学習通信030711
 
◎仲間遊びの決定的不足からくる内面の葛藤(かっとう)の貧しさ=B仲間をもとめるのは人間の本質です。
 
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「非行」と向き合う親たちの会副代表
(元家裁調査官) 浅川道雄さん
 
 事件を深く考えるには判断材料が十分ではないが、このごろは、友だち同士で遊ぶよりも、テレビゲームなどでブラウン管と顔を突き合わせて自分を癒やしている子どもたちがいる。とくに少子化時代となり、人間同士の付き合いを通して、葛藤(かっとう)しながら年齢相応に心を育てていく環境が失われている。親もそのことに気が付かない。
 
 バーチャルリアリティー(仮想現実)のとりこになっていると、仮想現実と現実との区別が十分できなくなっているといわれる。今度の事件も現実感覚をもってやったというより、空想と現実がごちゃまぜの世界で起こしてしまった事件ではないか。異性に対する性欲の以前の問題として、現実感覚として生身の体にこだわりがあったのかもしれない。
(しんぶん赤旗030710)
 
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 長崎の教育に詳しい広木克行・神戸大学教授の話
 
 まだ情報が少なく、補導された少年の人物像やどのような影響の下で人格形成がされたのか明確でないため、印象としての話になりますが、報道を見聞して私は、集団に溶けこめず、孤立した少年の姿と、頭と心の成長がアンバランスな少年をイメージしました。
 
 つまり一方では、周囲に彼の気持ちを聞きとってやれる人がいれば、違った展開があったのではないかと思いました。他方では、成績優秀という割には幼すぎる行動にみられるように、仲間遊びの決定的不足からくる内面の葛藤(かっとう)の貧しさを感じました。
 
 そうしたなかで、ゲーム感覚ともいえる現実感のなさで幼児に向けてストレスが吐き出されたのではないでしょうか。裸にして突き落とすという行為には、神戸の洒鬼薔薇事件でも議論になったように、繰り返される暴力に快感を覚える性的倒錯が込められていることも予想されます。
 
 私は最近まで長崎にいて、その教育の現状について調べてきました。同県の高校入試はこれまで総合選抜制で比較的競争が緩やかで、また、不登校も全国一少ない地域でした。ところが今春の入試から単独選抜制になり、競争が強まっています。少年の住む地域はその中でも特に競争が激しい地域として地元では知られていますが、そうしたことも背景として検討すべき問題だと患います。
 
 競争が激しくなると、親や教師は成績のほうに目が奪われ、子どもの内面や表情の変化などに目を向けることが弱くなって、シグナルを見落としやすくなるからです。
 
 また、今回のような深刻な事件については、人権に十分配慮しながら、専門家などにきちんと情報を示して、教訓を導き出す必要があると思います。難しい問題ではありますが、このような事件を繰り返さないために、ぜひともやらなければならないと思います。
(しんぶん赤旗030711)
 
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現代の社会病理の特徴
 真田是さんにきく
 
C子どもの世界と崩壊について
 
 よくいわれているように、非行は今日、第三局面とも第四局面ともいわれています。敗戦後直後には、生き続けるためにどうしてもやらざるをえないような非行がありました。これらは生活型非行です。しかし、1950年代の後半からでした。深刻な動機はないがちょっとした盗みとか、昔だと山と畑へ行って他人のものを取るくらいですんでいたのが、都会の生活だと商品を盗むことになる、これは遊び型非行といいます。
 
 いまの局面は、普通の子どもとか、いわゆる模範生とよばれている子どもに、突如、非行という行為がでてくる。このあたりが第三局面、あるいは第四局面とよばれているものだろうと思います。よく「キレる」と言われます。キレるというのは抑圧力がないという意味で使われています。子どもというのはだれでも、成長の過程で思い通りにならないものにあちこちでぶつかる、ぶつかりながら成長していくものです。そのとき、子どもの世界があるかないかということが大きいのではないかと考えます。
 
 いまは子どもの世界が育っていなくて、あっても子どもの世界といえないような、同年齢のものだけの少数のつきあいなどになっていますから、思い通りにならない事態をお互いにどうやっていくかを学習するような、そんな子どもの世界が失われてきているのが大きいのではないかと思います。
 
 したがって、子どもの世界が解体しているとどういうことになるかというと、社会の病理がダイレクトに子どもに届くようになるのです。今までは子どもの世界で一度ためられるかたちがありました。今の子どもはすぐにキレるという背景に、こういうことがあると思います。
 
 次に個性の発達という問題です。私は今の子どもたちの個性が生まれつき弱いとは考えていません。子どもの成長、発達というのは、同時に社会化していくということであるわけですが、この社会化には大なり小なり適応のプロセスがあります。今の社会なり社会規範なりに適応することが発達を歪めてしまう、ストップさせることがあります。たとえば「できる子になってほしい」とか「いい子になってほしい」とかいうのが、今の社会への適応の課題になります。ところが「いい子」とか「できる子」になるためには、本来の子どもとしての発達課題をゆがめる、犠牲にしてしまうことになります。受験体制などは典型的だと思うのです。中学くらいから学問的な関心をもっている子も、あきらめざるをえない。
 
 適応課題と発達課題が矛盾していない社会の場合はいいのですが、日本の場合はここの矛盾が非常に激しくなってきているのではないか。この結果、脆弱な個性が生み出されてきてしまう。見事に適応しているほめられる子が、じつは脆弱(ぜいじゃく)な個性をつくりだしていて、模範生が突発的な非行にはしる。非行について適応課題と発達課題の関わりで解明できるのではないかと思います。
 
 自分と自分を対決させるというのは、自我というものの大事な役割です。自我の形成とは、自分と自分を対決させる力が出てきたということだと思うのですが、適応課題と発達課題の矛盾のためにこういうものの育つチャンスが失われてきている。
 
 さらに、今の世の中には、いろいろな不安があります。不安の状況は、大人の世界から始まって、子どもの世界なりに受験であるとか進学であるとかという繰り返す不安の状況があり、この不安の解消の手だてがわからないうちは、この不安を攻撃的に表現して逃れようとする。他人を攻撃してみたり、あるいは攻撃の準備をすることによって不安を解消する。ナイフの問題などは、こういう面がかなりあると思うのです。
 
 また、子どもの世界であたりまえの喧嘩というものが、成長の過程にはなくて死に通じやすくなってきてしまっている。これはマスコミの影響が不安との関わりででてきている問題だろうと思います。それに加えて、生きていることの喜びを体験できるような、そういう機会が希薄になっている。
(月刊:経済 1998.8)
 
◎自我の形成とは、自分と自分を対決させる力が出てきたということだ≠ニ。自分を客観視できるということ。労働学校総合コースでは、鰺坂先生がこの問題を解明されています。輝いて生きる≠ニいうことは、単純に「自分の好きなように生きる」ということではないのです。労働学校での論議でも「あてはめ的」な理解におちいります。
もっとOnly one≠どう理解するのか、対話を強めよう。