学習通信030719
 
◎リーダーは、メンバー一人ひとりから、目標に向けて動くための原動力を引き出さなければならない。
 
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 整列ができなければ競技にも入れない。自分が並ばなかったわけでなくても、叱られるのはもちろんキャプテンだ。友だちでいるときには仲良しだったりかわいい後輩であっても、こうして真剣勝負になると、ことは一変するものらしい。このとき私は初めて、リーダーとは先輩とも友だちとも違う関係で、ふだんとは別の何かを発揮しなければならないものであることを理解したのである。だが、それならリーダーとして、いったいどうすればよいのだろうか。(72)
 
 すべてが終わったとき、私は不思議なことに気がついた。綱引き直前の最後の瞬間、私はサブリーダーを活用することができた。それはそれでよかったのだが、それができたのは、実はここにくるまでに一人ひとりとしっかり会話を重ね、私との信頼を作り上げていたからでもあったろう。確かに、整列とか人の配置のようなことにはサブリーダーの力が有効かもしれない。けれどリーダーの言葉が瞬時に正確に全員の心に伝わるためには、リーダーがサブリーダーに頼ってはいけない場合もあるのではなかろうか。
 
言い換えれば、リーダーは、メンバー一人ひとりから、目標に向けて動くための原動力を引き出さなければならないのではなかろうか。その意味では、私のやり方も一つの方法だったかもしれない。少し遠回りだったけれど、リーダーにはそのように、どこかで労を惜しまずやらなくてはならないことがあるような気がする。(76)
 
 そしてもう一つ、本当にグループが動き出すとき、リーダーはメンバーを祝福していることにも私は気がついた。ニーチェが言った、あの「祝福」である。綱引きに向けた伝言ゲームのとき、私は思わず知らず、「全員が一番大事」という言葉をかけていた。そのときには、仲良しもライバルもなく、低学年も高学年もなかった。すべてのメンバーに、私は心からエールを送り、協力してもらえることを信頼していた。「ちゃんと並んでよ」という祈願は、「みんな大事」という祝福に変わったのである。その私の気持ちが、あの伝言で伝わったのかもしれない。綱引きで感じた力は、みんなの腕の力であったとともに、私が自然に理解した「祝福」の結果だったような気がするのである。(77)
 
 運動会での経験やキビタキ船長のような話から、私はあることを確信した。それは、一つのグループが行動するとき、リーダーだけでなく、メンバーにも重要な役割があるということである。リーダーでもメンバーでも、すべての人がリーダーシップを発揮しなければ、グループは動いていかないのだ。言い換えれば、リーダーとは、たまたまそのときにリーダーのポジションにおかれているだけで、実際にはメンバー全員がグループの行く先や現状を的確に判断し、いつでも最良の決断を下せる能力をもっていなければならないのだ。(81-82)
 
 その意味では、全員がグループを引っ張るリーダーだ。だから誰一人として気を抜いてはならないし、リーダーになったからといってあらゆる権限を濫用できるわけでもない。自分だけでなくメンバーの英断にも耳を傾けて、初めてよいリーダーと言えるのではなかろうか。(82)
 
 そしてよいメンバーとは、リーダーと同様に判断力と英断力をもって、リーダーをサポートできる人ではないかと思うのだ。(82)
 
 どんな気持ちだったにせよ、田畑船長の英断に従った船員たちもまた、船長と同じように愛と決断力をもった素晴らしいメンバーだった、と私は思うのである。(82)
 
心のリーダーになろう
 
 社会には多種多様なタイプのリーダーたちがいる。仕事をするうえで、メンバーとしてこのグループに属するとき、「馬が合わない」といってリーダーを選(え)り好(この)みしていては、どこに行ってもしっかりした活動はできない気がする。メンバーはリーダーに、リーダーはメンバーに対して、大なり小なり言い分があるものではなかろうか。(83)
 
 でもそんなとき、たとえ自分がどちらのポジションにいても、心眼をもって英断を下せば、どんな集団の中にあっても心のリーダーになることができると思う。それは、部下として上司に提案するという形をとることもあるかもしれないし、班員として班長に進言する格好になるかもしれない。だが、そんなことはどうでもよい。一つの判断がリーダーを通してグループを動かせるのなら、それで立派な指導力と言えるからだ。(83)
 
 特に、自分の考えと違うリーダーと仕事をするときには、心の指導力は有効だと思う。喧嘩するのは容易(たやす)いけれど、それよりも相手とがっぷり四つに組んで目標を成し遂げるほうが、人間としてはるかに価値があると思うのだ。(83-84))
 
 とはいえ、実際にはどうするか。私は、まず自分の心のリーダーになってくれる人を見出すことだと思っている。最初から英断が下せるほどの判断力はなかなかつかない。だからまずは、判断のヒントをもっている人に素直な気持ちで力をいただくのである。(84)
 
 グループの中でコミュニケーションがうまく行かないとき、私は決まってそういう人を探してみる。すると不思議なことに、必ず誰かが、思いもよらない視点から助言してくれたり、ときにはリーダーとの懸け橋(かけはし)になってくれたりすることがよくあるのだ。そしてあるときには、私自身が心のリーダーとして、思わぬ場面でグループの気持ちを一つにまとめられることさえあるのだ。「叩けよ、さらば開かれん」である。(84)
 
 リーダーなどと構えてしまえば、この話は縁の遠いテーマに見えるかもしれない。だが、リーダーシップということに焦点を合わせれば、それはけっして他人事ではない。社会の一員として豊かな人生を送るには、誰もが磨くべき精神の一つではないかと、私は思うのである。(84)
(三宮麻由子著「目を閉じて心開いて」岩波ジュニアー新書)
 
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 人間の感情は微妙なことによって大きく作用される。ちょっとした一言で元気がでることもあれば、傷つき落ち込むこともある。教育の現場で、ほめることが子どもたちに大きな励ましになることが繰り返し確認されているように、社会的な実践の現場でも「ほめること」「評価すること」が人間の感情を快適なもの・前向きなものにすることは確かである。
 
 知識も乏しく経験の未熟なメンバーにとって、労働組合に参加し、なんらかの任務をもって活動することはもともと困難な課題である。成育過程で自主的集団活動の経験に乏しいものにとって、一定の任務を担い活動することは、たとえそれが些細なものであっても、想像以上に大きな負担を感じるものである。そうした困難をのりこえ実践したものの、成果が十分あがらず責任を感じ落胆していることもある。また積極的であるが故に多くの任務を引き受け、そのため失敗することもある。
 
 そんなところに、失敗をなじる幹部の心ない一言をあびせられ、大きく傷つけられ、活動を続ける意志も意欲も失うことになる。しかもその批判が根拠もあいまいで的確でないときは、耐えられない感情におちいる。反省よりも恨みに似た無念な気持ちになり、その一言が四六時中頭の中で、エンドレステープのように繰り返される。不幸なことにその一言をぶつけたリーダーは、自分の一言がどんなに心を傷つけたかまったく気がつかないことが少なくない。
 
会社や当局からぶつけられる言葉の暴力もこたえるが、味方のものからの思いもよらない言葉の暴力は、感情のしこりとなっていつまでも残り、活動のパワーを奪うから恐ろしい。もちろんそんな一言にこだわらずに、叱咤激励(しったげきれい)とうけとめ大きな夢をもって奮起すればいいのであるが、そこまで理性的に感情をコントロールできるだけの認識が深まっていない段階では、この「一言」が組織活動に大きな支障をきたす。問題はどこにあるのだろう。それは、リーダーの認識の不十分さにある。その一言が相手に感情的にどんな影響を与えるかが理解できていないことが原因である。
 
 感情のもつこのような受動的側面をもっと重視し、人を批判するときに、どこまでも慎重でなければならない。確かな事実をふまえあたたかい心をもって、互いに活動をねぎらいながらすすめることが大切である。なにが不十分だったのか。なにが誤っていたのか。どうすれば解決できるのか。目の高さを同じにし、ともにはげましあい、ともに責任を分かち合い苦労を共感しながら、理性的科学的に研究するなかで、理性的に静かな反省の心と、感謝の気持ちと、あらたな意欲が湧いてくるのである。
 
そしてリーダーへの尊敬と信頼の念は深まり、組織への愛着も深まるのである。また、活動がうまくいったときはその成果を讃え、達成感をともにし、相互に喜び合うことが大切である。
 
 こうしたことは現実の組織活動のなかで繰り返し確認され、多くの民主的組織が団結を強固にし前進してきたのである。一人ひとりの認識が深まれば、強制も命令もいらない。気持ち良く自主的に安心してのびのびと実践し、失敗してもそこから研究を深め、新たな発見に喜びさえ感じるのである。
 
 方針決定から任務分担にいたるまで、民主主義的な討論や手続きが不十分なまま活動をはじめては、意欲的に参加できないのは当然である。民主的でない組織運営のなかから夢もアイディアもなかなか生まれない。これでは組織の構成員の感情を奮い立たせ実践への意欲を引き出すことは不可能である。指示を待ち、与えられた任務や課題を受け身でとらえる活動では心は動かない。
 
 民主主義的な運営のなかで十分学習と討論が深められたとき、認識の深まりを反映して実践しようという意欲があふれ、びっくりするようなアイディアが生まれてくる。
 
 このような運動のなかでの会議では、いきいきした発言がつづき、それに触発されイメージがふくらみ、自分の言葉でやりたいことを語ってしまう。そのアイディアをあたたかくフォローする発言がさらに続く。自分が認められ、自分がそこにいるという存在感が確かなものになりさらに心が弾む。討論や学習による認識の深まりを土台に、このような「感情」を配慮したきめこまかな組織運営がたたかう人を育てる力になるのであろう。
 
 本来、民主的組織は理性と人間性に貫かれたものであるべきものであるが、それが現実のものになるための障害も少なくない。
 
 「人」が組織をつくり、組織が「人」をつくる。資本主義社会のもとでの会社という組織が、ゆがんだ人格の「人」を生み出す。階級闘争の担い手としての「人」も、資本主義が育てた「人」以外ではない。
 
 ルールなき資本主義のもとで、正規労働者同士も熾烈(しれつ)な競争のなかにおかれ、その正規労働者が、劣悪な労働条件で働かされるパート・アルバイト・臨時職員に対して冷酷(れいこく)で差別的な言葉をぶつけ、同じ職場に働く労働者同士とは思えないほどひどい言葉が飛び交い、心をずたずたにされる職場が少なくない。
 
 非人間的な組織のなかで、知らず知らずの間に人の心を傷つける言動を平気でしてしまう「人」になってしまうからこわい。
 
 組織は「人」であり、その「人」も社会のなかで歴史的に形成されるものである。今日の学校教育や職場の現実をみると、他者を人間として尊重し心を通わせ学び合う民主主義的な感覚を身につけた「人」が育つ条件が乏しくなっている。共通の目標に向かって知恵と力を出し合い、自分にはない他者の優れた知性や感性に感嘆したり、ときにはお互いの意見をぶつけあったりする組織活動のなかで、人の心を読みとり感情の機微に触れた対話ができるようになり、良好な人間関係を育む力を身につけることができるのである。
 
 今日の階級闘争は闘争課題が多岐にわたり、一つ一つが簡単には進展しないものが多く時間と労力がかかる。このきびしい現状のなかで、一つの課題をじっくりととりくみ、人を育てながら活動をすすめる余裕がないためか、機械的官僚的な組織運営に流れ易く、人間性豊かで、組織運営に習熟した幹部が育つ条件がきびしい状況にあるように思われる。
 
 組織の民主的成熟度の不十分さを反映して「組織とは非人間的で冷酷なもの」という印象が一部に生まれ、それがやがて思想となり一定の広がりをみせているのであろう。
(鰺坂真編著「史的唯物論の現代的課題-第3章 感情と認識 中田進執筆 97-99p)
 
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◎リーダーの役割が大きいことは、どんなことを求める運動(集団)であっても≠サれに関わった人ならだれでもが認めることです。その不足が目立っています、と。これは、リーダーを育てる私たち(現リーダー)の目が曇っているからです。労働学校では、3ヶ月の受講と3ヶ月の運営活動の経験から「だれでも」がリーダーとして活躍しています。
 
三宮氏の指摘は、労働学校での実践にぴったりです。だれでもがリーダーなのですし、そうなるのです。中田氏の指摘は、運動の習熟(?)したリーダー(幹部)の姿勢が取り上げられています。重要な指摘です。ただ、21世紀の若いリーダーの中には、問題を問題として指摘しない傾向が強いのも現状です。いわば「サークル的仲間意識」とでもいうのでしょうか。具体的には「茶化」したり「干渉したり」おしゃべりリーダーが多い。これでは、共に成長することはできません。
 
三宮氏の抜粋は、過去の学習通信≠ノも出ています。念のため。