学習通信030725
◎人類史は自由をもとめる人間の努力のつみかさね
 
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 第二次世界大戦、あの戦争に負けてからだ。
 あの戦争で、アメリカはこの国を見事に骨抜きにした。それはもう見事としかいいようのないくらい。
 
 憲法とかなんとか関係なく、見事に骨抜きにした。アメリカ人は日本をほんとうに戦えない国にした。これでは何があっても絶対に日本ほ戦えない。戦争が起こっても、自衛隊の二十三万人と、あと有志が五万人くらいしか集まらないと思う。
 アジア諸国は、この国のことを脅威に思って、軍国主義が復活するんじゃないかっていってるけど、そんな心配ほ絶対にない。
 
 自由というものをはき違えて、日本人はアメリカ人から教わった。
 自由ということを、我々は自分勝手と思ったのだ。
 その昔、日本に自由はなかった。自由な思想や、自由に考えるということはなかった。だからこれからは自由だといわれたときに、何をやってもいいと勘違いした。
 
 自由というのは心の問題であって、自分勝手に行動しなさいということではない。自分に責任を持たなければ、この社会で自由なんて享受できるわけがない。
 
 それをはき違えてしまった。俺は自由だ。権利がある。他人にとやかくいわれることは何もないんだって。それぞれに責任を負った人間が、みんなで支えてこそはじめて自由な社会が保たれるというのに。
 そうでなければ、自由なんてただの絵に描いた餅なのに。
 責任を負えない者に享受できる自由なんてない、ということを誰も考えない。
 
 子供に自由なんてないのだ、本来は。それを親までが勘違いして、子供を放ったらかしにして好き勝手にさせているだけなのに、「ウチは自由にさせてる」なんていってしまう。
 
 政治家が本とか書いて、日本の教育を考えなおさなければいけないとか、そういうことをいろいろいっているけれど、そんなの無理だと思う。
 半世紀かかって骨抜きにされてしまったものを、そんな教育とかで何とかできるわけがない。大人からして間違ってるのだから。
 
 大人が責任をとらない。官僚も政治家も、誰も自分のしたことに責任をとらない。そんな大人たちが、自分に責任を持てと子供にいったって、そんな話、聞くわけがない。
 
 だから日本ほどんどん駄目になっていく。
自由の国<Aメリカ、そして〃自分勝手な国%本になっていくんだろうと思う。
 今のこういう日本には独裁者が必要なのだろうか。
(島田・松本著「哲学」幻冬舎 193-194p)
 
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自然や社会に法則があるということは、人間は必然性にしばられているということですか。人間はどうしたら自由になれるんでしょうか。
 自由とはなんでしょうか。もらろん、「束縛されない」ことですね。でも、それだけでは消極的で現実味がありません。人間は、自然や家族・会社・地域などとまったくかかわりをもたずに生きるなんてことはできませんから。
 
 では、「勝手気ままにする」ことがほんとうの自由といえるのでしょうか。あまりにも束縛の多い現実の生活のなかで、そういう気分になるだろうということはわかります。でもこれは、本人は自由のつもりでも、ほんとうの自由とはいえません。失業し、住む家もなく、あるいは将来の夢や人生の設計を放棄して、それでも「勝手気ままな自由だ」と思ったところで、どれほどの意味があるでしょうか。
 
 私たちが問題にする自由とは、「人間らしく生きたい」「自分の個性を発揮したい」など、人間の基本的な要求に根ざしたものであるはずです。ですから、自由とは「人間らしく生きることの実現」といってもいいでしょう。
 いずれにしても、人間であるかぎり自然や社会の法則に拘束されないというわけにはいきません。そういう意味では「人間は必然性にしばられている」ということです。空気がなければ生きていけないし、社会の制度のなかで要求を実現し、他人との共同のうらに個性を見いだすしかないのです。
 
 しかし、そもそも自由と必然性は対立するものなのでしょうか。
 人間は、「自由に生きること」の第一歩として、自然の脅威からのがれ、自然をつくりかえながら、生活や文化をきずいてきました。自然をよく認識し、自然の法則を知り、それを利用することによって、多くの成果を残してきました。天体の動きの周期性がわかったからこそ、方位を知り、暦をつくることができ、それを利用して航海し、作物を育ててきたのです。このように、自然の必然性・法則性を正しく認識することこそが、人間の自由を実現する基礎なのです。
 
 社会についても同じことがいえます。社会的抑圧から解放されるためには、その抑圧が生じてくる必然性がどこにあるか、それがどのような法則性にもとづいているかをまず見ぬかなくてはなりません。そのうえで、その抑圧をとりのぞく条件がどこにあるかを明らかにし、その認識にもとついて自覚的な活動をひろげていかなくてはならないということです。
(月刊『学習の友』97〜98連載「現実をリアルにダイナミックにとらえる」第4回)
 
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 人類はいちばんはじめはどんな状態にあったのだろうか。それは個人の自由がまったくみとめられていない社会だ。これをヘーゲルはアジア的社会とよんだ。当時、ヨーロッパの人びとはアジアの国ぐにはすべて専制国家だと考えていた。そこでは迷信が支配し、専制君主だけが自由で、あとの人びとは無権利の状態のまま、自由とはどういうことなのかということさえ、知らずにいた。
 
アジアの国ぐにはそういう状態のまま停止してしまったのだが、ヨーロッパでは人びとが自由をもとめはじめる。そして人類の歴史の第二段階としてギリシア的社会があらわれる。ここで人びとは自由にめざめはじめる。ギリシアがあのようにすはらしい芸術を生みだしたのは、この自由へのめざめのおかげである。
 
しかしここではまだ、すべての人が自由になったわけではなく、たくさんの奴隷が社会を支えていて、この奴隷のおかげで少数の人びとが自由になることができたのだ。だから自由と秩序との矛盾はまだあまり深刻化せず、調和がたもたれていた。
 
 自由がさらにひろがってくると矛盾は深刻になる。ヘーゲルはこれを第三段階としてローマ的社会と名づけた。このローマ的社会というのは古代のローマ帝国のことではない。ヘーゲルがローマ的といっているのは、じつはブルジョア社会、つまりその当時イギリスで生まれはじめたばかりの資本主義社会のことなのだ。
 
ブルジョア社会の原理は個人主義であって、この原理がローマ時代にローマ法として体系化され、それがその後、各国へつたえられて近代法の土台になっていったので、ブルジョア社会までふくめてローマ的社会とよんだのである。ブルジョア社会ではみんなが自分の利益のために勝手に行動している。みんなが他人のことなどにかまっていられず、自分の欲望を満足させることを目的として生きている社会だから、ヘーゲルはこういう社会をまた「欲望の体系」ともよんだ。
 
 ここではみんなが自由だ。しかしそのためにみんなの利益が対立し、ぶつかりあう。ホッブスが「万人対万人の戦争」とみたものは、じつは自然状態のことではなく、こういうブルジョア社会のことなのである。それは弱肉強食の競争社会だ。
 
したがってこれを放っておくと混乱がおこる。この混乱を避けて社会の秩序をたもってゆくためには強制力が必要だ。それが法律と警察である。つまりブルジョア社会というのは、法律と警察によって外から強制されていなけれはなりたっていられない社会なのである。
 
 自由がひろがることはよいことだけれども、しかし外からの強制によって秩序がたもたれているような社会は、ほんとうの自由ということはできない。ほんとうの自由というのは、みんなが自主的に行動していて、しかも全体としての秩序がたもたれているような社会だ。
 
ヘーゲルはそう考え、ローマ的社会の矛盾をのりこえるものとして、人類史の第四段階にゲルマン的社会をおいた。これも中世のゲルマン民族のことではない。ゲルマン民族からでてくるものだけれども、むしろブルジョア社会のつぎにくる新しい社会のことであり、ヘーゲルが理想としてこれからつくろうと考えていた社会のことである。
 
 ブルジョア社会のつぎにくる新しい社会というと、それは社会主義のことか、と思う人がいるかもしれない。しかしヘーゲルは社会主義を理想としていたのではなく、ブルジョア社会の欠点を同業組合あるいは協同組合のような形でとりのぞくことができると考えていたのである。ゲルマン的社会というのはこういう組合を基礎にし、それらが連合して国家をつくるという形で、自由と秩序とを調和させるというものであった。
 
 こういう人類史の発展は人間がほんらいもっている自由の精神のめざめと拡大によるのである。人類史は自由をもとめる人間の努力のつみかさねであり、それが社会秩序とのあいだに矛盾と対立を生み、弁証法的にすすんでゆく、というのがヘーゲルの歴史観だった。ー略ー
 
 だがいったい、自由とか秩序とかというものはなんだろうか。自由をもとめる人間の努力はいったいどこからでてくるのだろうか。秩序といってもさまざまな秩序があるのではないか。
 
自由民のために奴隷をおさえつけておくのも秩序だが、奴隷や農奴が蜂起して自分たちだけの解放区(コミューン)をつくるのも秩序だ。ブルジョア社会の秩序といっても、それはだれにとっての秩序なのだろうか。国家を協同組合や同業組合の連合体にするといっても、それでブルジョア社会の矛盾ほ解決されるのだろうか。そもそも歴史を動かしている原動力はなになのか。
(浜林正夫著「社会を科学する」学習の友社 51-53p)
 
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◎自由に生きたい$ツ年がもつ永遠のテーマです。だからこそ(?)自由≠ノついて語られることはイデオロギー的です。いくつかの文献を見たが、島田自由§_にぴったりくるものが見つからない。議論を積み上げ、仲間の自由§_にかみ合って、私たちの言葉で語ることが必要です。社会全体の認識と関わってこそ理解が進むのだと思います。