学習通信030702
 
◎極悪な犯罪がふきだしている……。人間の社会にも自然界と同じように法則はあるのか?あるとすれば、それを自覚すれば、突然とおこる事件にも動揺することも少なくなるのではないか……。女性の人格を傷つける犯罪、攻撃的発言がつづいている。その背景にはなにがあるのだろうか。
 
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実は、今述べた科学の構造は」、自然だけでなく人間の行為──歴史や経済や政治や社会における現象──にも適用できると私は考えます。もちろん、自然と人間の行為とは決定的に異なっています。自然は物理法則のもとに決まった運動をしますが、人間には感情があり、きまぐれ・反抗・同情・愛・恨みなどから、ある決まった法則通りには行動しないからです。
 
損とわかっていて不利になるよう動いたり、先入観や偏見で判断を誤ったりするので、人間の行動にすべて同じ原理(有利になる、損をする、正常に判断する)が適用できるとは限りません。推理小説では、このような原理が適用できるという合意が成り立っていて犯人にたどりつくのですが、世の中推理小説のようにはいかず、したがって迷宮入り事件も多いのです。
 
人間がかかわる個々の特殊な事件を見る限り法則性などないように見えますが、歴史的に長い時間で見たり、多くの事例を集めてくると、社会や歴史に一定の法則性が見えてきます。
 
個々の人間はきまぐれでも、大局的には理性的に行動し、最終的には「幸福」のためとか「有利」になるための行動をとっているのです。
 
個人でなく集団(国、地域、学校、会社など)となれば、その度合いはいっそう強まるでしょう。集団を維持するという原理が、個人の感情より優先されるからです。
 
だから、社会や経済の動きも、どのような原理のもとに、どのような行動(運動)をとったか、それはどのような結果(現象)になったか、というつながりの中で理解できると考えています。
 
つまり、「文化系」の分野の現象といえども、自然科学と共通の構造──「原理─運動─現象」──をもっていると思うのです。だから、大学ではそれらの学問を社会科学とか人文科学とか呼んでいます。この構造さえ見抜くことができれば、社会や歴史を体系として理解できるだろう。そう考えて、私はこれらの分野の本も読むことにしています。そして、「理科系」の立場から意見を出せるのではないかと思います。
 
あえて「理科系の立場から」と言ったのは、文化系の学問の場合にも構造をとらえることの大切さと、その構造そのものの変化を押さえること、そして問題に応じて原理や法則に適用限界があることを強調したいからです。
 
自然科学の場合、原理や法則は、最終的には自然の現象によって実証される必要があります。反証された(現象と矛盾する)場合、原理や法則は変更されなければなりません。
 
ところが、社会科学や人文科学の場合、実証も反証もされないことが多く、自分は「こう思う」とか「こう信じる」という話で終わってしまうことが多いのです。そのような場合、いくら議論しても決着がつきません。それが本当に「科学」と呼べるのか疑わしいですが、必要なのは、決着がつく問題とつかない問題をきちんと見わけることです。わたしはそのような観点で、社会の問題にも広く目配りしていきたいと考えています。
(池内了著「科学の考え方・学び方」岩波ジュニア新書 27〜28p)
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 古典力学的な自然現象は、天体の運行に典型的にみられるように、文字どおり繰り返される運動なので、そのなかに法則性があることはだれにでもわかることです。この法則性にしたがって、たとえば日食や月食が何月何日の何時何分に起こるとか、ハレー彗星がつぎは何年後に地球に接近するとか、予測することができます。ところが歴史現象においては、そのようにまったく同じことが繰り返されることはなく、歴史上の出来事は一回限りであり、したがって未来の事件を何月何日と予言することはできません。
 
 この性格の違いを混同して、「自然現象は繰り返すから法則性があるが、歴史は一回限りだから法則性はない」という人がいます。学者でも、観念論の立場に立つ人はそのように考えています。
 
 しかし、繰り返しの法則性と発展の法則性は異なる性質をもっています。繰り返しの法則性は、原因と結果が一致する規則性をいうにすぎません。たとえば、物体は一の力で押されれば一の力で動きます。引力でも磁力でも、その力の大きさに応じて物体は動きます。したがって、原因がわかれば結果は予測できるというわけです。
 
 ところが、発展の法則性というのは、原因と結果のたんなる一致ではなく、非常に複雑な事柄であり、原因と結果は複雑にからみあい、相互に作用しあい、あるいは原因は小さいようでも大きな結果が発展として出てくるという関係です。たとえば、社会人口も少なく生産力も文化水準も低い段階から、時代とともに人口も生産力も増大し、文化水準も高まるというように発展します。
 
歴史的に発展する事柄は、社会現象であれ自然現象であれ、このように複雑ですから、予測もつきにくいわけです。「歴史には法則性はない」という人が出てくるわけです。しかし、発展する事柄は、何月何日にどうなるという予測も計算もできないけれども、「遅かれ早かれ」かならず起こるという法則性があります。
 
歴史の発展は、各民族によって早い遅いの違いはありますが、たとえば原始社会は「遅かれ早かれ」階級社会へと発展し、あるいは旧い封建社会は「遅かれ早かれ」近代市民社会にならざるをえません。そして現代の資本主義社会はまた「遅かれ早かれ」ゆきづまり、搾取も階級もない社会に発展せざるをえません。これが発展の法則性です。
(鰺坂真著「哲学のすすめ」学習の友社 79p)
 
揺らぐことのない人生をだれもが歩みたいとおもっています。何も知らない子どものころ……いろいろ教育され学び受け入れている社会についての理解がなっていなのではないでしょか? 03年7月に、もう一度総合的に再構築してみる値打ちがありそうです。