学習通信030705
 
◎天才とは、学習の産物である。
 
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 勝負は時の運──
 この便利な言葉は、しばしば敗者をいたわるときに使われる。
 負けも連なのだから、気にすることはない。敗戦を不問に付すことができる免罪符である。
 この言葉について、私はこんな風に考えている。

 ゲーム中、「運」は戦いの場にいる両者の間を絶えず行き来する。瞬間、瞬間ではどちらの側にも応分に存在するのだ。
 連続の中にある一瞬、それを自らの手元に引き寄せる。実力のみが、後ろ髪がないと言われる「勝利の女神」の前髪をつかむことを可能にする。アスリートやそれを統率する監督、コーチはそのためにあらゆる努力を重ね、策略を巡らすのである。
 その結果が勝利というかたちで報われる。実力と戦略で、勝利を自分の側に引き込むことができるか、否か一勝者と敗者を分かつのは、まさにその一点のみである。

 そう考えれば「運」と「偶然」もまた別のものである。実力の裏づけなしには、運をつかむことはできない。「運も実力のうち」というが、その言葉どおり、運は実力に包含される。すなわち「必然」である。
(二宮清純著「勝者の思考法」PHP新書 12-13p)
 
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 人間の生涯は、ものごとを学び続ける果てしない旅である。この世に生れおちた瞬間から、人間は学びはじめる。いや、それ以前、母親の胎内ですでに学習ははじまっているらしい。そして、死の床にあっても、病からなにごとかを学ぼうとする人間もいる。

 人間がもっともすばらしい学習能力を発揮するのは、生れてからの数年間である。この時期は明けても暮れても学習の連続である。大きくなるとそんなことはみんなすっかり忘れているが、子供を育ててみれば、人間が生涯の初期においていかに学習意欲に燃え、奇跡のような能力を発揮するか、よくわかるはずである。なにしろ、彼らは、言葉という、ホモ・サピエンスがつくりあげたもののうちでもっとも複雑なものをわずかな期間で習得してしまうのである。言うまでもなく、赤ん坊はけっして本能によって言葉を喋るのではなく、学習しておぼえるのであり、置かれた状況しだいで、世界中のどの言語でもおぼえてしまうのである。

 このような幼児期における言語の習得を出発点として、幼年期から青年期へ、中年期から老年期へと、生涯にわたって学習は続く。もちろん、家庭や学校での勉強だけが学習ではない。一人前に生きてゆくには、置かれた状況に応じて必ずなにごとかを学ばざるをえない。そして、なにごとかを学ぶことができるというのは、生物として高等な能力を持っているしるしである。猫や犬もものを学ぶという高等な能力を持った動物である。しかし、彼らは、生涯の早い時期に学習から解放されているようにうかがえる。人間が他の動物と比較してもっとも異なるのは、なかなか学習から解放されることがないという点にある。人間は生きているかぎり学習から解放されることはないと考えたほうがよさそうだ。

 しかし、いつまでも学び続けなければならないというのは、未熟であることの証拠ではなかろうか。人間が「完成」されることはけっしてないだろう。これまで地球上にあらわれた人類のなかに、「完成された」人間が一人でもいただろうか。
 人間は生れてから死ぬまで、つねに未熟な状態にとどまり、いつまでもなにごとかを学び続ける。しかし、いつまで学び続けても、いぜんとして未熟な状態を脱出できないのはなぜなのか。それは、人間が社会という、変化してやまない不完全なものをつくってしまったからである。もし「完全不変な」社会が実現したら、人間は努力することも、学ぶこともなくなるだろうが、たぶんそういう社会は千年たっても出現しないだろう。

 未熟な人間と不完全な社会──それでも、人間は数えきれないほど多くの世代にわたってものを学び続けて飽きることがなかったのはなぜなのか。

 これに対する答はひとつしかない。
 ものを学ぶことが楽しくてたまらないからである。もちろん、学校の授業や本を読むことばかりが勉強ではない。何か新しいことを知ったり、何か新しい能力を身につけたりすること、そして、それらをさらに深めたり高めたりすること、それがものを学ぶということであって、人間が味わう感動や楽しみの大半は、こういったところから生れてくるものではなかろうか。
 ところで、ものを学ぶ楽しさをもっともよく知っているのが、一般に「天才」と呼ばれている人びとである。天才がどのようにして生れるのかはよくわからないが、ひとつだけ断言できるのは、天才は幼児期にものを学ぶ楽しさを存分に味わっていたにちがいないということである。少なくとも、ものを学ぶ楽しさを体験した人のなかからしか天才は生れないだろう。

 天才が天から与えられたという才能とは、つまりは、ものを学ぶという才能にすぎないのである。天才とは、一般の人間とかけはなれた秘密の能力を持った人間ではなく、だれでも持っている学習能力を、ある限られた狭い対象に向けて集中的に発揮した人間のことである。一般には、天才とは、生れつき特異なすぐれた能力を持っている人間と思われているようであるが、はたしてそうだろうか。私は次のような仮説を立てたい。

 天才とは、学習の産物である。


 この仮説を、世に天才と呼ばれる人びと、あるいはもっと広く、過去にすぐれた仕事をなしとげた人びとの生き方や学習法、仕事ぶりなどを通して検証し、その「勉強術」の秘密をさぐり、それはけっして天才だけのものではなく、程度の差こそあれ、ごくふつうの人びとにも可能であることを考えてみたい、というのがこの本の意図するところである。

(木原武一著「天才の勉強術」新潮選書 10-13p)
 
◎普通の生活のなかでふれ合う一つひとつの事が、刺激になり成長の糧になっていく。問題になっているセクハラ=Bいま女性論をあらためて学びなおしておく必要があろう。それが先進的と自称する人たちの立場だといえよう。