学習通信030708
◎結果として「現代の口紅のルージュとして残り」私たちは「赤い色はきれいだと思う」
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化粧とは実に重要な行為なのだ。
赤い色の認識について「現代人の感覚では、赤い色は美しい色だと考える。しかし、赤い色は赤いから美しいとはいえない」と樋口氏は述べる。「赤は火の色であり、燃える太陽の色であり、流れる血液の色であって、古代人にとっては神秘的な生命力を表すものであり、「悪魔を払う色だとも信じられていた」のだ。「耳とか、目とか、鼻といった肉体の穴に悪魔が入らないように、赤色を塗ったことから、赤色化粧は始ま」りそこから「性意識が本人の自覚を越えて生まれ」結果として「現代の口紅のルージュとして残り」私たちは「赤い色はきれいだと思う」ようになったというのである。
化粧って、ほんとうに奥が深いのだ。(略)
さて、先の亀井氏の論の後半にはさらに化粧という行為の核心に触れる部分がある。
ところで、ほんたうの化粧といふものがある。それは、いかにせば、自分を目だたないやうにするか、自己を隠す化粧術である。これが一番むづかしい。むろん自然のまゝに放っておくのではない。自然のままが一番美しいといふが、もし文字どほり自然のままにしておいたら、頭髪もヒゲも爪も、のび放題になつて、原始人と同じになってしまふ。自然のまゝといふことはありえない。
では自己を隠すとは、どういうことか。隠すことで人に発見を迫るといふことだ。だれの目にもつく化粧は、実は化粧ではない。もしそれが化粧なら、二流の化粧である。一流の化粧とは、よく見て発見しなければわからないやうに出来てゐる化粧のことだ。
この自然のままが一番美しくはないのであるということは、容易には理解を得られないかもしれない。多くの人は自然がいいと思い、自然に憧れる。
そして現代の化粧において、もっとも強く求められる「自然を装う」ということが、実はたいへんに難しい技術を要することは周知の事実であろう。ナチュラル・メイクを完成させるために要する時間と膨大な化粧品を知る人であれば、これは容易に想像のできることである。ナチュラル・メイクの方法は実は自然でもなんでもないのだ。完壁に作り上げられた「自然」が顔の上にあるということにすぎない。
「隠すことで人に発見を迫る」化粧こそが化粧の極致ということになる。まったく目だたないことが、実はその人をそこはかとなく際立たせてしまう。
さて、富岡多恵子氏の随筆「化粧」(『兎のさかだち』、中央公論社、1979年)は、化粧についての別の側面を考えさせてくれる。
先の、自然のままは美しくはないということが起点である。自然に見えることは、自然であることとは異なる。では、はんとうの自然はどうかというとえてしてきたないのである。たとえば、美しい杉林は自然の山の姿であると、遠くから山を眺める私たちは思う。しかし、杉林が、枝の整理もされず、雑木や下草などそのままで生え放題にはっておかれたらどうだろう。整然とした美しさは損なわれるに違いない。また、ジャングルで狼に育てられた少女は究極の自然育ちかもしれない。はんとうに自然であることは想像以上にたいへんなことなのである。
女は外側の美しさではなく、内面の美しさである、という意見のひとも多い。
素顔派、内面派にわたしは反対である。女は化粧した方が美しいし、内面よりも先にやはり外側が美しい方がいいにきまっている。
私は、化粧をした方が美しいといいきれるかというとその方法が大いに問題であるからただ化粧をすればいいとは考えてはいない。が、化粧をするかどうか、外面をどのように作り上げるかということに関しても、「人格」と「美」の一致の問題がかかわることである。それは、化粧が美しくなるために行われる行為として存在する限り無関係とは成り得ないことである。
女のひとの多くは、女というのは顔や姿ではなくココロだと思っている。ココロやアタマでなく女は顔と姿だと思っているひとは少ない。女はココロやアクマより顔だとはっきりいうとたいていの女のひとはいやな顔をする。女は頭がいいより器量がいい方が幸福だなんていうとたいていの女は怒ってしまう。(略)
顔よりココロだというこの派は、どこかで肉体より精神の方が尊いとする精神至上主義のところがある。
(陶智子著「不美人論」平凡新書 112-115p)
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私は外見がキレイであるということより、内面から輝きやオーラがにじみ出てくるような女でいたい。なぜなら、外見のビューティーなんていくらでも作れてしまうことを誰よりもよく知っているから。
「キレイなのは顔やスタイルだけ、化粧をとったら、うすっぺらでからっぽな女」ではあまりに悲しい。
お金さえかければ、プロのアーティストにメイクを施してもらえるし、高い化粧品も揃えられる。極端な話、美容整形だってできる。外見だけを飾り立てるのであれば今の時代、誰だってキレイになれるのだ。
でも、その人の内面からにじみ出る美しさだけは、一朝一夕では作れない。充実した生活を送っているか、周囲の人と心の交流をしているか。人間が醸(かも)し出す雰囲気には、必ず「生き方」が表れる。それは、テレビの画面からすぐにはわからないかもしれない。しかし、長い年月をかけて培(つちか)われた経験や精神力、日々の心がけは、何らかのかたちでみなさんがその人の「気品」として感じるようになるのではないか。
最近、美しさとは、考え方を変えることから生まれると思うようになった。
自分がコンプレックスだと思っていることも考え方を変えれば、個性であり、美しさであるのだ。
そこにいるだけでじわじわとにじみ出る、誰にも真似できない美しさ。生(なま)の女性として、そんな内面をもてるようになりたいと常に思う。
(藤原紀香著「藤原主義」幻冬舎 84-85p)
◎藤原主義……以外にしっかりしたことを言っている、とおもった方も多いのではないか。 「藤原主義」01年に出版された本だが、いまでも本屋の店頭に置かれている。青年と対話ができない……と嘆きに嘆いている方、一読をすすめます。