学習通信030727
 
◎嘘……とは 「──そういう設定にした方がメールも盛り上がる」 戦争も嘘から?
 
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 民主主義国家では、開戦にあたり国民の同意を得ることが必要不可欠である。昨年始まった戦争にもまた、世論を動かして参戦に同意を得るため、戦争プロパガンダの法則が巧妙に使われた。
 
─略─
 
 戦争を支持しない者にとっては、考えさせられることだ。
 これらの法則はすでによく知られたことであり、戦争が終わるたびに、われわれは、自分が騙されていたことに気づく。
 そして、次の戦争が始まるまでは「もう二度と騙されないぞ」と心に誓う。
 
 だが、再び戦争が始まると、われわれは性懲りもなく、また罠にはまってしまうのだ。
 あらたにもうひとつ法則を追加しょう。「たしかに一度は騙された。だが、今度こそ、心に誓って、本当に重要な大義があって、本当に悪魔のような敵が攻めてきて、われわれはまったくの潔白なのだし、相手が先に始めたことなのだ。今度こそ本当だ」
(アンヌ・モレル著「戦争プロパガンダ10の法則」草思社 3-9p)
 
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 けっこうマジメで誠実なタイプと思っていた若い男性が、「メール恋愛」について得意げに語った内容を聞いて驚いたことがあった。「メールではボクは身長180センチのエリート官僚、つてことになってるんですよ」。明らかにそれはウソであった。そう指摘すると、「ウソとは違う。そのやり取りの中ではウソはついていない」といい張る。「会っているのに官僚と言うならウソだけど、そうじやない。そういう設定にした方がメールも盛り上がるからそうしてるだけ」。恋愛という、日常とは少し違う状況で自分の思いを語るには、ニセの物語があった方がいい、ということなのだろう。
 
 カウンセリングの場面でも、作り話が問題になることがある。子どものときに虐待された、愛情を与えてもらえなかった、といったトラウマ(心的外傷)に関する話が、家族の情報を集めると、どうも事実ではないとわかることも最近では少なくない。そういうケースのほとんどは若い女性なのだが、彼女たちはもちろん、意図的にウソをついてやろうと思っているわけではない。ただ、自分が置かれている、ある苦しい状況を語ろうとするときに、どうしても何か強烈な架空のエピソードを核にしなけれは、それをうまく表現することができないのである。
 
 大人が考えると、まったく逆のような気がする。自分の思いや苦しさを語るなら、何もウソをつく必要はない。「エリート官僚だ」「親に愛されなかった」といったニセの物語を作ってしまったら、かえって本当のことを話しにくくなるのではないか。ところが若者にとっては、物語が何もないところで、自分についてある筋道をつけながら語る方が、ずっとむずかしく思えるのだ。それに比べれば、わかりやすくてインパクトの強い物語の中にすっと入り込んで、そこで自分の作った架空の主人公の口を借りて語る方が、すらすらと何でも話すことができる。
 
 ここまで極端でなくても、若者たちの日常会話にもちょっとした設定のウソ≠ェ混じっていると感じることはよくある。「昨日、すごい事件に巻き込まれちゃってさ」「もうまわりは大混乱ですよ」などと、まずできるだけ強烈な状況を設定したところで話を始める。そこには当然いないはずの人が登場したり、前の年のケンカが起きていたりもする。
 
 そうやって何でも強烈な物語にして語ってしまう背景には、今の若者特有のサービス精神もあるだろうし、そういう話をしなければ、だれも自分に関心を持ってくれないのではという不安もあるだろう。ただそれ以上に、ウソを交えて語ってしまう若者には、「物語の中の方が自分の率直な気持ちを語りやすい」という切実な理由があるのではないだろうか。
 
 また、話を聞く側の若者たちも、ウソらしき部分は笑ってやり過ごし、語られた物語の中からうまく相手の「率直な気持ち」のところを汲み取っているようだ。たとえば、エリート官僚だと名のってメール恋愛をしている若者についても、相手の女性はそれじたいが事実かどうかは気にせず、「官僚のボクが夢中になるくらいあなたはステキな人」というところだけを受け取っているのではないか。
 
 精神分析学の祖・フロイトは、相談者が語ることはその実際の真偽はともあれ、すべて「心的現実」だと考えた。つまり、それが相談者の心にとってはまぎれもない現実であり、分析家はウソかどうかということではなく「なぜ今、この人はそれを語ろうとするのか」だけを問題にすべき、というのだ。そう考えてみると、相手の話の真偽を問うより、まず「この話を通してどういう感情を表現しょうとしているのか」を敏感に察知する今の若者は、分析家としての態度を知らないうちに身につけている、とも言える。
 
 ただ、実際の社会は、そういったウソを「心的現実」として許容するようにはできていない。だからいろいろな場で、若者が何気なくついたウソがトラブルを起こしたり、事件に発展したりしてしまっているわけだ。
 
 ウソをつかなくても若者がストレートに自分の感情を表現できるように大人が導くべきか、それとも社会の側が少しくらいのウソは見逃して、その裏にある真意を汲み取るように変化していくべきか。大人としては後者のようなウソ社会≠ヘ到底、認めがたいであろうが、実際にはすでにその方向への変化が始まりつつあるようにも思える。
(香山リカ著「若者の法則」 26-29p)
 
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 こうしてわたしたちは道徳的な世界にはいってくる。そこで不徳への扉がひらかれる。約束とか義務とかいうこととともに、いつわりやうそが生まれてくる。してはならないことをするようになると、してはならなかったことを隠そうとする。
 
利害によってなにか約束することになると、もっと大きな利害がその約束を破らせることになる。そうなると約束を破っても罰をうけないでいられることだけを考える。当然、抜け道ができてくる。
 
隠れてなにかしたり、うそをついたりする。不徳をふせぐことができなかったわたしたちは、こんどはそれを罰しないわけにはいかないばあいにたちいたる。こうして人生の不幸はその過ちとともにはじまる。
 
 子どもにはけっして罰を罰としてくわえてはならないこと、それはいつもかれらの悪い行動の自然の結果としてあたえられなければならないこと、そういうことをわかってもらうために、わたしはすでに十分多くのことを述べた。
 
だから、うそにたいしてもやかましいことをならべたててはいけない。うそをついたからといって、そのために子どもを罰してはいけない。
 
そんなことはしないで、うそから生まれるあらゆるよくない結果を、たとえばほんとうのことを言っても信じてもらえないこと、悪いことをしないのにいくら弁解しても非難されること、そういったことを、子どもがうそをついたばあい、かれらの頭上にふりかからせるがいい。
 
それにしても、子どもにとってはうそをつくとはどういうことか、それを説明することにしよう。
 
 うそには二つの種類がある。過ぎ去ったことについての事実のうそと、これからありうべきことについての当為のうそだ。
 
自分がしたことを否認したり、しなかったことをしたと言いはるばあい、つまり、一般的に言って、音義的に真実に反したことを語るばあいには、事実のうそをついていることになる。まもる意志のない約束をするばあい、そして一般的に言って、考えていることとは反対の意向を表明するばあいには、当為のうそをついていることになる。この二種類のうそは、ときには同じ一つのうそのなかに混り合っていることがある。しかし、ここではそれらをちがったものとして考えることにする。
 
 ほかの人々の助けをかりる必要を感じている者、そしてたえずかれらの好意をうけている者は、かれらをだますことになんの関心ももたない。はんたいに、かれらがあるがままに事物を見てくれるかどうかに大きな利害をもつ。かれらが思いちがいをすることによって自分の損になることを恐れるからだ。
 
したがって、事実としてのうそが子どもに自然に生じてくるものでないことは明らかだ。しかし、服従の掟がうそをつく必要を生みだす。服従するのはつらいことなので、できるだけ人に知られないようにそれをまぬがれようとするからだし、また、罰をまぬがれたり、叱責をまぬがれたりしようとするさしせまった利害の念が、真実を述べることによって生じる遠い将来の利害の念よりも強くはたらくからだ。
 
自然のそして自由な教育においては、したがって、あなたがたの子どもはなぜあなたがたにうそをつく必要があろうか。子どもはあなたがたになにを隠す必要があるというのか。あなたがたは子どもをとがめはしないのだし、なに一つ罰しはしないのだし、子どもになに一つ要求しはしないのだから。
 
子どもは自分の幼い仲間に話すときと同じように、かれがしたことをすべてありのままにあなたがたに話さないわけはない。すべてをうちあけたところで、かれは仲間からもあなたがたからも同じょうに、どんな危険をうける心配もないわけだ。
 
 当為のうそは、なおさら不自然のことだ。なにかをするとかしないとかいう約束は、契約行為であって、自然の状態から逸脱したこと、自由を冒すことだからだ。さらにいえば、子どもの約束はすべて、それ自体無意味なことだ。かれらの限られた視野は、現在を超えて遠くおよぶことはないし、約束したからといって、どういうことをしているのか、子どもにはわかっていないからだ。
 
約束するばあいにも、子どもはほとんどうそをつくことができない。現在のことを切り抜けようとだけ考えている子どもにとっては、すぐに結果のあらわれない手段はどんなことでも同じになるからだ。将来にたいする約束をするとき、子どもはなに一つ約束しているわけではない。そして、まだ眠っているかれの想像力は、二つの異なる時期にかれの存在をひろげることはできないのだ。
 
あした窓から跳び降りると約束すれば、むちで打たれなくてもすむ、あるいはボンボンを一袋もらえるというなら、子どもはすぐにそういう約束をするだろう。だからこそ法律は子どもの約束ごとをいっさいみとめないのだ。そして、もっときびしい父親や先生が子どもに約束をまもることを要求するとしても、それは子どもが約束してなくても当然すべきことにかぎられる。
 
 子どもは約束をするとき、どういうことをしているのか知らないのだから、約束をしたからといってうそをつくことにはならない。約束を破るときは同じようなことにはならない。それは遡及(そきゅう)的なうそということになる。
 
子どもはその約束をしたことをよく覚えているからだ。しかし、かれには、約束を守ることがどんなに重大なことかということがわからないのだ。未来のことを読みとることができない子どもは、事物の結果を予見することばできない。だから約束を破ったときにも、子どもはその年齢にふさわしい理性にそむいたことはなに一つしてはいないのだ。
 
 その結果として、子どものうそはすべて教師のしわざということになる。そして、子どもに真実を告げることを教えようとするのは、うそをつくようにと教えることにほかならない。一生懸命になって子どもを監督し、指導し、教えようとしながら、人々はそれに成功する十分な手段をけっしてみいだすことができない。
 
人々は子どもの精神のうえに新たな影響力をもとうとして、根拠のない格率や理由のない教訓をもちだすが、かれらは子どもが教訓をよくわきまえていて、うそをつくほうが、無知のままでいて、うそをつかないより好ましいと思っているのだ。
 
 わたしたちはどうかといえば、生徒には実用的な教訓だけをあたえ、生徒が学者になるより善良になったほうがいいと思っているわたしたちは、かれらに真実をもとめるようなことはしない。それを隠すようにさせることを恐れるからだ。破ることに心を誘われるような約束もけっしてさせない。
 
わたしがいないあいだに、なにか損害が起こって、だれがしたのかわからなかったばあい、わたしはエミールをとがめたり、「あなたですか」と言ったりするようなことはしない。そんなことを言ったら、事実を否定することをかれに教えるばかりではないか。もし、かれの性質がどうにもあつかいにくくて、どうしてもなにか約束させなけれはならないとしたら、わたしはできるだけ上手な方法をとって、その申し出をいつもかれのほうからさせるようにして、けっしてこちらからもちださないようにする。
 
かれが約束したときには、その約束をはたすことがいつもかれにとってすぐにはっきりとわかる利益をもたらすようにし、かりに約束を破ったなら、そのうそは困ったことをまねくことになるが、そういうことはまったく当然のなりゆきから生じたので、教師の腹いせのためではないことがわかるようにしてやる。
 
しかし、わたしは、そういう残酷なやりかたにうったえる必要はないばかりでなく、エミールはずっとあとになってからやっと、うそをつくとはどういうことか知るだろうということ、それがなんの役にたつか考えることもできないので、それを知ってたいへんびっくりするだろうということは、ほとんど確実だと思っている。わたしがかれの快適な生活を他人の意志からも判断からもいっそう独立させることになれば、それだけまた、うそをつくことにたいするあらゆる関心をなくさせることになるということはまったく明らかなことだ。
 
 いそいでなにか教えようとしなければ、いそいでなにかもとめることもないし、ゆっくり落ち着いて適当な時期にならなければなにももとめないことになる。その時期になれば子どもはそこなわれないままにおのずからできあがっていく。
 
ところが、無能な教師がどうすればいいのかわからずに、たえずあれこれと無差別に、よく考えもせず、際限もなしに約束させると、そういうあらゆる約束を負わされていやになってしまった子どもは、それをなおざりにし、忘れ、しまいにはどうでもいいことにして、それをみんなむなしい形式的なことと考え、おもしろがって約束したり、約束を破ったりするようになる。
 
だから、約束したことに忠実であることをもとめるなら、多くのことをもとめてはいけない。
(ルソー著「エミール」岩波文庫 148-153p)
 
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◎「うそには二つの種類がある。過ぎ去ったことについての事実のうそと、これからありうべきことについての当為のうそだ」
──NHK12チェンネルで高校生が嘘≠ノついて大論議していた。「嘘も方便」という高校生もいたが、それは結果的に相手を傷つける≠ニ半泣きの顔して反論する青年、大人で唯一参加していたのは香山リカ氏。
 
◎嘘まみれのブッシュ・小泉≠ヘ許せないのです。