学習通信030729
◎相手を尊重するコミュニケーション方法を知らない…… オンリーワンを思想として……
 
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恋人への暴力 デートDV
 
思い通りにならないと…
 
 「今考えると、彼女を殴った時、かっとなる一方、自分にひれ伏すまでやってやる″と冷静に考えている自分がいた」
 海野三郎さん(ニ七)=仮名・団体職員=は、九ヵ月付き合った彼女に、昨年六月、別れを告げられました。週末は、埼玉の海野さんのアパートに、彼女が泊まりにくる関係でした。別れた原因は、あるパーティーの席で彼女とささいなことで口論になり、彼女を突き飛ばしたあげく、友人たちの目の前で平手打ちをしたこと。以前にも、彼女が自分の思い選りにならないと、怒鳴ることが数回ありました。
 
暴力をふるう三つの要因が
 
 「DV加害者の結婚前の女性関係を振り返ると、ガールフレンドに暴力を振るっていた事実が見られます。男女平等意識があるといわれる若いカップルでも、付き合い始めたと同時に支配・被支配の関係に陥ることがある。互いに良い部分しか見せない距離のある間はDVは出ないのですが、セックスするなど親密な関係になるとDVがでてきます」(山口さん)。
 海野さんも、彼女に暴力を振るう以前から、DVの知識はありました。しかも、殴った瞬間に「犯罪だ」と気付いたともいいます。では、なぜ暴力を振るってしまったのか?

 そこには、大きな要因が三つある、と山口さんはいいます。
 一つは、男や女はこうあるべき、という固定的な観念が社会にあふれていること。テレビドラマでも、性差別の場面が流されています。二つ目は、暴力容認の社会があること。映画やテレビゲームの中では、暴力で物事を解決してもいいというメッセージがあふれています。三つ目は、相手を尊重するコミュニケーション方法を知らないこと。気持ちや感情を相手に伝える方法が分からず、暴力という間違った方法でしか表せないといいます。

体験を語り合う中で、自分を見つめ直し感じたことは、「年代に関係なく、男はこうあるべき″と固定観念を持っている。だから、自分の弱い部分を突かれると、それを守るために大切な人を傷つけてしまう」。今は、友人の恋人関係や、メディアのなかにあるDVが見えるようになったといいます。
(しんぶん赤旗030729)
 
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新しい女
                 『中央公論』一九一三年一月号
 
自分は新しい女である。
少くとも真に新しい女でありたいと日々に願い、日々に努めている。
真に、しかも永遠に新しいのは太陽である。
自分は太陽である。
少くとも太陽でありたいと日々に願い、日々に努めている。
湯盤(とうのばん)の銘に日く「苟(まこと)に日に新たに、日日に新たに、又日に新たなり」と。大なるかな、日に日に新たなる太陽の徳よ、明徳よ。

新しい女は「昨日」を呪っている。
新しい女はもはやしいたげられたる旧(ふる)い女の歩んだ道を黙々として、はた唯々(いい)として歩むに堪えない。
 新しい女は男の利己心のために無智にされ、奴隷にされ、肉塊にされた如き女の生活に満足しない。
 新しい女は男の便宜のために造られた旧き道徳、法律を破壊しょうと願っている。
 
 けれど旧い女の頭に憑(とりつ)いたいろいろの幽霊は執拗に新しい女を追いかけてくる。
 「今日」が空虚であるとき、そこに「昨日」が侵入してくる。
 新しい女は日々にいろいろな幽霊と、戦っている。
 油断の刺那(せつな)新しい女も旧い女である。
 
 自分は新しい女である。太陽である。唯一人である。少くともそうありたいと日々に願い、日々に努めている。
 
 新しい女は啻(ただ)に男の利己心の上に築かれた旧道徳や法律を破壊するばかりでなく、日に日に新たな太陽の明徳をもって心霊の上に新宗教、新道徳、新法律の行われる新王国を創造しようとしている。
 実に新しい女の天職は聖国の創造にある。さらば新王国とは?新宗教とは?新道徳は? 新法律とは?
新しい女はいまだそれを知らない。
ただ新しい女はいまだ知られざるもののために、自己の天職のために、研究し、修養し、努力し、苦悶(くもん)する。
 
 新しい女は今はただ力を欲している。
 自己の天職を全うせんために、知られざるもののために研究し、修養し、努力し、苦悶するに堪える力を欲している。
 新しい女は今、美を願わない。善を願わない。ただ、いまだ知られざる王国を造らんがために、自己の尊き天職のために力を、力をと叫んでいる。(小林・米田編「平塚らいてう評論集」岩波文庫 41-43p)
 
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 人間の常識
 
 話を広げれば、日本国共同体が、世界の中でどの程度、意味を持っているのかということを考え直さなくてはいけない。一元論を否定するのであれば、我々は別の普遍原理を提示しなきゃいけない。日本が、ある普遍的な原理によって立つ。それはどういう原理かということを考えていく。
 
 一神教の世界というのは、ある種の普遍原理です。万能の神様が一人。イスラム教にせよ、ユダヤ教にせよ、キリスト教にせよ、そういう教えです。それが世界の三分の二を占めているんです。そうでない人たちはどういう普遍性が提示できるかというと、そんな大層なものを持ってはいない。
 
 しかし、こちらは、「人間であればこうだろう」ということは考えられる。それは、普遍性として成り立つわけです。人間であれば、親しくなった人間を殺すかという話になって、それはしないだろう、という、ある種の普遍性を必ず持てるはずなのです。
 
 今後日本がもし拠って立つとすれば、そういう思想しかない。あんまり欲をかくんじゃあない、と。もちろん、そんなことは、当たり前のことのはずです。
 
「ビル・ゲイツさん、あんた、それだけ金を持っていてどうするんだ、俺にくれ。使い切れないだろう、どうせ、生きている間に」と、そういう話はできるはずなのです。おまえ、一〇〇%と言っているけど、寝ている間はどう思っているんだよとか、そういう議論は必ず何かしらできるはずです。
 
 人間であればこうだろう? という話、本書冒頭で述べた「常識」が、私は究極的な普遍性だと思っているのです。安易に神様を引っ張り出したりしない。一元論的に神様を引っ張り出すと、ある方向へ行くときは非常に便利です。有無を言わせず決めつけることができる。
 
 一方で、「人間であればこうだろう」ということは、非常に簡単なようで、ある意味でわかりにくい。それでも、結局、そうしていくしか道は残っていないはずだ、と思うのです。イスラム教徒だろうが、キリスト教徒だろうが、ユダヤ教徒だろうが、あんた、人間でしょう、という考え方です。「人間であればこうだろう」ということは、普遍的な原理になるのではないか。
 
 日韓共催のワールドカップで、日本の若者がイングランドのユニフォームを着て応援しました。韓国が勝ち進むと韓国も応援した。それぞれの国から見れば信じられない事態なのです。「人類皆兄弟」というと変な風に受け止められますが、人間皆同じという考え方が、日本の場合は基本的にあるのかもしれない。ー略ー
 
 安易に「わかる」、「話せばわかる」、「絶対の真実がある」などと思ってしまう姿勢、そこから一元論に落ちていくのは、すぐです。一元論にはまれば、強固な壁の中に住むことになります。それは一見、楽なことです。しかし向こう側のこと、自分と違う立場のことは見えなくなる。当然、話は通じなくなるのです。
(養老孟司著「バカの壁」201-204p)
 
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 自然人は自分がすべてである。かれは単位となる数であり、絶対的な整数であって、自分にたいして、あるいは自分と同等のものにたいして関係をもつだけである。社会人は分母によって価値が決まる分子にすぎない。その価値は社会という全体との関連において決まる。りっぱな社会制度とは、人間をこのうえなく不自然なものにし、その絶対的存在をうばいさって、相対的な存在をあたえ、「自我」を共通の統一体のなかに移すような制度である。そこでは、個人のひとりひとりは自分を一個の人間とは考えず、その統一体の一部分と考え、なにごとも全体においてしか考えない。
(ルソー著「エミール」岩波文庫 27p)
 
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◎デートDVの実際 恐ろしい。自分と同じように恋人の、他人の人格を尊重できない……犯罪≠ニいう知識はもっていたという。セクハラもそうだったのだろうか。
 
◎平塚らいてう 女性も男性も読んで欲しい。「エミール」がもっと求められてよいと思うのですが……。ただルソーの女性論はいただけない。月≠フ思想だと思うのですが。
 
◎一人ひとりの人間としての人格が問われています。思想を高めなければなりません。116期労働学校の企画ができあがりました。近々アップロードします。