学習通信030625
 
◎なにか未知の問題にぶつかった時、逃げないで挑戦することが意外に自分を成長させます。毎日の経験の中でなにを選択するのかが問われそうです。労働学校で学ぶことは、これまで経験したことでは捉えきれるものではありません。しかしそれがつかまれたとき、ある人は目からウロコ≠ニいいます。
 
■──
現代はあまりにも科学や技術が進歩してしまった時代です。わたしたちの身の回りには、ものすごいスピードで、モノや情報が、あふれていっています。それは息苦しいほどです。(114p)
 
こんな時代、私たちは、いつのまにか、無意識のうちに、知らないこと、できないことは何もないかのように錯覚し、生きてしまっています。目の前にあることがすべてだと思い、疑いこともせず、当然のこととして受け入れてしまっています。(114p)
 
翻って……と、訳者は、芳賀正光はこう思います。日本人にはこうした健全な猜疑心があるだろうか。私たちはどことなく、社会とか世の中とに流されがちです。「世の中こうだ」とか「これはこういうふうになっている」と言われると、深く考えずに、そういうものかと、納得してしまう傾向があるように思います。(122p)
 
関係ないかもしれませんが、日本には「流しそうめん」があります。流れてくるそうめんに、ハシを伸ばしていると、自分も、満腹したのか、まだお腹がすいているのか、わからなくなってしまいます。でも、相変わらず、機械的にハシは伸ばしたままという……あの流しそうめん的世界に、果たして「個」とか「自分」というものは存在するのでしょうか。
(エム・ハーガ著 芳賀正光訳「アポロってほんとうに月に行ったの?」朝日新聞社 122p)
 
■──
だから科学はいつも常識とは相容れない。科学は常識を打破せんとするものであり、またそれをゆえに必ず常識から反発される。科学の常識に対する闘争は、その成立・発展の歴史に伴う宿命であり、俗人との闘争は科学者の任務であり、かかる対立物の闘争によってのみ、人類の認識は発展する。そして、この闘争は科学者の任務であり、かかる対立物の闘争によってのみ人類の認識は発展する。
 
そして、この闘争において科学的知識が勝利を占めるならば、常識は科学的知識により併呑されることとなるのであるが、それは同時に、科学的知識が常識そのものに転化することに外ならぬのであり、かくして科学的知識は遂に常識をそれ自身のうちに包含し、またはそれ自身が常識のうちに包容されて、自己を止揚(アウフヘーベン)するに至るのである。
 
資本論を読まんとするものは、それは最も厳密なる科学的著作であり、常識に媚びんとするものでなく(いわゆる興論なるものの偏見に迎合することは、俗流経済学の最後の究極目的である)、逆に常識を打破せんとするものであるがゆえに、何よりも先ず、上にのべたるが如き科学の本領を心得てかからなければならぬ。
 
科学は常に常識を打破せんとするものであると、かつて私が公言したとき、ある哲学者はそれを問題にしたそうであるが、哲学者たちがかかることを問題とするほどに、現代の「学問」は俗化しているのであり、その本分を忘却しているのである。諸君がもしかかる俗学者の著作を読まれるならば、諸君は膝をたたいて「なるほど、おれの考えている通りだ」と感歎しうる機会をもたれるだろう。
 
そこには、日々太陽は、あしたには東の空より出で、夕べには西の空に沈む、と書いてある。それは読んで見ると直ちに分かるのであり(実は読まぬ前からわかっていることなのだが)、ことに上手に書き流してあるならば、諸君は恐らく感歎し共鳴することさへおしまれぬであろう。しかし資本論は、一見したところでは、それと全く逆である。
 
私自身の経験からいへば、はじめてこの書に接したとき、これは本気でよろこんでよいものかどうかをうたがったほどに、それは普通の経済学教科書と相違したものに見えた。しかし一見して奇怪な書と感じたこの書こそ、今にして思へば、「我々を取り巻く実在の研究と理解とにとって、今もなお底知れぬ泉として役に立ちつつある・酌めどもつきぬ知識の実」であったのである。
 
「我らによりて教えられ、我らの思想を体得せんとする真実なる希望を有することが、その第1である。しかも彼らの思想を体得せんとするならば、ただこれを味わうだけで、おのれ自身の思想、彼らによって言い表されているかどうかを詮索してはならぬ。もしその書の著者が諸君より賢い人でないのならば、諸君はそれを読む必要はない。また彼にして果たして諸君より賢い人であるならば、多くの点において彼は諸君とその考えを異にするであろう」
 
【注】
「人は良く書を手にして、「これは如何にも良書である──考えている通りのことが書いてある」などと言う。しかしながら実は、「これは奇怪な書である、自分はかつてその様なことは考えなかった。しかし自分はそれを真実と信じる。もしもまた今直ちにそれを信じることが出来なくても、自分は他日これを信じるに至らんことを希望する」という感情を起こすのが本当である。またたとえその程度までに従順でなくも、少なくとも諸君は、著者の意見を知らんがためにその書を読むので、自分自身の意見をそこに発見せんがためでないことを、心得ねばならぬ、もし批判する能力があると考えるなら、後で批評すればよい。最初はともかくこれを理解しなければならぬ。……」(ラスキン)
 
わたしは右 引用をなしてから既に十予年を経過している今日、なほ依然として、右 言葉の正しさを認める。
(河上肇著「資本論入門」青木文庫 1951年 5〜7p)
 
良書の基準は私たちの成長へ資する≠ニいうものですね。一度にわからない本が、まわりにありませんか? それこそ私たちを成長させるヒントをもっているかもしてません。