学習通信030715

◎人間を育てること……。それを疎外する資本主義というシステム。
 
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 しんぶん赤旗030715 読者のひろば ふれだいこ
 
労働基準法改悪
サービス残業はますます増えます
家庭サービスはますます減ります
 ──労働者 京都・TK
 
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 生まれたとき、子どもは叫び声をあげる。子どもの最初の時期は泣いてすごされる。子どもをなだめようとして、人はゆすぶったり、あやしたりする。そうかと思えば、子どもを黙らせようとして、おどしたり、ぶったりする。わたしたちは子どもの気に入るようなことを子どもにもとめるかする。
 
こどもの気まぐれに従うか、わたしたちの気まぐれに子どもを従わせるかする。中間の道はない。子どもは命令するか、命令されなければならない。だから、子どもが最初にいだく観念は支配と服従の観念である。話すこともできないうちに子どもは命令する。行動することもできないうちに服従する。そしてときには、自分の過失を知ることもできないのに、いや、過失をおかすこともできないのに、罰をうける。
 
こうしてはやくから幼い心のうちに情念をそそぎこみながら、人はそれを自然のせいにする。そして、骨を折って子どもを悪くしておきながら、子どもが悪いといって嘆く。
 
 こんなふうに、子どもは女たちのあいだで、彼女の気まぐれと自分の気まぐれの犠牲になって、6、7年をすごす。そしていろんなことを教えられたのちに、人為的に生じて情念によって天性が押し殺されたのちに、この人工的なものは教師の手にあずけられ、教師はもうすっかりつくられている人工的な芽を完全に伸ばすことになり、子どもにあらゆることを教えるが、自分を知ること、自分自身から利益をひきだすこと、生きて幸福になることだけは教えない。
 
そして最後に、奴隷であると同時に暴君であり、学問をつめこまれていると同時に常識をもたず、肉体も精神も同じように虚弱なこの子どもは、社会に投げだされて、その無能ぶり、傲慢(ごうまん)ぶり、そしてあらゆる悪癖をさらけだし、人間のみじめさと邪悪(じゃあく)さを嘆かせることになる。嘆くのはまちがいだ。そういうものはわたしたちの気まぐれから生じた人間なのだ。自然の人間はそれとはちがったふうにつくられる。
 だから、人間がその将来の形を保存することを望むなら、人間がこの世に生まれたときからそれを保護してやらなければならない。
 
うまれたらすぐにかれをしっかりつかんで、大人にならないうちはけっして手放さないことだ。そうしなければとても成功はおぼつかない。
 
ほんとうの乳母は母親であるが、同じように、ほんとうの教師は父親である。父と母とのその仕事の順序においても、教育方法においても完全に一致していなければならない。
 
母親の手から子どもは父親の手に移らなければならない。世界でいちばん有能な先生によってよりも、分別のある平凡は父親によってこそ、子どもはりっぱに教育される。才能が熱意に代わる以上に、熱意は才能に代わることができるはずだ。
 
 しかし、用事が、つとめが、義務が……。ああ、義務。たしかに、いちばん軽い義務は父としての義務なのだ! 二人の結びつきから生まれたものを教育することを怠るような妻をもつ夫が子どもを教育することを怠るとしても、それは驚くにあたらない。
 
家庭の情景以上に魅力ある画面はない。しかし、そこに一点一画でも欠ければ、すべてがみにくくなる。母は健康でないから乳母になることができないということになると、父に用事がたくさんあって、教師にはなれないということになる。
 
 子どもを生ませ養っている父親は、それだけでは自分のつとめの三分の一をはたしているにすぎない。かれは人類には人間をあたえなければならない。社会には社会的な人間をあたえなければならない。国家には市民をあたえなければならない。この三重の責務をはたす能力がありながら、それをはたしていない人間はすべて罪人であり、半分しかはたさないばあいはおそらくいっそう重大な罪人である。父としての義務をはたすことができない人に父になる権利はない。
 
貧困も仕事も世間への気がねも自分の子どもを自分で養い育てることをまぬがれさせる理由にはならない。
 
 よい教師の資格についてはいろいろと議論がある。わたしがもとめる第一の資格、この一つの資格はほかにもたくさんの資格を必要としているのだが、それは金で買えない人間であることだ。金のためにということではできない職業、金のためにやるのではそれにふさわしい人間でなくなるような高尚な職業がある。軍人がそうだ。教師がそうだ。
(ルソー著「エミール」岩波文庫 44-47p)
 
◎かれは人類には人間をあたえなければならない。°`務を果たさなければならない。社会や国家は変わるのですから。教育基本法改悪をめぐる対峙は人間を育て≠驍アとをめぐる闘いなのだ。資本主義を乗りこえていく人間を育て≠ネければならないのだと思います。