学習通信030704
 
◎自分ではつかうことのない膨大な札束をかぞえている銀行員。見たこともない商品の記帳をするOL。
 
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なるほど人は、社会的生産のため、いろいろな形で毎日働き、何かを作っています。しかし、いったい本当に創っているという、充実したよろこびがあるでしょうか。正直なところ、ただ働くために働かされているという気持ちではないでしょうか。
 
それは近代社会が、生産力の拡大とともにますます分化され、社会的生産がかならずしも自分本来の創造のよろこびとは一致しないからです。逆にただ生きるために義務づけられ、本意、不本意にかかわらず、働かされている。一つの機械の部分、歯車のように目的を失いながら、ただグルグルまわって働きつづけなければならないのです。
 
「自己疎外」という言葉をご存じでしょう。
 
このような社会の発展とともに、人間一人一人の働きが部品化され、目的、全体性を見失ってくる、人間の本来的な生活から、自分が遠ざけられ、自覚さえ失っている。それが、自己疎外です。
 
自分ではつかうことのない膨大な札束をかぞえている銀行員。見たこともない商品の記帳をするOL。世の中は自分と無関係なところで動いているのです。
 
一日のいちばん長い時間、単一な仕事に自分の本質を見失いながら生きている。
 
たいていの人は、食うためだ。売りわたした時間だから、と割りきって平気でいるように見えます。しかし、自己疎外の毒は、意外に深く、ひろく、人間をむしばんでいるのです。
 
義務づけられた社会生活のなかで、自発性を失い、おさえられている創造欲がなんとかして噴出しようとする。そんな気持はだれにもある。だがその手段が見つからないのです。
(岡本太郎著「今日の芸術」知恵の森文庫 17-18p)
 
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最上の経済学者たちでも「労働」の価値から出発した限りではつまづいた困難、──この困難は、われわれがその代わりに労働力の価値から出発するや否や消滅する。
 
労働力は、われわれの今日の資本主義社会では一商品であり、どの他の商品とも同じように商品であるが、しかしながら全く特殊な一商品である。すなわち労働力は、価値の源泉だという、しかも適当に取扱えばそれ自身の有する価値よりも多くの価値の源泉だという、特殊の属性たる価値創造をもっている。
 
今日の生産状態のもとでは、人間の労働力は、一日間に、それ自身が有し、かつそれ自身に費やされるよりも大きな価値を生産するだけではない。労働力の一日の費用をこえる、労働力の一日の生産物のこの過剰は、あらゆる新たな科学的発見、あらゆる新たな技術的発明とともに増大し、したがって労働日のうち、労働者が自分の日給の代償をはたらき出す部分が短縮され、したがってまた他面では、労働日のうち、彼が資本家に対して代価を支払われないで自分の労働を贈呈せねばならぬ部分が延長される。
 
そしてこれはわれわれの今日の全社会の経済的状態である、──労働者階級だけがすべての価値を生産するのだ。けだし価値というのは、労働を表す別個の表現、すなわち、一定の商品に含まれている社会的必要労働の分量が今日の資本主義社会でいい表される表現に他ならぬのだから。
 
だが、労働者によって生産されたこの価値は、労働者には属さない。それは、原料や機械や道具や、その所有者をして労働者階級の労働力を買うことを得せしめる出資手段やの、所有者に属する。
 
だから労働者階級は、彼らによって生産された全生産物質のうち、ただ一部分を返してもらうだけである。そして、われわれがいま見たように、資本家階級が着服してせいぜいなお地主階級と分配すればよい他の部分は、あらゆる新たな発明および発見とともに増加するのであるが、労働者階級のものとなる部分の方は(頭割りで計算すれば)、ただ極めて徐々に僅かずつ増加するか、また全く増加せず、場合によっては減少することもあるのだ。
 
だが、このますます急速にとって代わりあっているもろもろの発明や発見は、この前代未聞の程度で日々高まってゆく人間労働の多様性は、ついには、今日の資本主義経済がそのために滅亡せざるをえない葛藤をうみだす。
 
一方では、測り知れない厖大な富と、取得者が使いこなしえない諸生産物の過剰。他方では、社会の大衆がプロレタリア化され、賃労働者に転化され、そしてそれ故にこそ、かの過剰生産物をわがものとしてしえなくなる。少数の法外な富裕な階級と、多数の無産賃労働者階級とへの社会の分裂の結果として、この社会はそれ自身の過剰生産物に窒息しながら、その成員の大多数はほとんど、またぜんぜん、極度の窮乏から保護されていない。この状態は日ましにますます度外れとなり、そしてますます不必要となる。それは取り除かねばならぬし、また取り除かれうる。
 
 
一つの新たな社会秩序、すなわち、そこでは今日の階級差別が消滅しており、そしてそこでは──おそらく短い、いくらか不足がちの、しかしいずれにしても道徳的には極めて有益な、過度期ののち──すべての社会成員の既存の厖大な生産諸力の計画的な利用と発達とにより、平等な労働義務のもとで、生活の手段、生活享楽の手段、あらゆる肉体的および精神的能力の発達と活動との手段も、平等かつ絶えずますます充分に自由にしうるような、一つの新たな社会秩序が可能である。そして、労働者たちがますます、この新たな社会秩序を闘いとる決心を固めていること、──このことの証拠は、大洋の両側において、明5月1日と、5月3日の日曜日とに、与えられるのだ。
(カール・マルクス著「賃労と資本」、フリードリヒ・エンゲルスの前書 32-34p)
 
生産手段の社会化が多様な形態をとるだろうが、どんな場合でも、「生産者が主役」という社会主義の原則を踏み外してはならない=B日本の未来を語るときの重要な大原則です。言葉をかえれば労働者が主人公(国民が主人公から……)ということでしょう。その労働者が学ぶところが労働学校です。
 
21世紀に労働学校は学びごたえ主義≠ヘ当然のことなのです。要求や経営主義から内容は決められない。