学習通信=@030620
◎新しい課題に踏み出すとき、私たちは躊躇します。自分では出来ない! と思ってしまうのです。自分に対する先入観、思いこみです。外からの評価もあります。何かを、誰かを基準にして見てしまうのです。
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私は、「どうせ〜だから」とか「わたしって〜だから」というやってみる前からあきらめるような、自分の枠づけをする考え方が嫌いだ。
(藤原紀香著「藤原主義」幻冬舎 216p)
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長女は、僕にいちばん似ているかもしれない。家族の中のボケの役割をよく演じてくれている。幼稚園の頃、先生に変な子だっていわれて、嫁が怒っていた。だから僕はいった。
「ええ感じやないか。幼稚園の先生には常識の枠があんねや、その枠からはみ出した子は先生にとって変な子ということになるねん。でもな、その枠の中におさまる奴は、その幼稚園の先生超えられんぞ。そやから、幼稚園の先生が変な子だと、理解でけへんっちゅうのは素晴らしい話やないか。なんかおもしろいことになるでえ」
(島田紳助・松本人志著「哲学」幻冬舎 162p)
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私たちのまわりでは、よく、自信があるとか、自信がないとかいう表現がされる。そして、この頃の少しものを考える若い女の人は、何となしこの自信のなさに自分としても苦しんでいることが多いように思えるのはどういうわけだろうか。
一つには、女の与えられる教育というものが、あらゆる意味で不徹底だという理由がある。なまじ専門程度の学校を出ているということで、現実にはかえってその女の人の心がちじかまるということは、深刻に日本の女性の文化のありようを省みさせることなのである。
けれども、自信というものに即してみれば、そもそも自信というものは私たちの生活の実際に、どういう関係を持っているのだろう。でも自信がなくて、といわれる時、それはいつもある一つのことをやって必ず成就する自分に向かっていいきれない場合である。成就するといいきれないから、踏み出せない。そういう時の表現である。
けれでも、いったい自信というものは、そのような好結果の見とおしに対してだけいわれるはずのものだろうか。成功し得る自信というしか、人間の自信ははたしてあり得ないものだろうか。
私はむしろ、行為の動機に対してこそ自信のある、なしといえるのだと思う。あることに動こうとする自分の本心が、人間としてやむにやまれない力におされてのことだという自信があってこそ結果の成功、不成功にかかわりなく、精一杯のところでやって見る勇気を持つ得るのだと思う。
その上で成功すれば成功の過程への自信を、失敗すれば再び失敗しないという自信をつけつつ、人間としての豊かさを増やしてゆけるのだと思う。
行為の動機の誠実さに自分の心のよりどころを置くのではなくて、どうして人生の日々に楽しい一歩を踏んでいかなければならない青春に自信というものがあり得よう。
(宮本百合子著「若き知性に」新日本新書 32〜33p)
17日の学習通信とあわせて読み取ってください。行動の重要性が明らかになります。労働学校で学ぶことは京都ひろしと言えども他にありません。あなたの青春の現瞬間を新しい扉に向かって踏み出そうではありませんか。
03年は21世紀の日本を展望する意義ある年です。そこにそって≠アそ……。