学習通信030724
 
◎私的所有の発生……。この所属するということばを説明して、わたしは、かれがそこに時間を、労働を、労苦を、要するにかれの体をついやしたこと
 
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子どもというものは、人ではなく物を攻撃するのであって、やがてかれは、経験によって、年齢においても力においても自分より上にある者をだれでも尊敬することを学ぶ。しかし事物は自分で身をまもることはしない。そこで、子どもにあたえなければならない最初の観念は、自由の観念よりもむしろ所有の観念であるが、所有の観念をもつことができるためには、子どもが自分でなにかを所有していなければならない。
 
衣類や家具やおもちゃを例にとりあげるのは、なんの意味もない。そういうものを子どもは自由にしているわけだが、なぜ、どうしてそれらを手に入れたのか、子どもは知らないからだ。人がくれたからもっているのだ、と言ったところで、たいしたことはわからない。
 
あたえるためにはもっていなければならず、したがって、子どもが所有するまえに所有ということがあるのだが、説明しようとするのは所有ということの原理なのだ。それに、あたえるということは一つの約束ごとであるが、子どもにはまだ約束ごととはどういうことかわからないのだ。
 
読者よ、お願いする、よく注意していただきたい。この例においても、他の無数の例においてもみられるように、人は子どもの能力ではなんの意味ももたないことばをかれらの頭におしこんで、しかもかれらを十分によく教育したと信じているのだ。
 
 そこで所有ということの起源にさかのぼることが問題となる。そこから最初の観念が生じてくるはずだからだ。
 
子どもは、田舎で生活しているので、田園の仕事についてすでにいくらか知識をもっていることになるだろう。そのためには目とひまがあればたりるのだが、子どもにはそのどちらもある。創造し、模倣し、生産し、力と活動のしるしを示すことは、あらゆる年齢の人の望むところだし、とくに子どもの望むところだ。畑をたがやし種をまく、野菜がのび成長する、そういうことを二度と見ないうちに、子どもは自分でも畑仕事をやってみたくなるだろう。
 
 すでにきめた原則にしたがって、わたしは子どもの望むことに反対しない。それどころかわたしはそれをすすめてやる。わたしは子どもと同じ趣味をもち、一緒に仕事をする。それもかれを喜ばせるためにではなく、自分の楽しみのためにだ。とにかく子どもはそう信じている。わたしはかれの作男になる。かれに力がついてくるまでのあいだ、わたしはかれに代わって畑をたがやす。
 
かれはそこにそら豆を植えて、その土地を占有する。そしてこの占有はたしかに、ヌニェス・バルボアが南の海の海岸に国旗をうちたててスペイン王の名において南アメリカを占有したときの占有行為よりもいっそう神聖で尊敬すべきものだ。
 
 わたしたちは毎日そら豆に水をやりにくる。そら豆がのびてくるのを見てうれしくてたまらない。わたしは、これはあなたに所属するものです、と言ってかれの喜びをさらに大きくする。
 
またそのとき、この所属するということばを説明して、わたしは、かれがそこに時間を、労働を、労苦を、要するにかれの体をついやしたこと、その土地にはかれ自身に属するなにものかがあるのであって、相手がだれであろうとかれは断固としてそれを要求できる、それは、ちょうど、かれがいやがるのにひきとめようとする他人の手から自分の腕をひきぬくことができるのと同じことである、ということをわからせる。(142-143p)
 
 子どもに原始的な観念をのみこませる方法についてのこのようなこころみには、所有の観念がおのずから労働による最初の占有者の権利にさかのほるみちすじが明らかに見られる。これは明確、単純で、しかもすべて子どもの能力で理解できることだ。そこから所有権と交換ということにいたるには、ただ一歩すすめばいいが、そのあとは説明をうちきらなければならない。(146p)
(ルソー著「エミール」岩波文庫 142-146p)
 
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 そもそも私的所有というものは、歴史のなかで、けっして強奪と強力との結果として登場してくるのではない。反対である。或る種の物に限られてはいても、すでにすべての文化民族の太古の自然生的な共同体のうちに存在している=早くもこの共同体の内部で、はじめは外部の人間との交換において、発展して商品の形をとる。
 
共同体の生産物が商品形態をとることが多くなればなるほど、すなわち、生産物のうちで生産者自身の使用のために生産される部分が少なくなればなるほど、生産物がますます交換を目的として生産されるようになればなるほど、共同体の内部でも交換が原初の自然生的な分業を駆逐していけばいくほど、共同体の個々の成員の財産状態がますます不平等になり、古くからの土地の共同所有がますます深く掘りくずされていき、共何体はますます急速にその分解に向かって進み、分割地農民の村落に変わっていく。
 
オリエントの専制政治と、征服者である遊牧諸民族のつぎつぎに代わる支配とは、こうした古い共同体に数千年にわたってなにも影響を及ぼすことができなかった。
 
〔ところが、〕共同体の自然生的な家内工業が大工業の生産物との競争でしだいに破壊されていくにつれて、共同体はますます分解していく。この場合に強力が問題にならないのは、モーゼル川流域とホーホヴァルト山地との「農民共同体」でいまでも行なわれている共有耕地の分割のさいに強力が問題にならないのと同様である。農民たちは、耕地の私的所有が共同所有に取って代わることが自分たちの利益になる、とわかってこそ、そうしているのである。
 
ケルト人・ゲルマン人のもとで、また、インドの五河地力(パン・ジャブ)〔インド半島北西部、インダス川流域の地方で、現在、東部はインドに、西部はパキスタンに、それぞれ属する〕で、土地の共同所有にもとづいて行なわれた自然生的な貴族の形成でさえ、はじめは、けっして強力にもとづいたものではなくて、自由意志と慣習とにもとづいている。
 
私的所有が形成されてくるところではどこででも、これは、生産および交換の関係が変わった結果として、生産の増大と交易の促進とをはかるために、──つまり、経済的原因がもとで、起こるのである。強力はそのさいまったく役割を演じない。
 
なぜと言って、強奪者が他人の財貨をわがものとすることができるためには、その前にすでに私的所有の制度が存在していなければならない、ということ、つまり、強力は、所有状態を変化させることはできても、私的所有そのものを生み出すことはできない、ということ、これは明らかではないか。
 
 しかし、「人間を圧服して奴僕的奉仕をさせること」の最も現代的な形態である貨労働を説明するのにも、われわれは、強力を使うこともできなければ力ずくで手に入れた所有を使うこともできない。
 
古代の共同体が分解するさいに、したがって、私的所有が直接また間接に一般化するさいに、労働生産物の商品への転化が、自家消費のためではなく交換のための労働生産物の生産が、どのような役割を演じたか、ということについては、すでに〔右に〕述べた。
 
ところでしかしマルクスが『資本論』のなかで明々白々に立証しているように──そして、デューリング氏は、用心して、これにはただのひとことも触れないようにしている──商品生産は、或る発展段階で資本主義的生産に転化するのであって、この段階では、「商品生産と商品流通とにもとづく取得の法則または私的所有の法則は、この法則自身の内的で避けることのできない弁証法のせいで、その反対物に〔『資本論』では「直接の反対物に」〕急転するのである。
 
すなわち、最初の操作として現われた等価物どうしの交換は、一転して、ただ外見のうえで交換が行なわれるだけのことになるのである。と言うのも、労働力と交換される資本部分そのものが、第一には、等価なしに取得された他人の労働生産物の一部分にすぎないからであり、第二には、その生産者である労働者の手でただ補填されなければならないだけでなく、新しい剰余」(超過分)「をともなって補填されなければならないからである。
 
……最初には、所有〔『資本論』では「所有株」〕は、自分の労働にもとづくものとして現われた。……所有は、いまでは」(マルクスの展開の終わりでは)「資本家の側では、他人の不払労働を〔『資本論』では「他人の不払労働またはその生産物を」〕取得する権利として現われ、労働者の側では、自分日身の生産物を収得できないこととして現われる。所有と労働との分離が、外見上は両者の同一性から生じた一法則の必然的帰結となる」〔Ib、九九六/九九七ページ、C、1000/1001ページ〕。
 
言いかえれば、強奪と力ずくの行為と詐欺との可能性がまったくないとしてさえ、
<すべての私的所有は、はじめは所有者自身の労働にもとづいている>、と仮定してさえ、
<その後の全経過を通じて、ただ等しい価値が等しい価値とだけ交換される>、と仮定してさえ、
 
それでもやはりわれわれは、生産と交換との進展につれて必然的に、現在の資本主義的生産様式にいきつく。
 
すなわち、生産手段と生活手段とが一つの少数者の階級の手中に独占されることに、むのすごい多数者でつくる別の階級が無産のプロレタリアに押し下げられることに、思惑的な生産と商業恐慌との周期的な交代に、生産におけるこんにちの無政府状態全体に、いきつくのである。
 
この経過全体は、純経済的な原因をもとに説明されており、強奪や強力や国家や或るなにかの政治的介入をただの一度も必要としなかった。「力ずくで手に入れた所有」は、ここでも、事物の現実の経過についての無理解を隠すためのほら吹き文句にすぎないことがわかる。
(エンゲルス著「反デューリング論」新日本出版社 228-229p)
 
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◎ルソーの思想とエンゲルスの私的所有に対する解明が共通していることがわかります。人類がつくり出した最良のものの正統な継承者∞人間知識の総和≠ニいわれる科学的社会主義。
 
科学的社会主義を学ぶと言うことの大きさを改めてとらえなおします。昨日の学習通信≠ニ合わせて学習してください。