030610
◎「恋する私」の中には、「恋する私を見ている私」が形成される。──自分を客観化することができるかどうかは、ものごと捉えるうえで大きな意味をもつ。見渡してみると周りには閉じられる♀険性がいっぱいだ。だから出来る限り無関心を装うことを学ぶことになる。その無関心≠ェいまほど危険な時代にあると思う。就業出来ない! ということを巡っても閉じてはいけないのだ。
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ところでその「閉鎖社会だ」だが、私は最近の恋愛を見ていると「ああ、閉じてるな」と思う。たとえばストーカーだ。ストーカーになる人は、決まり切った毎日が繰り返される一人暮らしの中で、一度持った執着心とストーカー行為の生活習慣から抜け出せなくなるという。麻薬中毒のようなものだ。ストーカーがそういう自分をやめるためには、第三者がどうしても必要になるとも言われる。それを聞いた時、私はなぜ江戸時代に現代のようなストーカーがいないか理解した。
江戸時代の生活は、ひとりきりになれないのだ。個人の執着心や生活習慣を繰り返すには、何もかもつつぬけで、あまりにも他人が介在し、おせっかいをやき、何かと批評する。恋愛の現場には常に第三者が存在している。いつでも他人の意見を聞くことも出来るし、聞きたくなくても、誰かが何か言うのだ。その結果、「恋する私」の中には、「恋する私を見ている私」が形成される。「江戸の私」の中には、個人としての私と、社会としての私の両方が、いつもいるのである。江戸の恋はそうやって、どこか冷静で、自分をつきはなしていて、冗談ぽい雰囲気を持つことになる。これが「粋」の原点である。恋は閉じてはいけない。そのためにはまず、個人が閉じてはいけない。
そう考えると閉塞しているのは江戸時代ではなく。現代なのである。
何が、近頃の日本という国もそうだ。アメリカの顔だけ見つめ、誉められたい愛されたい一心で、二人だけの世界に閉じこもってしまった。なにをやっても、どんな報復戦争をしょうが、身を捧げて協力するそうだ。恋には、人間としてそれを乗り越えなければならない時が必ず来るはずだが、もっと広い世界が見えないと、なかなかそうはならない。恋にも政治にも経済も必要なのは、自分の見ているもの、知っている領域(これはふつう「視野」と言う)を、可能な限り広く取ることだろう。
世の中には、自分の知らなかった生き方や、考えてもいなかったような人がいる……。
──(田中優子著「江戸の恋い」集英社新書 11〜12p)
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アメリカ人に尊重されると気持ちがいいということですね。だからなぜそれが気持ちいいのかから考えないと駄目です。やはり過剰に気にしているからだと思いますよ。どう見られているかを。
────(香山・福田著「愛国」問答 中公新書ラクレ184p)
「閉じた世界」では正常な判断はできない、ということだ。自らを客観化することによってこそすべての見えてくるといえるのでしょう。