学習通信030616
◎結局、自己嫌悪って 自信をもちたいという自意識のあらわれなんだ──目の前にならんでいる選択……に踏み出せない。大人と子どもの違いを考えてみても見方・考え方≠ェ問われている。
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自分の意志どおりにことを行うことができるのは、なにかするのに自分の手に他人の手をつなぎたす必要のない人だけだ。そこで、あらゆるよいもののなかで、いちばんよいものは権力ではなく、自由であるということになる。ほんとうに自由な人間は自分ができることだけを欲し、自分の気に入ったことをする。これが私たちの根本的な確率だ。ただこれを子どもに適用されることが問題なのであって、教育の規則はすべてのそこから導かれてくる。
社会は人間をいっそう無力なものにした。社会は自分の力に対する人間の権利を奪いさるばかりではなく、なによりも、人間にとってその力を不十分なものにするからだ。
だからこそ、人間の欲望はその弱さとともに増大するのであって、大人にくらべたばあいの子どもの弱さもそれにもとづいている。
大人が強い存在であり、子どもが弱い存在であるのは、前者が後者より絶対的な力をいっそう多くもっているからではなく、前者はもともと自分で自分の用をたすことができるのに、後者はそれができないからだ。だから大人にはいっそう多くの意志があり、子どもはいっそう多くの気まぐれを起こすことになる。
気まぐれということばを、わたしは、ほんとうに必要でないすべての欲望、他人の助けをまたなければ満足させることができない欲望を意味するものと解する。
(ルソー著「エミール」112〜113p)
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親が乗り越えるべき壁として立ちはだかっていれば、それとの距離をはかることで自分自身の心理的な特性や傾向などを確認していくこともできる。しかし親と自分との間があまりに平らで地続きのまま育つと、大人になってからも自分を親から独立した存在として自覚できなくなってしまうことがあるのだ。そういう意味では、子どもから「あんたみたいな大人にはなりたくない」「お父さんなんて欠点だらけ」などときらわれることのできる親の方が子ども孝行≠ネのかもしれない。
親の送り迎え付きで大学入試を受ける受講生はどうなのだろう。その大学を受けたいと思ったのは自分自身の意志なのだ、と彼らははっきり自覚できているのだろうか。
それとも「お母さんもこの大学に入ってもらいたいみたいだから」と、親の気持ちを肩代わりして受験しただけなのだろうか。もし後者である場合、実際に大学に通い出してから、「ここに来たのは自分の意志じゃなかった、自分はもっと行きたい学校があった」と、はっと気づいて後悔するようなことはないのだろうか。肩を並べて帰る受験生親子たちを身ながら、やや心配になった。
(香山リカ著「若者法則」12〜13p)
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くよくよしないキャンペーン
結局、自己嫌悪って
自信をもちたいという自意識のあらわれなんだね。
できないんだもん
やりたくないんだもん
あわないんだもん
こんな自分て、嫌いだ
うそつきなんだもん
自信がないんだもん
うまくいかないんだもん
まったく、こんな自分って
──友だちがいうにはね、いろいろと欠点が多くて自分に自信がもてないんだって。こんな自分では恋人も頼れないだろうから、早くどうにかしたいっていうわけ。でもそれにが業績が足りないし、努力してもなかなか認めてもらえない。だから悩んでるんだって。
だからさあ。私ちょっと違うと思っちゃた。だって、業績なんて最初から100%自信をもって出すものではないでしょう? みんな迷ったり失敗したりしながらなにかを形にして、それが人に認められたときに、はじめて業績と呼ばれるわけじゃない。
要は、自信が先にくるんじゃなくて、まず業績が積み重なって、その結果として自信がつくんじゃないのかなあ。結局、自己嫌悪って、自意識のあらわれなんだね。
そういえば、一生懸命努力していたり、やりたいことに向かってまっしぐらに走っているときは、自己嫌悪している暇ないもんね。つまり悩むまえにまず行動しちゃえばいいんじゃないかなって思ったの。ということで、私は本日から、「くよくよするまえになにかやってみる」キャンペーンを実施することにしました。
(三宮麻由子著「きっとあなたを励ます「勇気の練習帳」PHP研究所 60〜63p)
「くよくよするまえになにかやってみる」キャンペーン みなさんもやってみてはどうでしょうか。労働学校へ仲間をもとめてやってきません。