学習通信030624
◎「私がここにいることを、だれかわかってほしい」自分探しはつづいている。その道具≠労働学校で身につけようではないか。6月27日開校です。
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人間として生まれ、心から「自分なんてどうなってもいいや」と思う人はいない。表面的にはいくらすさんで見える場合でも、心の奥では「私が生まれた理由が何かあるはず」と思い、自分を理解し、受け入れてくれるだれかを探している。まったく意味のないふるまいや何の目的もないことばは、ただのひとつもない。これは、精神科医として臨床経験から私が学んだことだ。
もちろん、若者だって同じ。彼らの一見、理解がしたい言動の中にも、それなりのわけやメッセージが隠されている。それはたとえば、「私がここにいることを、だれかわかってほしい」であったり、「僕のかけがえのなさを何か示したい」であったりする。そして、大人がちょっとだけ足をとめてそういう若者を見つめることは、彼らを理解すると同時に、かつて若者であった自分自身やその人生について、もう一度、考えなおしてみることになるはずだ。さらに、若者も大人もみんながよりよく生きるためには、今の社会をどのようにしていけばよいのか、というヒントもそこには含まれる。
(香山リカ著「若者の法則」岩波新書 210p)
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経済的な安定、共同体の崩壊、そして孤独の消失という三つの大きな要因が重なって、他者(社会)とも自己とも対峙する必要がなくなってしまった若者たち。その結果、彼らは、本来、社会と対峙することによって得られたであろう大切な三つのものを身につける機会を逸したことになる。すなわち、「社会性」、「アイデンティティ」、「能力」の三つである。
これらは、彼らが一人前の大人として、これからの人生を生きるうえで欠かすことのできない根元的な要素であった。と同時に、現代の若者たちを一つの世代として迎え入れ、ともに暮らし、ともに生きていかねばならない日本社会全体にとっても、それは社会を維持し、発展させていくうえで、社会の構成員が身につけておかなければならない入場券≠ニでもいうべき不可欠な要素だったのである。しかし、彼らは対峙を免れたことから、その大変な欠陥に気づかないまま、すでに階層をなして社会へ進出しはじめている。そして、その若者たちを取り込むことによって従来からの価値観や規範が徐々に失われ、日本という社会は、社会として一定の秩序を維持していくことすら危ない状態へと追い込まれつつある。これは決して脅しでも、大げさな表現でもない。
(波頭亮著「若者のリアル」日本実業出版社 80〜81p)
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サークルも一つの輪だが──あるいは学校や会社もサークルよりはもうすこし重いけれども(つまり、いったん入ったらなかなかやめにくいけれども)運命というほど深刻なものではなく、私たちの方で選択する余地がある。家族だって、親子の関係で考えると選択の余地はないが、夫婦という関係で考えると選択は自由だ。イヤな相手とは結婚しなければよいのだし、結婚してからイヤになったら別れればよいので、離婚はそう簡単ではないけれども、しかし親子の縁をきるよりは深刻さはすくない。
このように考えると、社会の輪といってもいろいろなタイプがあり、またいろいろな側面があることがわかる。社会についての科学というのはこういう社会の輪を全部研究するもの──。
人情としては人とのつきあいはだれもこれも大事にしたいものばかりだが、ここではまずドライに考えることにしよう。そうすると私たちにとってなによりも重要なことは「生きる」ということだ。このことははっきりしている。私たちが生きていなければ社会というものがなくなってしまう。だから、いろいろな「人の輪」のなかでいちばん大切なものは、生きてゆくうえでどうしても必要なつながりなのである。
(浜林正夫著「社会を科学する」学習の友社 10〜14p)
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ことしの干支が羊だからというわけではない。消費税の増税問題が浮上するたびに、思い出される言葉がある。
「うまいやり方というものは、羊が鳴かないようにして毛をむしることだ。それが税の極意だ。」
当時の中曽根首相が1985年2月20日、衆議院予算委員会で引用した言葉だ。現場にいただけに、メモをとる手がふるえた記憶が残っている。中曽根氏は、税の痛みを感じにくい大型間接税といいたげだった。
(月刊「経済」03年NO.90 5p)
仲間たちは貴方をまっています。労働学校で……。また私たちの働きかけを、職場で街角で……。じっとしていても何も伝わらないのですから。行動の時です。