学習通信030731
◎モラルを育てるとは……。どんな道を通ってはいりこんだか、説明することができる。
 
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 まことに奇妙なことに、子どもを教育しようと考えて以来、人は子どもを導いていくために、競争心、嫉妬心、羨望の念、虚栄心、貪欲、卑屈な恐怖心、といったようなものばかり道具につかおうと考えてきたのだが、そういう情念はいずれもこのうえなく危険なもので、たちまちに醗酵(はっこう)し、体ができあがらないうちにもう心を腐敗させることになる。
 
子どもの頭のなかにつぎこもうとする先ばしった教訓の一つ一つはかれらの心の奥底に悪の種をうえつける。無分別な教育者は、なにかすばらしいことをしているつもりで、善とはどういうことであるかを教えようとして子どもを悪者にしている。そのあとでかれらはわたしたちにむかっておごそかな口調で言う。
 
 「人間とはこうしたものだ。」そのとおり、きみたちがつくりあげた人間はそうしたものなのだ。
 
 人はあらゆる手段をもちいるが、ただ一つだけはもちいない。しかもこれだけが成功に導くものなのだ。それはよく規制された自由だ。可能なことと不可能なこととについての法則だけで子どもを思うままに導いていくことができないなら、子どもを教育しょうなどと考えてはならない。
 
可能なことと不可能なこととの範囲はどちらも子どもにはわかってはいないから、子どもを中心にして思うままにそれをひろげたり、ちぢめたりできる。わたしたちは子どもを束縛し、押しやり、ひきとめる。ただ、必然の絆(きずな)をもちいてそうするのであって、了どもがそれにたいして不平を言えないようにする。
 
事物の力だけで子どもを柔軟に、そして従順にして、子どものうちにどんな悪も芽ばえさせないようにする。なんの結果ももたらさないかぎりは、けっして情念ほ刺激されることはないからだ。(139p)
 
 自然からくる最初の衝動はつねに正しいということを疑いえない格率として示しておく。人間の心には生まれつきの不正というものは存在しない。そこにみいだされる悪はすべて、どういうふうにして、どんな道を通ってはいりこんだか、説明することができる。
 
人間にとって自然な唯一の情念は自分にたいする愛、つまり、ひろい意味における自尊心だ。この自尊心は、それ自体においては、あるいは、わたしたちにかんするかぎりは、よいもの、有益なものだ。そしてそれは、必然的に他人と関係のあるものではないから、この点においてはもともと利害のないものだ。
 
それを適用するとき、そして、なにものかと関係が生ずるときにはじめて、それはよいものともなり、悪いものともなる。自尊心を導くもの、つまり理性が発達するまでは、子どもは、だから、人に見られているからといって、聞かれているからといって、一言でいえば、他人との関係を考えてなにかしないようにすることが大切だ。
 
ただ自然がかれにもとめることをしなければならない。そうすればかれのすることはすべてよいことになる。(130-131p)
 
 一人の人間をつくることをあえてくわだてるには、その人自身が人間として完成していなければならない、ということを忘れないでいただきたい。考えていることの実例を自分のうちにみいださなければならない。
 
子どもがまだなにも知識をもっていないあいだは、子どもに近づくすべての者に、最初に子どもが見てもいいものだけを見させるようにすることができる。あなたがたをすべての人から尊敬されるようにすることだ。まず人から愛されてみんながあなたの気に入るようにしようという気にならせることだ。子どものまわりにいるすべての人の先生になれなければ、子どもの先生になることはできない。
 
そして、そういう権威は、美徳にたいする尊敬の念にもとづくのでなければ、けっして十分とはいえない。財布の底をはたいて、金をばらまくことが問題なのではない。
 
金銭が人を愛させることになった例をわたしはこれまで見たことがない。けちんぼだったり、不人情だったりしてはいけない。助けてやれる貧乏人をあわれむだけではいけない。
 
しかし、いくら金庫をひらいてもむだだ。心をひらかなければ相手の心もいつまでも閉ざされている。あなたがたの時間を、心づかいを、愛情を、あなたがた自身を、あたえなければならない。どんなことをしたところで、あなたがたの金はあなたがた自身ではないことを、人はいつも知っているのだ。
 
どんなものをくれてやるよりももっと効果のある、そして現実的にいっそう有益な関心と好意のあらわしかたがある。どれほど多くの不幸な人や病人は、施し物よりもなぐさめを必要としていることか。金よりも保護を必要としているどれほど多くのしいたげられた人がいることか。けんかしている人を仲直りさせるがいい。訴訟を未然にふせぐがいい。
 
子どもにその務めを行なわせ、父親に寛大な心をもたせるがいい。幸福な結婚をすすめるがいい。人の心を傷つけるようなことはやめさせるがいい。正しい裁きをあたえられず、権力者に苦しめられている弱い者のために、あなたがたの生徒の父母の信用を惜しみなくもちいさせるがいい。
 
自分は不幸な者の味方であると声高く宣言するがいい。正しく、人間的で、情けぶかくあれ。施し物をあたえるだけではなく、人々をいつくしむがいい。慈悲ぶかい行為は金よりも多くの苦しみをやわらげる。ほかの人たちを愛するがいい。そうすればほかの人たちもあなたがたを愛するだろう。かれらの役にたつことをするがいい。
 
そうすればかれらもあなたがたの役にたつことをしてくれるだろう。かれらの兄弟になるがいい。そうすればかれらはあなたがたの子どもになるだろう。(135-137p)
(ルソー著「エミール」岩波文庫)
 
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どのようなモラルか
 
 こういうことをふまえた上で、子どもにはできるだけ、民主主義的な、合理的な社会規範としてのモラルを身につけさせたいという思いが私にはあります。その際に、どういう基本的な、基礎的なモラルがあるかということですが、ルソーのつぎのような言葉が参考になります。「人間にとって自然な唯一の情念は自分にたいする愛だ」と。
 
自己の幸福を求める自然的・本源的な感情、いいかえれば自己保存欲求があるといっているのです。これは近代の権利思想の根源にあるものです。ホップズとかロックなどが唱えた社会契約論がでてくる背景に、人間は自分の生命を大切にしたいという他に代えがたい思いがあり、そこから権利なるものも発生してきています。権利概念の基礎に自己保存欲求、いいかえれば自分の命を尊重するという情念があると思います。
 
もう一つは、「憐れみの感情」、憐憫の情です。つまり他人の苦しみや悲しみを思いやるという姿勢、自然的な傾向です。ルソーはこれを人間性に根ざした二つの基本的原理といっています。私もこの二つは大事にしていいと思います。しかしそれは必ずしも、いついかなる時代にもいかなる社会にも、ストレートに出てくるものではありません。これは素質としてあるような生得的なものですから、家庭での教育だとか学校での教育、さらに地域でのさまざまな人間関係のなかでうまく育まれれば、この二つの基本原理は開発され、成長していくだろうと思います。
 
 しかし、たとえば命を軽視するような社会だとか、人の苦しみを思いやる余裕のないような時代だとか、そういうときには、生命を尊重しょうとか、他人の苦しみに共感しょうという精神は成長しません。ですからこれは、かなり生得的なものだと思いますが、「素質として生得的」であって、これを開発できるかどうかはその時代状況や大人たちの働きかけにかかわってくるわけです。
 
 生命の尊重ということについていえば、子ども自身が生きていることの楽しさとか、充実感だとか、体全体で自由に行動できることの喜びだとかが実感できなければ、自分の命を尊重しょうとか、大切にしようという思いは成長しません。逆にそういう充実感、自由に活動できることの喜びを実感できれば、命を大切に、などと大人がわざわざ教、えこまなくても、けっして自分の命をおろそかにしないであろうと私は確信しているのです。
 
 他人の苦しみや悲しみを思いやるという二つめの原理についても、群れ遊びや子ども同士のスポーツ、学びの集団での体験・経験。そういうものがあれば一緒に遊んでいて楽しい、一緒に勉強していて楽しい。そういう集団やクラスの楽しさを経験すれば、子どもは、大人が口をすっぱくしていわなくても仲間のありがたさを感じますし、集団の大切さを感じます。
 
だから仲間を尊重しようという気になる、自分が所属している集団がなによりも好きになる。これも、そういう条件やそういうことを実感できる場をいかに親や教師、大人がつくり出すことができるか、ということにかかっていると思います。
 
 仲間のありがたさ、集団の大切さ、こうしたものの実感がしっかりと子どもの心の中に根づきながら、少しずつ年齢を重ねていきますと、「人格」とか「権利」とかいう難しい抽象的な言葉に出会ったときでも、子どもは自分の体験からその本当の意味をつかんでくれるはずです。
 
自分の周りには、自分と同じように喜んだり、悲しんだり、遊びたい・学びたいと欲したりする年若い存在がいる、こういう当たり前の事実に気づくことによって、他の人たちも自分と同等の権利を要求して当然なんだ、と理解していくようになります。
 
逆に、日常生活の中で他の子どもたちとこうした交流や触れ合いがなく、つねに相手をライバル祝しなければいけない競争的環境にさらされている子どもは、人格や権利という語を教えられても、空虚な言葉として聞き流すだけになるでしょう。人格や権利を本当にはわかっていないのです。心底からわかってもらうには、どうしてもそれを支える豊かな経験の土壌が不可欠なのだと思います。
(種村完司著「社会的モラルの形成」月刊:経済2000年4月号 48-50p)
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◎モラルについて。大人のモラルがとわれています。
 
◎最近体験したことですが、プレゼントの値段が高いか低いかが愛情の「深さ」を測る(?)かのような行動です。値段で愛情をはからなければならない……。これっ、少なくとも豊かな感情とは言えないでしょうね。しかし、それは個人だけに限られているものでもありません。周りの若者が案外気にしていない≠フです。本人達は嬉しそうなのです。
 
香山リカ著「若者の法則」に──何でも金額や料金に換算して語る若者が、それだけお金に執着があるわけではない。彼らが執着しているのは、あくまで自分にとっての価値。そう思うと、「えー、大学の先生の給料ってそんなに安いのですか」というフレーズが、「先生にはもうちょっと価値があるはすですよ」というようにも聞こえてくる気がする。(9p)──とあります。