学習通信030716
 
◎「科学の目」で青年をとらえよう。未来を切り開くのは青年です。
 
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もちろん、このような経済情勢においては、働きたくても働く先がないという不幸な現実に直面した若者もいるだろう。だが、やむを得ず定職に就くことを諦めた人とは違い、自発的に定職に就くことを拒んだ若者も少ない。彼らこそ、イマドキの若者たちである。
 
なぜ彼らは定職につくことを拒むのか──。
 
 彼らを生み出した社会的背景はいろいろと複雑だし、彼らなりの自己正当化の理由もさまざまではあるが、一言でいってしまえば、ただ「ラクをしたいから」に尽きる。
 
彼らの言い分を丁寧に、辛抱強く聞いていってたどり着くのは、「ラクが一番」という単純な理由である。企業に就職して毎日、決まった時刻に出社し、任せられた仕事をなし遂げるまで働くのはシンドイし、むしろダサイ。そんな大変な思いをしてまで働くくらいなら、クルマを買ったり、海外旅行に行ったりという欲望すら諦めたほうがいい。彼らにとっては、「ラクが一番」なのである。
 
そしていま、街には付加価値を生み出せない非生産的な若者が増殖している。その代表的な存在ともいえるのが、フリーターたちであろう。彼らはどこから生まれ、どこへ行こうとしているのだろうか。
(波頭亮著「若者のリアル」日本実業出版社 16p)
 
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 おそらく、今の若者にとって「楽しむ」とは、単純に「楽をする」こととはかなり違うのだろう。「楽をする」とは、余計なストレスやプレッシャー、厳しさから解放されてダラダラするということだ。それは、若者たちにとっては少しも楽しめることではないのだ。
 
 高度消費社会の若者の中心的な人格、と精神科医たちが考えているものにボーダーライン人格と呼ばれているものがある。彼らは対人関係にしても自己イメージにしても、とにかく価値がひとつに定まらず、極端から極端のあいだをいつも激しく行き来している。
 
まわりから見れば、上きげんになったり落ち込んだり、やさしくなったり腹を立てたり、と落ち着かないことこの上ないのだが、そういう彼らが必ず口にすることばが、「ああ、退屈だな。何かいいことないかな」。
 
 外から「そんなに激しく揺れ動いていては退屈するヒマもないだろう」と見える姿と、本人が「何もない」と思う気持ちとの間には、大きなギャップがあるわけだ。そしてそういう彼らにとっては、その彼らなりの退屈をまぎらわせるために、どうやって「楽しいこと」を見つけるかは、ほとんど命がけの問題なのである。
 
当然、その「楽しいこと」とは、単純にダラダラすることでも激動の対人関係を経験することでもない。苦労や努力をしてでも自分が心から満足し、不安定な自己評価を一定のものに落ち着かせてくれること、それが最も「楽しい」のだと思う。
 
 そう考えれば、必死の練習でオリンピック出場権を得た若者が「楽しんできたい」と言うのも、理解できるはずだ。それは競技を娯楽としていいかげんにやりたい、という意味とは正反対、「これこそが自分なのだ」との実感を十分に味わい、思う存分、力を発揮したいということなのだろう。
 
 「今年の冬はスキーかな」「いや、思い切って南の島でダイビングのライセンスを取ろうか」と真剣にレジャーの相談をしている若者たちにしても、本当に望んでいるのほ「楽をして解放されたい」ということではなく、「一生懸命、楽しんで、自分のまわりに漂う慢性的な退屈、空虚感を取り払いたい」ということだと思う。
 
だから、そうやって「楽しみたい」といつも口にする彼らに対して、単純に楽で面白おかしいカリキュラムを提供するだけの大学というのは、やはり若者の心を読み達えている気もする。本当に若者が「楽しめること」を探して与えてあげるのは、そんなに楽なことではない、ということだ。
(香山リカ著「若者の法則」岩波新書 19-21p)
 
◎労働学校115期では、運営委員の全員が復習レジュメづくりに毎日奮闘しています。講義を1回聴講してつくりあげます。そうとうの集中力が必要です。運営委員会ではその復習レジュメを「学びどころメモ」に発展させようとしています。この姿からは波頭氏の若者論には無理があるように思います。
 
正規職員の現実の労働条件の異常さこそ問題にし、若者すすんで仕事のつける条件こそ獲得すべきでしょう。そもそも仕事が無く、新卒無業が増えているのも波頭氏も含む大人と称するものの責任です。
 
「科学の目」で青年をとらえてこそはじめて労働学校に多くの若者を結集させる企画と実践ができるのです。大いに研究をすすめよう。