学習通信030728
 
◎新しいものというと、なにか他人まね、つけ焼刃、おっちょこちょい、というような奇妙な先入観ができてしまっています。
 
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心に元気、踏み出す勇気
 
 いろいろな挫折や悩みにでくわしたとき、私はいつも、絶望しないために希望を探して牛きています。
 
 ときには希望のかけらも見つからないような気がするのですが、むりにでも希望を見つけて勇気を奮い立たせるのです。絶望しないためには、それしかないと思うからです。
 
 人を恨んでも、人生を傾いても、世界の方から変わってくれることはありません。だから自分の力で心を磨き、自分自身に希望を与えるために、心にいつも元気を取り込んでいなければならないのです。
 
 心に元気が出てきたら、今度は思ったことをしっかり実行に移す勇気がいるのです。それには困難も伴うでしょう。しかし、困難とまっすぐ向き合ってひるまず進む勇気もまた、希望のひとつだと思います。
 
心に元気、踏み出す勇気
 それが希望のはじまりであり、希望に満ちた「豊かなる行動」のはじまりなのです。
(三宮由子著「きっとあなたを励ます「勇気の練習帳」」PHP 116-117p)
 
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 読者へ
 
 オレは、昔のことを思い出すとマジになる。これは素晴らしいことだ。二十八歳。スーパースターと呼ばれ、所得番付に出るようになっても怒っている。怒ることに真剣になる。
 
 銭が正義だ。こう思ってしか生きてこれなかった。ほんとは銭が正義だなんてウソなんだ。それは良く判ってる。でも、そう思わなければ生きてこれなかった自分に腹が立つ。
 
 攻撃することが生きることだ。負い目をつくらず、スジをとおして、自分なりのやり方でオトシマエをつけてきた。休むわけにはいかない。やらねばならぬことは、まだある。
 
 この本に書いたことは、あくまでもオレ自身の背景だ。読者は、特殊な例だと感じるかもしれない。でも、オレは、だれもがBIGになれる道″を持っていると信じている。
(矢沢永吉著「成りあがり」角川文庫 4p)
 
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 どうも年とった世代というのは、意地がわるい。一人一人としては、けっこう、お人よしですが、より集まって権威的な雰囲気をかもしだすと、とたんに墓石のような暗さ、重さになります。
 
 「近ごろの若いものは……」などという、言いまわしがあります。これは、おそらく、はるかな大昔からつづけられてきた繰りごとでしょう。現在しぶい顔をして、そんな文句を言っている人でも、かつて若かったころには、自分の親父とか先輩などに、さんざんそう言って罵(ののし)られてきたにちがいないのですが、そのくせ、こんど自分の番になると、やはり同じような言葉がづかいで、新しく出てくるものをさまたげようとしています。自分では正直に良心的に、むしろきわめて好意的に判断しているつもりでも、新しくおこってきたものが危険に見えてしかたがないものです。
 
 ところで、そこが問題です。新しいものには、新しい価値規準があるのです。それが、なんの衝撃もなく、古い価値観念でそのまま認められるようなものなら、もちろん新しくはないし、時代的な意味も価値もない。だから、「いくらなんでも、あれは困る」と思うようなもの──自分で、とても判断も理解もできないようなものこそ、意外にも明朗な新しい価値をになっているばあいがあるということを、十分に疑い、慎重に判断すべきです。
 
 たとえ未熟でも、若いということは生命的にのぞましいことです。いくら年のコウ、亀のコウを鼻にかけ、若いものを見さげても、やはり年寄りだと言われるといやな気がするし、若いと言われればおせじだとわかっていてもうれしくなる(芸者などに「おにいさん」と呼ばれて、けっこうヤニさがっています)。若いということは、無条件にいいことだと考えてよいのです。
 
 そして、若さこそ二度と取りかえせないものです。若いものの言動が気になるのは、それにたいする絶望的な一種のやきもちであり、ひがみ根性だと考えるべきです。「近ごろの若いものは……」などと、かりそめにも言いたくなりだしたら、それはただちに老衰の初期徴候だと考えて、ゆめゆめ口には出さず、つつしんだほうがお身のためだと忠告しておきます。
 尊敬すべき老人にたいしては、やや苛酷で乱暴なものの言い方をしたようですが、しかし私がここで年寄りというのは、けっして、たんに年齢的な意味ではないのです。若さというのは、その人の青春にたいする決意できまります。
 
いつも自分自身を脱皮し、固定しない人こそ、つねに青春をたもっているのです。現在、権威にされているものでも、かつて、古い権威を否定したときの情熱をもちつづけ、さらに飛躍して自分自身と時代をのりこえて進んでいるばあいには、その人はうち倒される古い権威側ではなく、若さと新鮮さの陣営にあるのです。
 
また、いくら年齢的に若くても、妙に老成し、ひねこびて固まっている人もいます。大きく歴史的に見れば、若い新しい世代が、古い世代をのり越えていくことはたしかですが、個々のばあいは、かならずしもそのとおりには当てはめられません。くれぐれも肝に銘じてほしいのは、年功が無意味であると同じように、また、たんに年齢的な若さも、けっして特権ではないということです。
 
 もちろん、ヨーロッパにも新旧世代の対立はあり、青二才≠ニかくちばしが黄色い≠ニかいうような意味あいの言葉もあります。しかし、日本とは逆に、若さは誇りとされていますから、決定的な悪口にはなりません。モウロクをけなす言葉のはうが、はるかに優勢です。
 
老人たちは、「近ごろの若いものは、だめだ」と言うかわりに、「わしの若いころは、はるかにすばらしかった」と、うらやましがらせようとするのです。現在に生きぬく責任を持たないものは、とかく過去を美化してその中に逃げこもうとするもので、これも空虚な自己欺瞞であり、繰(く)り言ですが、現在の若さを圧迫する響きをもたないだけ、ましと言えましょう。(53-55p)
 
新しいものへのひがみ
 
 ところで、新しいということについて、まだまだ問題がのこっています。それは、新しさというものにたいして、だれでもがもっている一種の不安定な気分についてです。
 
なんといっても、時代のアヴァンギャルドがつくり出す形式というものは、古い常識にとっては不可解なものです。そういう苦手なものが出てくると、「あれも、いずれはすたれる、たんなる流行にすぎない。だから、まじめに考える値うちがない」というような、もっともらしい言い方がしたくなるのです。
 
 たしかに、すべてがつねに移りかわり、興亡します。歴史は新しい価値を不断につくり、それをこわしながら、また、つくっていくのです。不動のものだけが価値だというのは、自分を守りたい本能からくる錯覚にすぎません。
 
 流行というのは、文字どおり流れていく、つまり動的なものであるからこそ、それを積極的につかむことのできない者には、ひじょうに不安な感じがし、わるい意味にしか解釈できないのです。
 
しかし、考えてごらんなさい。流行でない何がありますか。どんなに今日正統と考えられているものでも、ながい流行の歴史のなかの一コマにすぎないのです。
 
流行をつねにのりこえて、もっと新しいものを作るという意味で、移りかわるというのならよいのですが、どうせ移っていくものだからとバカにして、否定的に、歴史をあとにひきもどすような、つまらぬことばかり言うのは卑劣です。
 
 今日のモダンアートにたいして、「あんなものは、軽佻浮薄(けいちょうふはく)で、たんなる流行にすぎない」などと言っている老大家たちも、彼らが若いころには、やっぱりその当時のモダンアートをやったのです。
 
明治時代の日本で、裸を描くとか、印象派ふうの風景を描くなどというのは、まったく革新的な流行でした。敢然としてそれをやってのけた彼らは、古い人たちから同じように非難されてきたのです。だが、それが時代を一歩すすめ、彼らを今日の権威の座につけたのです。
 
 その時代の人びとの願い、方向を正しくとらえたものなら、流行しないはずはありません。いったい、ルネサンスの人間味ゆたかな形式は流行ではなかったのでしょうか。古典主義時代にせよ、ロマンティスム、レアリスムにせよ、すべてそのとおりです。やっぱり、その時代時代の流行であり、時代的な感覚によって、動いてきているわけです。新鮮さとか目新しさとかいうものは、芸術の本質なのです。
 
 日本では明治以来、新しいものは、いつでも外国からはいってきました。なんでもかでも、めまぐるしく受けいれて、自分自身はつくりだす暇もなく、また、それですんできたのです。
 
だから、新しいものというと、なにか他人まね、つけ焼刃、おっちょこちょい、というような奇妙な先入観ができてしまっています。これは、新しがりやの優越感にたいする反感でもあり、輸入文化の劣等感でもあるのです。
 
そのため、流行とはまねることだと、きめてかかっている傾向が強いのですが、自分から独自につくりだされるものでもあると考えなければなりません。
 
 つまり流行には、つくりりだすという面と、まねをするという面との、二つの面があるのです。
 
真の芸術が、今までなかった、まったく新しいものをつくりだして、時代をひきずっていく。それに、みんながひきつけられ、型としてまねしはじめるから、いわゆる流行″という現象がおこるのです。
 
この流行の「創造」と「模倣」の二つの要素が、時代をすすめているのです。だから芸術の新しさを「あれは、たんなる流行だ。うわついた思いつきだ」といって敬遠することばまちがいであり、時代おくれになることです。(66-68p)
(岡本太郎著「今日の芸術」知恵の森文庫)
 
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◎50代・60代が元気……といわれます。先日長岡京市の青年と話しました。向日市議選の勝利はすごい。今度は寺前さんの当選(議席回復)やな≠ニ。彼は、寺前さん なんて知らない人ばかりでェ〜=B確かに寺前さんは引退しました。新しい候補の方が奮闘されています。それを支える人は寺前さん≠知らない人でしょうか。随分たちますが、まだまだ知っている人の方が圧倒的でしょう。若者の結集がまだまだ足りないのです。寺前さんの議席回復……本当の意味をとらえて欲しいと思います。