学習通信030628
 
◎政治とはなにか、われわれにとって。政治家と「日本のわたしたち」の関わり。「らいおんミーティングin官邸」の報道で若い参加者から「国民がいつもお世話になっています」と。躍り上がってよろんこんでいた小泉さん。飯島氏は小泉首相の秘書。
 
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何度も繰り返すようだが、選挙というのは、捕まえる側の警察、報道する側の新聞記者、そして候補者と有権者がおりなす、人を殺さない現代の戦争である。
(飯島勲著「代議士秘書」講談社文庫 128p)
 
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ただ、人間の本質は昔からかわることはない。だから本書の内容がすべて過去のものになるとは私は信じない。だからこそ、なにも大げさにマキャベリなどを持ち出すつもりもないが、リーダーの資質について考えてみたいのである。変革の時代、多くの人びとにとっては混乱と不安のほうが大きい、そんななかで方向を指示し示せる人物の第1の資質はなんだろうか。
 
それは国民から信頼されることではないか。国民におもねったり、その場しのぎのきれいごとをいうだけでは、やがて信頼を失い、ひいては蔑まれることになる。国民は思いの外したたかで賢いのである。
 
時代の流れを体現する人々に信じさせ、明確なビジョンを持ってどこの進めばいいのかを明確に語れる者、変化をおそれず、厳しいことでも必要なことは国民に求められる、ある時には恐れられる者こそが真に国民の信頼を勝ち取るのだと思う。そんな人物のために私は働いてきたと自負している。
 
ふたつめは、決断すべき時に、同時に自らの決断に責任を持つ矜持(きょうじ)があること。これは今の政治家がもっとも不得手とするところだろうが、結局のところリーダーの本質的な仕事はそれにつきる。要は人(組織)を動かすということだから。
 
これを間違いなく確実に実行するためには、必要な情報を入手し、整理し、状況を的確に把握してリーダーの決断を支える優秀なブレーン・スタッフ組織が不可欠である。
 
自身のために尽力する専門性を持った人材集団を擁すること、阿諛追従(あゆついしょう)とは無縁の機動的かつ率直な人材集団を持つこと、これが今の政治家には決定的に不足していると思う。
 
政治は究極的には欲望の調整による権力の争奪である。それを理解しつつ欲望に溺れず、志を持ち続けられる者にしか政治はしてほしくない。
(飯島勲著「代議士秘書」講談社文庫 275〜276p)
 
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選挙には不思議なことがいっぱいある。自転車で宣伝する人たち。受かったらずっと、自転車で国会などに行くのだろうか? なぜ受かった人たちはあんなに喜んでいるのだろう? そりょあ当選したことは嬉しいだろうが、こらから先の大変さを考えれば、そない喜べんだろう。それとも当選することが目的だったのだろうか?
 
オレのようなひねくれ者は涙流して喜んでいるのを見ると、よっぽどおいしいことがあるのかなあ──と思ってしまう。
 
それから、当選したら勝ち=A落選したら負け≠ニいうのも、なんか違う気がしてならない。勝ち負け≠ニいう次元のものなのだろうか。あえて言えば、勝つか負けるかは、これから先の働きしだいではないだろうか?
(松本人志著「「松本」の「遺書」」朝日文庫 238〜239p)
 
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 だれが憲法の主体のなのか、というのはとても重要な問題だ。明治憲法では、主語は天皇であり、最初のことばは「朕」である。明治憲法は天皇の国民への命令の形をとっている(このため、当時、学者たちは、天皇には憲法にしたがう義務はないと言った。命令を下す者は自分の命令にしたがう必要はないのだ)。国民の権利が挙げられているところでも、それは自然権や政治的闘争で国民が獲得したものではなく、天皇からの贈り物とされている。
 
これとは対照的に、日本国憲法は、「日本のわたしたち」からの政府への命令である。憲法は政府を「わたしたち」の命令下に置く。憲法には、政府の持つ権力、持たない権力、政府ができること、できないこと、がはっきり書かれている。そして、政府ができないこととは、ただ単に政府ができるかぎり避けるべきこと、ではない。政府は「私たち」が与えた以上の権限を持っていない。
 
憲法が、政府はある権限を持たないと言う以上、政府は法的にそれができないのだ。もし、政府があえてそれをやったなら、法を犯したことになる。日本国憲法の前文は「われらは、[憲法の原理]に反する一切の憲法、法令及び勅使を排除する」と言う。
 
これはもちろん、この憲法ができる前につくられた法律・法令だけでなく、憲法ができた後、政府や国会が憲法の与えた権限を越えてつくろうとする法律・法令も指す。そして「排除」とは、その中身をほどいて見てみれば、「そういうものにしたがう義務は、ありません」という意味だ。
 
しかし「われら(わたしたち)」とはだれのことなのか。英語版では the Japanese people となっている。これは「日本人民」、「日本民衆」、あるいは「日本人」、「日本の人びと」と訳されうるだろう。
(池田香代子訳「やさしいことばで日本国憲法」マガジンハスウ 66〜67p)
 
「日本のわたしたち」は、あんがいしっかりと見ている。問題はその考えを人生観(世界観=思想=哲学)まで高めきれるかどうかだ。115期労働学校は、130名を超えた。いよいよ200名に向かって……。
21世紀の労働学校は学びごたえ主義