学習通信030706
 
◎絶対許されぬセクハラ行為 
まったく 「共産党もおんなじや ただのおやじやぁ〜」とは娘の弁 まったく。
 
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絶対許されぬセクハラ行為
 酒席であれ、どこであれ、セクハラ行為というのは女性の人権を傷つけるものであって、絶対に許されるべきことではありません。
 今回の日本共産党の幹部の一人であった筆坂氏のセクハラ行為も例外ではありません。この件で日本共産党のとった一連の措置は当然なことだと私は思います。
一部マスコミは興味半分に事実の公開を執拗(しっよう)に迫っていましたが、セクハラ問題の措置で大切なことは、被害者の女性のプライバシーを断固守ることです。
 不必要なことまで公表して、被害女性がいっそう傷つけば、第二セクハラとなることは明らかではないでしょうか。被害を受けた女性も党のとった措置に納得されているということです。
 この問題を機に、女性の人権とプライバシーを大切にしなければ、と思っています。
(しんぶん赤旗「読者のひろば」 030706)
 
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 セクシャル・ハラスメントは、女性を男件の件的対象物としてしか見ない、女件の人格権の侵害です。同時にそれはとりわけ職場では、単に精神的な、個人レベルの問題に止まりません。女性が能力を発揮して充実した職業生活をおくることを妨げる雇用上の件差別の一つと言うべきでしょう。またセクハラがありながらそれを放置するような職場環境であることは、女性を「劣る性」とみなし、男件の補助としての役割に固定する差別的な処遇がまかり通るグレーゾーン≠つくり出すものです。
(川口和子著「雇用における男女平等とは」新日本出版社 28p)
 
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 女らしさ、という表現が女の生活の基準とされるようにまでなってきた社会の歴史の過程で、女がどういう役割を得てきているかといえば、女らしさという観念を女に向かってつくったのはけっして女ではなかった。社会の形成の変遷につれしだいに財産とともにそれを相続する家系を重んじはじめた男が、社会と家庭とを支配するものとしての立場から、その便宜と利害とから、女というものを見て、そこに求めるものを基本として女らしさの観念をまとめてきたのであった。それゆえ、女らしさ、という一つの社会的な意味をもった観念のかためられる道筋で女が演じなければならかった役割は、社会的には女の実権の喪失の姿である。(8〜9頁)
 
原始キリスト教では、キリスト復活の第1の姿をマリアが見たとされて、愛の深さの基準で神への近さがいわれるのだが、後年暗黒時代の教会はやはり女を地獄と一緒に罪業の深いものとして、女に求める女らしさに生活の受動性が強調された。(11頁)
 
 女らしさなどという表現は、雨について雨らしさといのが奇妙であるようにいわば奇妙なものだと思う。社会が進んで万葉集の時代の条件とはまったく異なりつつしかも自然な合理性の上に自由の女の生活が営まれるようになった場合はたして女らしさというような社会感情のヴォキャブラリーが存在しつづけるものだろうか。(12頁)
 
女にっとて一番の困難は、いつとはなし女自身が、その女らしさという観念を何か自分の本態、あるいは本心に付随したもののように思いこんでいる点ではないだろうか、自分の人生での身ごなし、自身のこの社会での足どりに常に何か女らしさの感覚を自ら意識してそれに沿おうとしたり、身をもたせようとしているところに女の悲劇があるのではないだろうか。(13頁)
 
ああはなりたくないと思う、そこまでの知恵にたよって、自分をどう導いてゆくかといえば、自分の娘の代になっても社会事情として何の変化も起こり得ないありきたりの女らしさに、やや自嘲を含んだ眼元の表情で身をおちつけるのである。(16頁)
 
人間としての男の精神と感情との発現が実にさまざまの姿をとってゆくように、女の心の姿も実にさまざまであって、それでいいのではないだろうか。真に憤るだけの心の力をもった女は美しいと思う。真に悲しむべきことを悲しめる女のひとは立派と思う。本当にうれしいことを腹からうれしいと表現する女のひとは、この世の宝ではないだろうか。そして、あらゆるそれらのあらわれは女らしいのだと思う。(18頁)
(宮本百合子著「若き知性に」新日本新書)
 
◎先進的なみなさんは、女性論≠らためて学んでますか? 
ONLY one≠ニ真っ向から対立するものですよ。それを許せますか? みなさん。 起こった結果に対する処置は正しいでしょう。「セクハラを二度とおこさないための根本は、あくまでも女性の人格と尊厳を尊重することにたいする深い認識を共通のものにすること」──学びましょう。