくては…と、今ではO書店で買うようにしているそうです(O書店も大きい資本じゃないの…?と思いましたが…)そんな話しも聞きながら、参加者からの発言で私が指名されてしまいました。春の情勢セミナーで知事選へ向けての学習をし、学習新聞臨時号には情勢セミナーの“京都府民にとって山田府政とは”という講義の中身が紹介され読み返していたので、保育の現状、公的責任の放棄などの問題に対して話をしました。講義の中で「公的責任には相応のコストがかかる。民営化すればたしかに「安上がり」かもしれない。しかし、ことは「いのち」にかかわる問題だという視点が大切…」と話されていました。

今回の話の中で”地域”という話を聞いて、私の園でも地域とのつながりを大切にし、お肉は地域のお肉屋さんで、野菜も八百屋さんで、電気の事も地域の電気屋さんにお願いしているなと考えていました。しかし、企業参入すれば「安上がり」な食材、電化製品を求め大型スーパーなどで仕入れることもあるのではないか!?そうなれば、地域の商店街はますます衰退していく。憲法25条には「すべての国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」と書かれてあります。保育新システムは保育の市場化を図るもの。市場化によって人も地域も切り離され文化を伝えていけないことに怖さを感じました。今その文化も大きく変えようとしている自民党憲法改正草案。「いのち」に関わる問題として、自分たちがしっかりと捉えていくためにも33セミを広く周りの人たちに話していかなければと思いました。


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●2014/03/04 @GAKUTMO
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※学習会館の梅の花

▲20140304TK
 各職場で労働学校や講座の案内に行き、対象者を紹介してもらうときに「あ、あの人は結婚してはるし無理かな」とか「子どもさん小さいし行けないと思うわ」などと、本人が判断をする前に話すことすら断られてしまうことがあります。(そんなん話してみないとわからへんのに・・・)と思いながらも、仕方なく当たれないまま帰ってきます。とくに女性の対象者に対してはそういうことを言われることがあります。

社会の当たり前にとらわれて、対象者自身も結婚したら家事と仕事で動けない、子どもができたら家から出られないと思い込んでいる人も少なくないと思います。私はそういう社会のあり方に対して挑戦をしていきたい。活動は決まった形はないし、だれでも、どんな状況でも続けていけることを実践で示してみたいと思います。

◎∞∞あなたも読んでいる 上田七加子著「道ひとすじ」(中央公論新社)を紹介します。思い出すでしょう。頁130からは、闘いのさなか、病気、妊娠、両親の死亡……。形式的に理解しないで彼女の気持ちに思いを寄せながらゆっくり≠ニ読み直してください。

「だれでも、どんな状況でも続けていけることを実践で示してみたい」という思いを共有してくれるのは、一番身近にいる彼なのです。

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 私は「主人」という呼び方が好きではありません。なんだか夫が「主」で、妻が「従」のような響きが感じられるからです。私は夫婦というのはあくまで対等なパートナー同士だと思っているので、いままで一度も夫のことを「主人」と言ったことはありません。もちろん考え方や感覚は人それぞれですから、他の人が「主人」と言うのを批判するつもりはまったくないのですが。

 とにかく夫は最初から「女房は黙って亭主に仕えろ」式の亭主関白や、私の戦いのテーマである「男性優越主義」などとは、ほど遠い人でした。人間誰しも長所・短所があるものですが、公平さと謙虚さは不破のもつ長所のひとつだと私は思っています。
──略──
 「あなた、「資本論」を一七、一八歳から読んでいるじゃない」と言うと、「『資本論』は何回、何十回読んだからわかったと言えるものではないよ」と不破。私だったら、どんな本でも一度読めば「それは読みました」と言ってしまうところなのですけれど。

 そんな夫の性格は、一〇代の頃も、八〇歳を過ぎたいまも少しも変わりません。二〇〇二年一月から一年間に二三回、共産党の本部で「代々木『資本論』ゼミナール」の講師をやった頃、「最近やっと資本論が掌にのってきた」と話していました。こういうことを言うのは珍しいので、逆に印象に残ったくらいです。いつどんなときでも、「自分はあれができる、これもできる」と自慢したりできないのが不破なのです。
──略──

 ともあれ、そんな夫の性格のおかげもあって、ここまで円満にやってこられたことも事実です。私たちはもともとは他人ですから、意見が合わないことも当然あります。そこは年月をかけて、また、経験をしてお互いの性格を理解するしかありません。ケンカをした記憶は一度もありません。と言っても、若い頃は私のほうからしかけたこともありましたが、夫はどんな問題でも声を荒らげたり、私に対する侮蔑的な言葉を発したり、注文をつけたりすることも一切なかったのでケンカになりようがありません。何ごとにせよ、じっくりとお互いの考えていることを伝えあうことができれば、たいていは解決がつくものです。
──略──

建二郎から七加子へ
 《ところで、君の方は元気かい。思わず長くなってしまって、君がさびしがっているだろうと思うと、僕の方もかけ足で大会までおいこみたい気持だ。家をはなれて旅に出ると、君との生活か僕のなかでしめている圧倒的な比重をひしひしと感じる。夜、宿に帰って来ても、僕の感情や思考そのものがいっこうにおちつかないし、本を読むといっても、大地からはなれた植物みたいに、安らかなおちつきを見出せない。君との生活か「比重」などということではいいあらわせぬほど、僕の全生活になっていることは、そりゃあわかりきったことかもしれないが、心と身体全体で今さらのようにそれを感じている。(それでも、夜は、古本屋でかってきたガンサーの『アフリカの内幕』をよんだり、もってきた『レーニン全集』をよみかえしたり、いちおう勉強はしているから安心してくれたまえ。もっとも時には探偵物で骨休めもするけどネ)》(五七年九月九日付。経営危機に対応する日本鋼業の組合大会に参加するため、九州出張中の手紙から一部を抜粋)

七加子より建二郎へ
《一人になった最初の日。朝から肌寒い。雨がふっていないのに、目にみえないキリがしとしとふりつづけているような天気。
 「今ごろ汽車はどこを走っているかな」「寒くはないだろうか」とまず思う。やっぱり冬の下着をもたせるんだった≠ニも。……こんな思いが一日中頭をはなれない。
 「さあ──、今日から一人の生活だ。どうやって留守中をすごしたもんか」
 「さあ──、一人になったんだ。しっかりしなくては」と考える。一人になった最初の日の気持。いつも同じようだ。
 (中略)
 そして、一人になるといつも思う。「貴方」つてどういう人? どうして私と一緒にいて貴方かいないと私でない≠謔、な人なの。
 貴方は「七加子のセンチ趣味か始ったナ。二人は好き同志だし、夫婦だもの」と言うでしょう。
 でも、私も貴方と一緒の時には、こんなこと、頭に浮かばないのよ。はなれたとき、自分の姿を鏡にうっすことができて、あらためて、私のこと、貴方のこと、二人の結びつきのフシギさを、考えるの。

 このことは、ただ日々をともにしている夫婦、習慣と惰性につつまれた愛で、日々をくらしている夫婦達にくらべ、うんとうんと大事なことだと思う。問題のだしかた、考えること、思うこと、反省することは、二人が二人であって一人だという結びつきの深さをますます深くするだろうし、愛ももっともっと純化するだろうし、そしてお互いがお互いを、すべて知っていると同時に、すべて知らない、しかし、二人で新しく作っていく、貴方、私の性格、才能、愛情、習慣等々に、いつも新しい眼で新しい喜びをもってみつめることかできるでしょうから》
 (五七年一〇月二一日付。賃金闘争の九州オルグとして、八幡に長期滞在中の夫へ宛てた手紙から一部を抜粋)


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●2014/03/03 @GAKUTMO
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※堀川商店街

▲20140302 RK
不破哲三氏の「党綱領の力点」を読みながら、33セミの内容をいかに自分達の日常に引き付けて押し出すかを考えました。

自民党「改憲草案」の持つ意味を自分なりに考えましたが、憲法を(明文または解釈)改憲し権力の縛りをなくすことは、国家の思いどおりに国民を支配し、主権者である国民を国家に従わせ民主主義を否定することにつながると思います。

そう考えながら「力点」を読み進めると P.36に民主主義革命の路線についての文章を見つけました。「戦前の世界の共産主義運動では、発達した資本主義国では、特別な条件がない限り、革命の戦略は社会主義革命だとされていました。しかし、国家権力の性格や農業関係などに封建的な遺物が強く残っているとか、従属国として外国の支配下におかれるなどの状況のあるところでは、発達した資本主義国でも、そういう問題を解決しないと社会主義に進めないので、まず民主主義革命をやりとげて、その後に次の段階で社会主義革命に進むという戦略がとられました」とあります。

戦後60年以上続く自民党政治は、国家的な対米従属とルールなき資本主義路線を続けることで日本国民の民主主義を否定し続けてきましたが、その中で日本の国民は自立した個人として、一人ひとりの民主主義を自覚できているでしょうか。

「力点」のP.70には「そして、この変革をやりとげたら、社会を変える自分の力についての国民の意識が変わることはまちがいありません。いままで日本の国民は自分の力で社会を変えた経験がないのです。しかし、これをやりとげたら、国民の主体的条件そのものが大きく発展し、そのことがより進んだ変革である社会主義に向かって足を踏み出す大きな条件をつくりだすことにもなることはまちがいないでしょう」 と書かれています。

今の日本社会には上から言われたことに従って行動することが当たり前になっていたり、一人ひとりが、自分の意見を主張しづらいような雰囲気があるように思いますが、今の政治体制とそれらは決して無関係ではないように思います。

自立した個人として自分たちのことを自分たちで決めるという、主権者として当たり前の感覚は、その国の民主化の度合いと切り離して考えられるものではなく密接に関わっているのではないか。33セミを憲法改正の部分からだけ捉えるのでなく、自分たちの民主主義を阻むものは何か、どう勝ち取るのかという視点でみると広がりのある内容であると感じました。

◎∞∞読み落とし≠ナすね。落としてならないのは、60年つづく自民党政治が、現在どういう事態にあるのか。変革の視点でとらえると今日はどう時代なのか。「社会的土台の方はどうかというと、70年代にくらべて、自民党型政治の危機ははるかに進み、深刻になっている」「これは、資本主義経済につきものの好況と不況の循環的なくりかえしではなく、日本資本主義そのものの停滞現象」……上部構造での政治反動を規制している社会の土台。RKさんは科学的社会主義を、『知のエッセンス』のマルクスの歴史観を、学んでいるのでしょうか。第2回常任理事会で学習・教育活動家の第1の観点を33セミの中で生かすという方針はどこにいったのでしょうか。


▲20140303.TY
 第147期中央労働学校が22日、“学ぼう”という新しい仲間の思い、そして“学んでほしい”という仲間の思いが結集して、開校することができました。開校オリエンテーションは、初めての仲間たちが集まり、全体が新鮮な雰囲気で、緊張気味です。

 芦田校長先生が、中央労働学校の三つの特徴を話されました。
 一つ目は、20回を通して、経済、政治、社会構造、考え方などを、コンパクトに、本質的に、体系的に、構造的に、学べることです。“他にはない”と中央労働学校開校以来、講師をされている芦田先生が強調されているんですから間違いないです。二つ目は、(今までは、勉強として強制されてきたことが多いかもしれないが)学ぶということが喜びであるということ。ものごとの本質を知るということは、楽しいことなんだと。 三つ目は、みんなで学び合えるということ。いろんな職業(学生さんも)、年齢の方が集まっています。分散会討論などを通じて、自分が関心を示しているのは一面であることがわかります。“ものごとが全面的になってくる。全体にわたって学べる。”“自分も成長するし、まわりの人も成長する。”と重ねて強調されました。

 そして、いよいよ第1週がはじまりました。初めて講義を受ける本科の仲間たちの感想には、驚かされました。
 『今現在の労働基準法に定められている労働時間の制定に長い闘争があったという事(あたりまえのように思っていましたが…)に驚きでした。…』『…16h労働があった時代から1時間短縮するまでにかかった年月は、思っていたよりも長かった。…』といった、先人の闘争があるからこそ、今の私たちの生活・労働につながっているし、現在の私たちの闘争が未来をつくりだす…といった感想も数多くみられています。

 『…生産手段をもつ資本家と、生産手段をもたない労働者という階級があり、資本家の利潤追求のために犠牲になっているのが、実際に生産活動を行う労働者であるということに、この社会の「おかしさ」を感じた。またそのおかしさを解決するのも労働者であることを知り、運動の重要性を感じることができてよかった。』『…労働者が受け取る価値と創り出した価値との差をコントロールするのがマルクスの資本主義なのだと学んだ。』『社会は人が動かしているものだと感じました。マルクスの焦点は、経済と人に着目して、経済を土台、その上に人と論じていますが、人を中心に考える上で経済の在り方を探求し、科学的に論じたと私は解釈しました。…』といった、これからの講義で深めることにつながる感想もたくさんでいます。

 『難しいことばが沢山出てきて、苦手意識のある経済や社会のことだったので、理解が出来ないことが本当に多かった。自分の知らないことはまだまだいっぱいあると感じ、少しずつだけでも、分かれたら良いなと思いました。資本主義ということばしかあまり知らなかったので、今日はなんとなくだけど知れたので、良かったと思います。…』など“難しい…”という率直な感想も複数ありますが、そこに挑戦するからこそ深められるのです。そう“簡単”にはつかめないことも、積み重ねることや、集団的な力で必ず深まることに確信をもって、第147期の本科をみんなでつくりだしたいと、運営委員会も挑戦します!

 開校オリエンテーションで、芦田先生がさらに強調されていたこととして、“2ヶ月後のあなたの変化”があります。20回の講義や、仲間との討論などを通じて、必ず変化・成長できます。その変化・成長は、この本科を紹介してくれた先輩たちの予想を超えるものもあるかもしれません。“仲間の成長に信頼を…”それにこたえる運営委員そして先輩たちの成長も重要な課題になっていると私は思っています。第147期中央労働学校の本科をみんなの力でつくりだしましょう!挑戦の時です!