学習通信030726
 
◎社会病理問題を学ぼう。子どもの問題は、大人もモラルも問われていることを自覚しなければ。
 
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 長崎の幼児殺害容疑者が十二歳とわかった時の衝撃の大きさは、文字通り「まさか」だった。三ヵ月前は小六。信じがたいのは当然だ。直前には自然豊かな沖縄で中学生の「同級生リンチ殺人・死体遺棄」事件が発生。「友だちの死体を遺棄までするとは」と世間を暗たんたる思いに浸らせていた最中だけに私たちの動揺は大きかった。
 
 しかし、事態をあざ笑うかのように、今度は東京・渋谷で事件が発生。小学六年生の女児四人が命の危険にさらされる凶悪で怪奇な「監禁」事件の被害にあったのだ。
 
 「なぜ、成績のよいおとなしい子が」「なぜ、周囲の大人は予兆を察しなかったのか」。疑問が次々にわく。渋谷の事件に対しても、「どうして小六の女児が」「なぜ手錠なのか」「男の練炭自殺はどういう意味か」などの疑問が渦巻く。
 
 しかし、一連の事件の背景には、加害者・被害者の立場を問わず、深部で太くつながる共通の糸が見え隠れする。それは、時代の世相を色濃く反映しながら、確実に低年齢化と凶悪化が進行している点である。
 
 五つの特徴を指摘することができる。
 一つは、凶悪な少年事件の地方化。穏やかなはずの地方で発生する事件が増えている。背景として考えられるのは、ニュータウンなど都市化の進展で、人間関係の希薄化が都市と同様に進み、子どもが育つ生活臭い居住空間が奪われたことではないか。地域共同体が崩壊しているのである。
 
 二つは、「よくできる子、おとなしい子」による静かな犯罪の広がり。
 戦後三回目の非行のピーク期(一九八三年)には、勉強や生活上、多くの問題を抱える子どもたちが「校内暴力」や性非行など、誰にでも見える派手な行動によってSOSを発信した。
 
 九七年ごろから第四の非行のピーク期に入ると、「勉強のできる子」「おとなしい子」が「キレ」て人を殺害する事例が急増した。いわゆる「突発型」非行だ。これは学歴社会が崩壊し、高学力看が必ずしも幸せや出世を手にすることができなくなったことに加え、先行き不透明な日本の未来への重苦しさが影を落としているとみてよい。
 
 ところが、この一、二年は、さらに「静かさ」と「無言」が加わる。犯人は何のメッセージも発しない。その分、不気味さが増す。心も行動も完全に「闇」の中だ。
 
 三つは、加害者、被害者を問わず、大人と子どものボーダーレス化が急激に進行したことだ。
 
 凶悪化は少年事件だけではない。相次ぐ一家殺人事件など、犯人さえ捕まらない。少年事件の凶悪化はこれら大人の事件の反映ではないのか。
 
 また、子どもをターゲットにした消費主義的文化の大波が撃つ。二兆円産業と称された女子高校生を対象にしたルーズソックスなどの商品開発から、今や小・中学生、幼児へと販売対象の低年齢化が加速している。物欲主義と拝金主義から、小学生でもアルバイトというお金の甘いわなにかかるのも不思議でない。
 
 四つは、携帯電話の普及。今や中学生の四割、小学生でも二割が所持している。子どもたちにとって、携帯電話は単なる通信手段、つまりかつての電話ではなくなっている点が見落とされている。瞬時に友達と心を結ぶメール機能や、出会い系などのサイト利用が中心的役割を担っている。
 
 携帯のデジタル信号は、正邪、男女、年齢の別を問わない。国境を超えて子どもたちに直接アクセスしてくる。受け手の意思など無視した「迷惑メール」が好例だ。むろん発信も自由自在だ。
 
 五つは、思春期の葛藤(かっとう)や危険を、男女ともくぐりにくくなっている点だ。大人になりづらくなっていると言ってもよい。大人からの自立欲求が強まり、いわゆる反抗期に突入するからこそ、思春期にはしっかりと依存できる友だちや仲間が必要不可欠だ。一時的に友達に依存しっつ、大人からの自立を図ろうとするからだ。
 
 だがこの時に、はっきりした依存対象の友人がなければ、少年の性衝動が先鋭化され、同性の幼児に向けられたとしても少しも不思議ではない。
 解決策は何か。「市中引き回しの上、親を打ち首」にすれば済むことではない。背景が歴史的社会的であればあるほど、高所から総合的に対策を打ち出さねばなるまい。
 
 その第一には、社会と大人は子どもを守り成長と発達に責任を負うという原点を再確認することだ。誰もが常に自分自身の問題として、それぞれの領域や立場から子どもを守るガードやルールを確立する。子どもの処罰強化より、子どもを食い物にする大人たちの方こそ、実名を公表して厳しく取り締まり、犯罪を根絶すべきではないか。
 
 同時に」地域に無数の子育てネットワークを構築するこせが焦眉(しょうび)の課題だ。その中でこそ、少年少女たちの危険な予兆が発見できる。複眼の子育ての力である。こうして地域の子育て力のパワーアップが可能になる。
 
 第二には、目先だけを変えた「教育の構造改革」に目を奪われたり、数値のみの表面的な「学力」競争に心を奪われてはなるまい。目の前の子どもたちの、生活と心のありようをリアルにしっかりつかむこ&だ。パソコンや「ケ一タイ」リテラシーも本格的に教え、育てる必要がある。
 
 教師が子どもたちの日々の辛さや喜びと向き合い、学校生活の主役として尊重することは地味だが大切なことだろう。多発する少年事件は、これらの警鐘かもしれない。
(尾木直樹・臨床教育研究所「虹」所長 日経030726)
 
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モラルとはなにか
 
 つぎは、子どもたちのなかに形成したいモラルとか市民道徳の問題です。そもそも「モラル」とはなにか、どう理解したらいいのかということなのですが、モラルといってもいろいろなモラルがあります。今の時代に必要な民主主義的なモラル、それと対立する非民主主義的な、反民主主蓑的な、もっといえば非人間的なモラルもあるわけです。
 
 私はモラルというのは時代の社会的なあり方にひじょうに規定されているという考え方です。本来的には、その時代、そしてその時代の社全体制を維持するようなモラルがあります。支配的なイデオロギーといっていいでしょうか、そういう支配的なイデオロギーとしてのモラル。これはマルクス主義がよくその本質を解明してきました。
 
 たとえば封建社会では身分制を正当化するモラルがありました。武士層が支配者であって、農・工・商はそれに服従すべきであるとか、忠君愛国を大切にすべきだとか。戦前の日本でも、家父長的な家制度にもとづいて、父親だとか長男といった人たちに服従すべきであるとか、そういった人たちの権威をゆるがしてはならないとか。
 
 現代の資本主義社会では、競争主義とか能力主義を基本にしたモラルが絶えず拡大再生産されています。「競争こそ人間を高めるのだ」、「人生は競争だ戦いだ」というようなモラルです。こういう競争社会では全ての物が商品化されている。だから、売れる商品こそ、ほんとうに値打ちがあり、価値があるとか、性の商品化だって許されて当然、というモラルも出てきているわけです。
 
 関東圏で問題になっているコギャルのモラルも、いわゆる性の商品化にのっかったモラルではないかと思います。「自分の体を売るのは自分の自由ではないか」「お金をもらって好きなセックスをするのがなぜ悪い」という主張は、現代資本主義社会が絶えずつくり出している商品化のモラル、明らかにこういうもののなかに包摂されます。
 
 同時に、一般の民衆ないし市民の生活のなかから形成されたモラル群といったらいいでしょうか、そうした価値観があります。
 たとえば「人間同士は互いに助け合うべきだ」とか、「個人個人は自分の能力や個性を大いに発展させたほうがいい」とか、あるいは、「自然の環境を大切にしよう」というモラルもそうだと思いますし、「戦争は嫌だ、平和がいい」というような実感にもとづいたモラルなども支配的なイデオロギーの外で発生した、人々の生活のなかから形成されたモラルといっていいと思います。
 
 また、初めは社会の少数者のモラルあるいはその時代の体制を維持するようなモラルではあったけれども、そういうものとして発生しながらも普遍性を獲得したモラルもあります。たとえば、アメリカ独立革命やフランス革命のなかで出てきた「自由、平等、友愛」のスローガンは、のちのち近代の人権思想の基礎となる、ひじょうに大事なモラルになりました。
 
 勤労だとか節約を尊重すべきだというモラルも、人々の生活のなかから形成された側面もありますが、時代の支配的なイデオロギーであったときもあるわけです。それからエンゲルスが将来的にも残るだろうといった一夫一婦制のモラル、これなども明らかにそうです。
 
 こういうモラルを、私は「合理的な社会規範」としてのモラルと呼んでいいのではないかと思います。大事なのは、社会規範としてすぐれたこういうモラルをわれわれができるだけ受け止めながら、それを次の世代に継承していくことであります。
 
 モラルの主体性、モラルの基礎
 
 私はこれまでモラルの社会性というか、社会的性格のことを主に語りました。ところがモラルはそういう社会性だけに尽きるとは思わないのです。モラルそのものには、ある意味ではモラルをもとめ、それを身につけようという姿勢が必要です。
 
これはモラルのいちばんの基礎になるもので、こうしたモラルの主体性という側面を、モラルを議論するときには落としてはいけないのではないか。それを私は「モラリティ」とよんでいます。道徳ではなくて、道徳性と言ったほうがいいと思います。
 
 モラルのもつ主体性の側面、あるいは実践性といったらいいでしょうか、このモラリティの側面はとくに重要です。たとえば合理的な社会規範がいいということはわかるとか、優れたモラルを知識としてもっているとか、というだけでは困るわけです。
 
自由や平等が大切だとの判断があるのだったら、それを実現しょう、自分の生活や社会的な行為のなかでそれを実行していこう、という努力や姿勢が当然求められるわけです。そういう努力、姿勢と一体でないと本物のモラルにはならない。できるだけ合理的な社会規範としてのモラルを探究し、そのモラルを自覚的に実践しょうとする態度、それがモラリティのあるべき姿です。
 
 口では男女平等といいながら、実際には家庭のなかでは亭主関白的な態度をとっている──フェミニズムの女性たちから非難されますが、確かにモラルとしてはわかっていても、それはモラリティの欠如だと言われてもしかたがない側面があるわけです。このモラリティの側面を重視するならば、子どもにはモラルよりも、私はモラリティの形成が家庭や学校のなかで重視されていいのではないか。
 
モラルを形成するという言い方はまちがいではありませんが、モラルを身につけさせる、教えこむという誤解を生みかねないので、「モラリティを形成する」といったほうが正しいのではないかと思います。
 
 子どもの発達段階がありますから、これは難しい課題です。子どもは十分な善悪判断、価値判断ができていませんし、そういう子どもたちに自分の力で価値の判断を求めるのは、無理でしょう。
 
 幼児、小学校の低学年くらいでは、身体的に気持ちがいいとか自由だとかという感覚を大事にし、その原点にたって基本的な生活習慣やしっけをおこなっていく。良いことだからこれをやりなさいとか、悪いからしてはいけないといっても、大人が命令をして押しつけるだけなのです。親や教師を信頼しているからやるだけの話で、良いからやるわけではないのです。
 
当面は、「これをかたづけたら気持ちがいいよね」とか、「ちゃんと必要なときにおしっこやうんこをしたほうがいいよね」といって、そういう自由だとか気持ちがいいとかという子どもにとっての身体的な感覚を大事にしながら、それらを基本的な習慣にしていくということが、私は必要だと思います。
 
 もう少し成長すると少しずつ分別がついてきます。だんだん自分の意見や要求をいうようになります。それを上手に励ましてあげると、自分で考えたり判断したりすることができるようになってくるわけです。それがある意味では、本当にモラリティを形成するいいチャンスになってくると思います。
 
10歳くらいになると、自分の言葉や行為が自分の周囲の友達に及ばす影響や結果についてだんだんわかってきます。自分と他人とのつながりを客観的にとらえる能力ができてくるので、これがモラリティを形成するいい時期になってくるわけです。
 
 たとえば自分だけ掃除をさぼるとか、給食当番を守らない、あるいは他の子が意見を発表しているときに騒いだりするとか、弱い子をからかったり馬鹿にしたりする。こういう許しがたい行為があったとき、その子の発言や行為が他に及ぼす影響を考えさせる。
 
「そういうことを言って、言われた子はどんなふうに思っただろう?」「自分がもしそういうふうにされたら、あなたはどう思う?」と、親や教師が指摘することができるようになります。
 
 「誰にも害をあたえない」こと
 
 ルソーの著作の中に、「子どもにとって最も重要な道徳的教訓は、誰にも害を与えないということだ」(『エミール』)という、有名な言葉があります。「誰にも害を与えない」、これはひじょうに難しい。与えないとは消極的な言い方ですから、消極的な教訓です。だれだれに親切にしようとか、良いことをやろうという積極的な教訓ではない。
 
しかし、そういう積極的な教訓よりももっと消極的教訓は大事で、しかも難しい。これは自分の周りに及ぼす影響、結果について十分な見通しをもたないといけないので、消極的な教訓だけど難しいことなのだといっているわけです。私も確かにそうだと思います。
 
周囲に及ぼす影響がわかってくる段階で、そうしたことを自覚しながら行為をするということです。それは他人の気持ちがわかるということにつながるし、そういった点でそれはモラリティ形成の大きな一歩になるのではないかと思います。
 
 それから、選択肢がたくさんある場合何を選ぶか、何がいちばん正しいかを、自分で追求させることが必要になってきます。たとえば、今宿題をやるのとテレビを見るのと、また遊ぶのとどれがいちばんいいだろうか。
 
あるいは困っている友達を見て、肋けたほうがいいかどうか、他の仕事をやったほうがいいかどうか。いろいろな選択肢があるときに、子どもにじっくり考えさせる。そしていろいろな条件のもとで、自分の頭で考えて、何がいいか悪いかを判断し決定するようにさせる。
 
 これは最初からうまくできるわけではないし、正しい結論を子ども自身が出せるわけではありませんから、親も教師もじっくり見守ってあげる必要があります。自主的な判断や決定を大事にして、それを尊重する。そういう自主的な判断や決定が子どもにとってできる余地があり、許されていれば、自分の行為が周りの人に迷惑をかけてしまったとか、身近な仲間を傷つける結果になってしまったときは、子どもは子どもなりに責任を感じるものです。
 
行為の責任をとらなくてはという気持ちになります。自分が考えてやったことだから、その結果に責任をもとう、やはり責任を引き受けなくてはという気になるわけです。これが本当のモラリティだと思います。まさにモラルのもつ自主性、主体性の側面です。
 
 これも実は私の独創ではなく、勝田守一さんという東大の先生で、戦後に民主的な道徳教育論を一貫して主張されてきた方がいました。この人が、自主性とかやる気といったこと、これを道徳の基礎に据えないとだめだというのです。この「自主性」ということは他のいろいろなモラル、価値と並ぶようなものではない、もっと根本にあるものだというのです。
 
自主的に判断して、自主的に行動するということが、本当に責任の意識を発生させるし、責任の能力というものを形成させるのです。そういう基礎的な能力のもとに、優れたモラルを自分の身につけていくことが期待できると、私は思います。
 
 尾木直樹さんも最近、自己決定能力とか、自己責任能力といっていることでもあります。優れたモラルをとにかくまずいろいろ子どもに身につけさせようと必死になって努力するよりも前に、自分の頭で考えて決定して、そして責任をもとうという自主性、自己責任能力を道徳性の基礎に据えるということです。
(種村完司著「社会的モラルの形成」月刊:経済2000-4 45-48p)
 
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 教師たちよ、見せかけはやめることだ。有徳で善良な人間であれ。あなたがたの模範が生徒たちの記憶のうちにきざみこまれ、やがてはかれらの心情にまで沁(し)み透るようにするがいい。
 
わたしは生徒にいそいで慈善行為をさせるようなことはせず、かれの見ているところで自分でそれをすることにしたい。そして、かれの年齢にはまだふさわしくない名誉ある行為として、そういうことでわたしのまねをする手段さえかれにもたせないようにしたい。人間の義務をたんに子どもの義務と考えさせないようにする必要があるのだ。
 
わたしが貧しい人に救いの手をさしのべているのを見て、かれがわたしにそのわけをたずね、かれに返事をしてもよい時期にいたっているなら、わたしはかれにむかってこう言うだろう。
 
「それはね、貧しい人たちが金持ちの存在することをみとめているなら、金持ちも、その財産や労働によって生活する手段をもたないあらゆる人を扶養する約束をしているからです。」「じゃ、あなたもそういうことを約束したんですか」とかれはまたきくだろう。「たしかに。わたしがわたしの手にはいる財産の所有者であるのは、その所有に結びついた条件をみたすかぎりにおいてなのです。」
 
 こういう話を理解したあとでも、そして子どもにどうしてそれを理解させるかはすでに見たとおりだが、エミールは別として、ほかの子どもはわたしのまねをして、金持ちらしくふるまおうとするかもしれない。そういうばあいには、わたしは少なくともそれが見栄をはるための行為にはならないようにするだろう。
 
わたしはむしろ、かれがひそかにわたしの権利を奪って、隠れてものをあたえるようであってほしいと思う。それはかれの年齢にふさわしいごまかしの一つだがこれだけはわたしも許してやるつもりだ。
 
 そうした模倣による美徳はすべて猿の美徳であること、どんなよい行為もよいこととして行なったかぎりにおいてのみ道徳的によい行為であること、他人がそうするからといってしたのではそうはならないことをわたしは承知している。しかし、心情がまだなにも感じていない時代にあっては、どうしても子どもにその習慣をもたせようとする行為をまねさせ、やがてほ分別と善にたいする愛とをもってそれを行なうことができるようにさせなければならない。
 
人間は模倣者である。動物でさえもそうだ。模倣にたいするこの好みは十分に根拠のある自然にもとづいている(しかしそれは、社会においては不徳に変わってしまう。
 
猿は恐れている人間のまねをし、軽蔑している動物のまねをしない。猿は自分よりすぐれている生き物がすることをよいことだと考えている。ところが、わたしたちのあいだでは、あらゆる種類の道化役者が美しいもののまねをしてその品位を落とし、それをこっけいなものにしようとしている。いやしい感情をもったかれらは自分より値うちのあるものを、自分とひとしいものにしようとしている。
 
かれらが讃美しているもののまねをしようとするばあいにも、その対象の選択に模倣者の誤った趣味があらわれる。つまり、かれらはいっそうすぐれた者、いっそうかしこい者になろうとするよりも、むしろ他人を威庄し、自分の才能を賞賛させようとしているのだ。わたしたちのあいだにおける模倣の根本はいつも自分の外へ出ようとする欲望にもとづいている。
 
もしわたしの計画が成功するなら、エミールはそういう欲望をけっしてもたないだろう。そこでわたしたちは、そういう欲望が生みだすような見せかけのよいものを必要としない者にならなけれほならない。
 
 あなたがたの教育のあらゆる規則を深く考えてみることだ。そうすればそれらがすべて逆になっていること、とくに美徳とかよい風習とかいうことについてはすべてが逆になっていることがわかるだろう。
 
子どもにふさわしい唯一の道徳上の教訓、そしてあらゆる年齢の人にとってもっとも重要な教訓、それはだれにもけっして罰をあたえないということだ。
 
よいことをせよという教訓でさえ、右の教訓に従属していなければ、危険で、まちがった、矛盾したことになる。どんな人にしろよいことをしない人があろうか。すべての人はよいことをしている。悪人とても同様だ。悪人は百人のきのどくな人の犠牲において一人の人を幸福にしているのだ。そういうことからわたしたちのあらゆる災害が生まれてくるのだ。
 
もっとも崇高な美徳は消極的なものだ。それはまたもっともむずかしいことだ。それは見ばえのすることではなく、人間の心にとってまことに快いあの楽しみ、わたしたちにたいして他人を満足させるというあの快い楽しみをさえ超えたことだからだ。
 
けっして人々に害をくわえない人、ああ、そういう人が一人でもいるなら、その人はほかの人々にたいして必然的にどんなに大きな善を行なうことになるだろう。そういう人になるためには、どんなに勇敢な魂とどんなに力づよい性格とが必要とされることだろう。
 
それに成功するのはどんなに偉大なことであり、どんなに骨の折れることであるかがわかるのは、この格率について議論するときではなく、その実践に努力するときだ。
(ルソー著「エミール」岩波文庫 155-157p)
 
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◎子どものおかれている状況、必要な条件と働きかけ……私たちの生活の現場で問われているのです。

◎筆坂秀世前参議院議員のセクハラ問題・「市民道徳、社会的道義を厳しく守る」ということは、先進的に活動するものにとってもっとも重大な問題です。
 
私たちの運動は「国民のために、よりよい社会をと願って集まった人間の集団であり、その運動であります。そのなかで、思わぬ挫折に直面することもあります。多くの方が、自分にはかかわりのないところで起きた事件のために、いろいろな批判にさらされ、やり場のない怒りや気落ちに包まれたことは、よく分かります。しかし、こういうときに、失望や気落ちから運動を小さくしてしまったら、国民のためによりよい社会を、という私たちの運動の基本が失われることになります。」「今回の事件から教訓を学び、市民道徳、社会的道義のうえでも、社会の共感と信頼に値する」ものとして成長・発展する努力を。

 長いものになりました。9日・10日・11日の学習通信≠燻Q考にしてまなんでください。また、セクハラ問題も過去の学習通信≠ノあります。深く学ばなければ闘えません。