学習通信030723
◎日本社会の否定の否定≠ヘどのようにすすむのか。受動的な学習姿勢でなく攻勢的な姿勢こそもとめられています。
 
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 マルクスでは、こう言われている、──「これは否定の否定である。この否定は、個人的所有を再建するが、しかし、資本主義時代の成果──すなわち、自由な労働者たちの協業と、土地の、ならびに労働そのものによって生産された生産手段の、彼らの共同所有と──を基礎として、そうするのである。
 
諸個人の自己労働にもとづく分散的な私的所有の資本主義的な私的所有への転化は、もちろん、事実上すでに社会的生産経営にもとづいている資本主義的な私的所有の社会的所有への転化よりも、比較にならないほど長くかかる、苦しい、困難な過程である」 〔『資本論』第二版、793ページ。第二版の文言は現行版と異なっている。訳者注解、参照〕。ただこれだけである。
 
<収奪者の収奪>によってつくりだされる状態は、つまり、<個人的所有の再建であるが、しかし、土地および労働そのものによって生産された生産手段の社会的所有を基礎としての再建である>、と言われているのである。これは、ドイツ語のわかる人ならだれにとっても、<《社会的所有》というのは、土地とその他の生産手段とに拡がっており、《個人的軒有》というのは、生産物〔初版では「それ以外の生産物」〕すなわち消費対象に及んでいる>、という意味である。
 
そして、事柄が六歳の子どもにもわかるように、マルクスは、〔『資本論』第二版の〕56ページで、「共同的生産手段で労働し、自分たちの多数の個人的労働力を自覚的に一つの社会的労働力として支出する、自由な人びとの連合体」を、つまり、社会主義的に組織された連合体を、想定して、こう言う、──「この連合体の総生産物は一つの社会的生産物である。
 
この生産物の一部分は、ふたたび生産手段として用いられる。この部分は、依然として社会的なものである。しかし、もう一つの部分は、生活手段として、連合体の成日月によって消費される。この部分は、だから、彼らのあいだで分配されなければならない」〔Ta 133ページ、@、同ページ〕、と。そして、これは、なんと言ったって、デューリング氏のヘーゲル化した頭にとってさ、え、十分に明瞭なことではないか。(187-188p)
 
 では、マルクスでは、<否定の否定>はどういう役割を演じているのか? 791ページ以下〔第二四章第七節「資本主義的蓄積の歴史的傾向」〕で、彼は、それに先立つ50ページにわたって行なった、いわゆる<資本の本源的蓄積>についての経済学的および歴史的研究の結論を総括している。
 
資本主義時代以前には、少なくともイギリスでは、労働者が自分の生産手段を私有していることを基礎とする小経営が行なわれていた。いわゆる<資本の本源的蓄積>とは、ここでは、こうした直接的生産者を収奪すること、すなわち、自分の労働にもとづく私的所有を解消させること、であった。
 
これができるようになったのは、前記の小経営が、ただ生産および社会のせまい自然生的な限界としか両立できないものであって、だから、或る高度に達すると、自分自身をほろぼす物質的手段を生み出すからである。この滅亡が、すなわち、個人的で分散した生産手段から社会的に集積された生産手段への転化ということが、資本の前史である。
 
労働者がプロレタリアに転化され、その労働条件が資本に転化されたとたんに、資本主義的生産様式が自分の足で立つようになったとたんに、労働のそれ以上の社会化と、土地とその他の生産手段とのそれ以上の〔資本への〕転化とは、だから、私的所有者のそれ以上の収奪は、新しい形をとるようになる。
 
「いまや収奪されなければならないのは、もはや自営的労働者ではなく、多数の労働者を搾取する資本家である。こうした収奪は、資本主義的生産そのものの内的諸法別の作用によって、諸資本の集積によって、行なわれる。どの一人の資本家も、多数の資本家を打ちほろぼす。
 
この集積すなわち少数の資本家による多数の資本家の収奪と手をたずさえて、ますます大きくなる規模での労働過程の協業的形態が、科学の意識的な技術学的応用が、土地の計画的な共同利用が、労働手段のただ共同的にしか使用できない労働手段への転化が、結合された社会的労働が共同の生産手段として使用されることによるすべての生産手段の節約が、発展していく。
 
この転化過程のすべての利益を横領し独占する大資本家の数が絶えず減少していくのにつれて、貧困・圧迫・隷属・堕落・搾取の総量が増大する。しかし、絶えず膨張していき資本主義的生産過程そのものの機構によって訓練され結合され組織される労働者階級の反抗も、増大する。
 
資本は、資本とともにまた資本のもとで開花してきたこの生産様式の桎梏となる。生産手段の集積と労働の社会化とは、これがそうした資本主義的な外被と両立できなくなる一点に到達する。この外被は爆破される。資本主義的私的所有の弔鐘が鳴る。収奪者が収奪される」〔『資本論第二版、792/93ページ。第二版の文言は現行版と異なっている。訳者注解、参照〕。
 
 そこで、読者にお尋ねする、──弁証法ふうに込み入った錯綜と観念の唐草模様とは、どこにあるのか?それによると結局はすべてが一つになってしまうという、ごたまぜの間違った観念は、どこにあるのか?信者たちのための弁証法的奇跡は、どこにあるのか? デューリング氏によるとマルクスが自分の展開を仕上げるのに欠かすことができないものだという、弁証法の秘密のがらくたとヘーゲルのロゴス説に準拠した錯綜した議論とは、どこにあるのか? と。
 
マルクスは、<むかし小経営が自分自身の発展によって自分の滅亡のための諸条件を、すなわち、小所有者が没収されるための諸条件を、生み出したのとまったく同じように、いま資本主義的生産様式も、自分が没落しなければならないようになる物質的諸条件をやはり自分で生み出したのだ>、ということを、歴史的に立証して、ここで簡潔に総括しているだけのことである。この過程は、一つの歴史的過程であって、それが同時に一つの弁証法的過程であっても、このことは、デューリング氏にとってどれほど不快であろうと、マルクスの罪ではない。
 
 マルクスは、自分の歴史的=経済学的証明が終わったあとで、はじめていま、続けてつぎのように述べる──「資本主義的な生産様式および取得様式は、それゆえ資本主義的な私的所有は、自分の労働にもとづく個人的な私的所有の最初の否定である。資本主義的生産の否定は、自分自身によって、一つの自然過程の必然性をもって、生産される。これは否定の否定である」うんぬん<前に引用したとおり>、と〔同、第二版、793ページ。第二版の文言は現行版と異なっている。訳者注解、参照〕。
 
 だから、マルクスは、<この出来事を《否定の否定》と言いあらわすことによって、それを一つの歴史的に必然的なものであると証明しよう>、と思っているわけではない。その反対である。この出来事が実際に一部は起こっており一部はこれから起こらずにはいないことを歴史的に証明したあとで、これにつけ加えて、その出来事を<或る特定の弁証法的法則に従って生じる一つの出来事〉と言いあらわしているのである。
 
ただそれだけのことである。だから、《否定の否定》が、ここでは、過去の胎内から将来を分娩させる産婆の役をつとめなければならない、とか、マルクスが、〈《否定の否定》を信用して、土地および資本の共有制(資本の共有制とは、それ自体、デューリングの言う《肉体をそな、是矛盾》である)の必然性を納得せよ〉、と要求している、とか、とデューリング氏が主張しているのは、またしてもデューリング氏のまったくのなすりつけである。
 
 たとえば形式論理学や初等数学は、狭く解すれば、ただの証明の用具と解することができるであろうが、デューリング氏が弁証法を同じようにただの証明用具と見なしていることは、それ自体、弁証法の本性についての認識をまったく欠いたものである。
 
形式論理学でさえ、なによりもまず、新しい結果を見いだすための、既知のものから未知のものへ進むための、方法である。弁証法も同じものであるが、ただはるかに卓越した意味でそうなのである。そのうえ、弁証法は、形式論理学の狭い視野を突破するものであるから、一つのもっと包括的な世界観の萌芽を含んでいるのである。
(エンゲルス著「反デューリング論」新日本出版社 187-192p)
 
 
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日本共産党綱領改定案
 
(一五)日本の社会発展の次の段階では、資本主義を乗り越え、社会主義・共産主義の社会への前進をはかる社会主義的変革が、課題となる。これまでの世界では、資本主義時代の高度な経済的・社会的な達成を踏まえて、社会主義的変革に本格的に取り組んだ経験はなかった。発達した資本主義の国での社会主義・共産主義への前進をめざす取り組みは、二一世紀の新しい世界史的な課題である。
 
 社会主義的変革の中心は、主要な生産手段の所有・管理・運営を社会の手に移す生産手段の社会化である。社会化の対象となるのは生産手段だけで、生活手段については、この社会の発展のあらゆる段階を通じて、私有財産が保障される。
 
 生産手段の社会化は、人間による人間の搾取を廃止し、すべての人間の生活を向上させ、社会から貧困をなくすとともに、労働時間の抜本的な短縮を可能にし、社会のすべての成員の人間的発達を保障する土台をつくりだす。
 
 生産手段の社会化は、生産と経済の推進力を資本の利潤追求から社会および社会の成員の物質的精神的な生活の発展に移し、経済の計画的な運営によって、くりかえしの不況を取り除き、環境破壊や社会的格差の拡大などへの有効な規制を可能にする。
 
 生産手段の社会化は、経済を利潤第一主義の狭い枠組みから解放することによって、人間社会を支える物質的生産力の新たな飛躍的な発展の条件をつくりだす。
 
 社会主義・共産主義の日本では、民主主義と自由の成果をはじめ、資本主義時代の価値ある成果のすべてが、受けつがれ、いっそう発展させられる。「搾取の自由」は制限され、改革の前進のなかで廃止をめざす。搾取の廃止によって、人間が、ほんとうの意味で、社会の主人公となる道が開かれ、「国民が主人公」という民主主義の理念は、政治・経済・文化・社会の全体にわたって、社会的な現実となる。
 
 さまざまな思想・信条の自由、反対政党を含む政治活動の自由は厳格に保障される。「社会主義」の名のもとに、特定の政党に「指導」政党としての特権を与えたり、特定の世界観を「国定の哲学」と意義づけたりすることは、日本における社会主義の道とは無縁であり、きびしくしりぞけられる。
 
 社会主義・共産主義の社会がさらに高度な発展をとげ、搾取や抑圧を知らない世代が多数を占めるようになったとき、原則としていっさいの強制のない、国家権力そのものが不必要になる社会、人間による人間の搾取もなく、抑圧も戦争もない、真に平等で自由な人間関係からなる共同社会への本格的な展望が開かれる。
 
 人類は、こうして、本当の意味で人間的な生存と生活の諸条件をかちとり、人類史の新しい発展段階に足を踏み出すことになる。
 
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日本共産党綱領改定案の報告
 
 第一五節(その三)――「生産手段の社会化」と生活手段の分野での私有財産の保障
 
 この節では、つづく文章で、社会主義的変革の内容が、生産手段の社会化にあることを、明確にしています。
 
 「社会主義的変革の中心は、主要な生産手段の所有・管理・運営を社会の手に移す生産手段の社会化である」(第一五節の二つ目の段落)
 
 この問題は、二段階論を未来社会の中心においていた時には、あまり前面に出なかったことですが、改定案では、これを社会主義的変革と未来社会論の正面にすえました。
 
 社会主義的変革の内容を、マルクス、エンゲルスが「生産手段の社会化」という形で定式化するようになった転機は、実は、一八六七年の『資本論』第一部の完成にありました。マルクスは、『資本論』で資本主義社会のしくみを徹底的に研究し、そこから、共産主義社会への移行の必然性が、どのようにして生まれるのかを分析しました。
 
なかでも、マルクスが注目した一つの点は、工場の現場では、すでに現実に、集団としての労働者が、巨大な生産手段を自分たちの手で動かしている、この労働者の集団が、資本家の指揮のもとにではなく、自分たちで生産手段をにぎり、自分たちの管理のもとに動かすようになることが、社会主義・共産主義への前進となるのだ、ということでした。そこから、マルクスは、社会主義的変革の目標についての「生産手段の社会化」という定式化を生み出したのです。
 
 この定式化は、もう一つの重大な成果を生み出しました。それは、いわゆる私有財産の問題に、きちんとした解決を与えることができるようになったことです。
 
 すなわち、社会化と私有財産の関係について、
 ――この変革によって社会化されるのは、生産手段だけで、生活手段を社会化する必要はない、
 ――逆に、生活手段については、私有財産として生産者自身のものになる権利が保障される、
 
 こういう形で、問題が理論的に整理されるようになりました。
 『資本論』の刊行から間もない時期に、こういう事件がありました。当時、インタナショナル(国際労働者協会)という国際組織ができて、マルクスがその指導的なメンバーとなっていましたが、この組織に、いろいろな方面から、激しい反共攻撃がくわえられました。その一つに、インタナショナルは「労働者から財産を奪う」という非難があったのですが、インタナショナルの会議で、エンゲルスがただちに反撃をくわえました。その立場は明確です。
 
 「インタナショナルは、個々人に彼自身の労働の果実を保障する個人的な財産を廃止する意図はなく、反対にそれ〔個人的財産〕を確立しようと意図しているのである」(全集(17)六一五ページ)
 
 反撃はきわめて明りょうです。「生産手段の社会化」という定式を確立したことが、私有財産の問題でも、反共攻撃を許さない明確な足場をきずくことに結びついたのです。
 
 この立場は、私有財産の問題での原則的なものとして、改定案に明記されています。
 
 「社会化の対象となるのは生産手段だけで、生活手段については、この社会の発展のあらゆる段階を通じて、私有財産が保障される」(第一五節の二つ目の段落)
 
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◎日本共産党の綱領改定案は、《否定の否定》を明らかにしています。「反デューリング論」では、引用した後に、数学について、オオムギについて、昆虫について、地質学について、数学について、歴史について、哲学について、最後のルソーの平等論について、あげながら《否定の否定》について叙述しています。
 
提案を「ああなるほど」などと受動的にとらえるのでなく、攻勢的に、これまでに学んできた人は、その蓄積≠ひっさげ、学べていない人は、あらためて原典を学び科学的社会主義を思想まで高める最高の機会にしようではありませんか。私もあらためて「反デューリング論」を学びなおし、みなさんに学習通信≠オていきます。ぜひ一緒に学びましょう。