学習通信030803
◎悩むよりも真似るのが上達の基本 〓 つまり、ものを学ぶとは、真似をすることでもある。
 
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「はい、自分でメイクしてね」
 私はメイクさんにやってもらえるとばかり思っていたので、慌てて足りない道具で一生懸命メイクを始めた。とはいえ、メイクレッスンを受けた経験もない素人だったので、メイクの仕方そのものがよくわからない。かといって私だけメイクさんにお願いするわけにもいかず、見様見真似でトライした。眉毛はぶっとくファンデーションは厚塗りの、今思えばすごい顔である。
 
 カメラの前でポーズをとるポージングのレッスンも受けたことがなかったので、他の人がカツコよくポーズを決めている横で、私は棒立ちのままボー然とした。半泣きの心境のまま一日目は何もできず、「何しに来てるわけ?」と怒られまくった。
 
 このままではヤバイと思い、翌日からは先輩方の様子をじっと観察した。ホテルの部屋に帰ると、一定のリズムでくり返されるパシャツ、パシャツというカメラのシャッター音をイメージしながら姿見の前でポージングのレッスンをした。でも、いくらポーズが決まるようになっても表情が硬い。先輩方のようにキラキラと笑えない。
 
 いったいどうやったら笑えるんだろうと悩んでいたとき、巨匠カメラマンN氏にアドバイスされた。
「モデルだって演じなきゃできない。写真を撮られるだけじゃなく、その服を着たとき自分の感情をどう表現するか。この服を着て彼と夜のデートに行くのかピクニックに行くのか、シチュエーションを自分で考えてカメラの前で演じてみて」
 
 なるほどー、という感じである。それまでは、そんなことは考えもせずに服を着ていた。シチュエーションを意識し始めてからは、背景を考えて揺られるのと考えずに撮られるのとでは、写真のできや表情が全然違うということを学んだ。
 
 全身が映る姿見を置き、服を着てアクセサリーをつけ、化粧をはどこす。髪もセットして鏡の前に立ってみる。すると、『この服はウエストがポイントだから、真正面から撮らずにカラダをちょっと横に振ってみよう』などという具合にさまざまなイメージがわいてくる。それらはほとんど、先輩方の仕事ぶりを見て体験的に覚えた。
 
 メイクも、自分がしたメイク姿で雑誌に載った写真を見て、『眉毛太すぎ、もうちょっと整えなきゃ』とか『メイクはもっとナチュラルに……』などと反省しては実行してみる。
 
 撮って、見て、反省のくり返し。反省のたびに、メイクさんがいれば即座につかまえ、「これ、どう思う〜」「これ、どうやるの?」などと質問攻めにしていたので、さぞうっとうしかったことと思う。
 
仕事は誰かに教えてもらうものではなく、自分から動き、見て吸収しなければいけないのだということを知った。
 
 今でも雑誌の撮影をするときは、カメラの邪魔にならないよう反射光に気をつけて、正面に姿見を置かせてもらう。そして鏡の前に立ち、自分のなかでイメージが固まったら、そのイメージに合う音楽をバックに流して撮影に臨む。時には大きい扇風機を用意してもらい、風を送ってもらう。空気を動かすことによって表情も気持ちも変わるから。こういう今のペースは、当時学んだことの応用なのだ。
 
 どんな職業にも、その内容に合った仕事のやり方があると思う。それぞれの方法で基本を学んだら、よりやりやすい方向を探して自分なりのエッセンスを加えてみよう。日々の仕事がより豊かに広がるはずだ。
 
 藤原主義 悩むよりも真似るのが上達の基本
(藤原紀香著「藤原主義」幻冬舎 134-136p)
 
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 ここであらためて考えておきたいのは、ものを学ぶとはどういうことなのかということである。
 まなぶ、とは、まねぶ、である。まねぶとは、真似をするということである。
 
 つまり、ものを学ぶとは、真似をすることでもある。
 
 真面目な生徒は、必ず、先生の真似をするものである。話し方や字の書き方、ときには歩き方まで真似るものである。そうしてはじめて、生徒は先生に少しでも近づくことができる。
 
 真似とは、「真」に似ることである。「真」とは、先生であり、手本のことである。しかし、生徒が先生をこえることもある。手本よりもすばらしいものをつくることもある。いわゆる「出藍のほまれ」(しゅつ‐らん=出たものが、その出るもとのものよりも、まさっていること。弟子(でし)が師よりもすぐれていることなどにいう。)である。
 
 モーツァルトの「真似」は、単なるコピイではなく、もちろん「出藍のほまれ」のほうである。「真似」は手本をこえてこそ、真の「真似」である。そういう意味で、モーツァルトは「真似」の天才であったと言うことができるのではなかろうか。
 
 ことばをおぼえるように音楽をおぼえる
 
 日本人は模倣の能力にはすぐれているものの、創造力に乏しい、とよく言われるが、こういう安易な用語法には気をつけたいものである。ここでは、模倣と創造力とが対立したものとして考えられているが、はたしてそうだろうか。そもそも創造力とはいったい何だろうか。「日の下に新しきものなし」という名言もあるではないか。グレン・グールドの言うように、模倣する能力と創造する能力とは限りなく近いのである。
 
 少なくともモーツァルトに関するかぎり、一般に彼の独創力と思われていたものは、彼の模倣力にほかならないことが、おわかりいただけたことと思う。彼の才能は、まなぶ才能、真似る才能なのである。
 
 ところで、彼はいかにして真似る才能、模倣の才能を身につけたのか。
 モーツァルトの父レオポルド・モーツァルトが音楽家であることはすでに触れたが、彼は二人の子供のために、みずから音楽教育のプログラムをつくり、それを厳格に実行した。二人の子供とはアマデウス本人と、五歳年上の姉のナンネルルである。アマデウスが生れたころには、すでに姉のナンネルルの音楽教育ははじめられていて、レオポルドは弟子に教えたり、あるいは自分自身の練習もするということで、モーツァルト家には、一日中、音楽が鳴り響いていた様子を想像することができる。
 
アマデウスは、脳細胞がもっとも受容的で柔軟な時期に、音楽の放射をあびながら育ったわけである。たぶん、このことも父レオポルドの教育プログラムの一部にはいっていたのかもしれない。要するに、アマデウスは、ことばをおぼえるように音楽をおぼえたのであるが、言うまでもなく、ことばをおぼえるうえでもっとも大切なのは真似をする能力なのである。ほとんどすべての人がことばをおぼえることからもわかるように、真似をする能力こそ、人間にそなわったもっとも基本的な能力なのである。
 
 そして、「真似」の天才をつくりあげるために大いに役立ったのが、六歳のころから二十歳にかけて何回も行われた外国旅行である。当時、生れ故郷のザルツブルクは音楽の流行の点では後進地域であった。もっとも新しい音楽が聴けたのはイタリアの各地、パリ、そしてロンドンであって、モーツァルトはこれらの地を訪れては、さまざまな新しい音楽に接することができた。
 
ミヒャエル・ハイドンはザルツブルクからほとんど出たことがなく、外国の新しい音楽についての知識に関しては、モーツァルトのほうがはるかに有利な立場にあった。なにごとにつけ、無からの創造は不可能である。豊富な知識こそ、創造の源泉である。さまざまな音楽に接してゆたかな音楽の泉をたくわえたモーツァルトは、ほんのちょっとした発想の断片からすばらしい旋律をつくりだすことができたのである。そのことを何よりもよく語っているのが、最後の作品『レクイエム』なのである。
 
 モーツァルトの作品の多くは、『レクイエム』と同様、注文生産であって、彼自身の内的衝動から作曲されたものはほとんどない、と言われている。彼が心がけたのは、当時の人びとが望むような音楽をつくることであった。そのために、彼は心おきなく他人の音楽を利用して、独特のすばらしい音楽をつくりあげたのである。「模倣」や「真似」がなければ、モーツァルトの傑作の多くは存在しなかっただろうと言ってよい。
 
 しかし、それでも、「真似」の天才、モーツァルトという見方にまだなじめない方には、アメリカの哲学者エマソンの次のようなことばを紹介しておきたい。
 
「真に独創的な人間のみが、他人から借りることを知っている」
 
 エマソンはさらにこんなふうに言う − あらゆる本は引用であり、すべての人間は先祖からの引用であって、クモのように自分自身の腹のなかから糸をたぐり出して巣をつくったりするような独創性を求めるとしたら、ひとりとして独創的天才などいなくなる、もっとも偉大な天才とは、他人のお陰をもっとも受けている人間である、と。
 
 モーツァルトはまさにそういう天才であった。
(木原武一著「天才の勉強術」新潮選書 28-31p)
 
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 現代の社会主義は、その内容から言えば、まず第一に、現代社会の実地の観察の産物である。
 
つまり、一方では、現代社会に広く行きわたっている、有産者と無産者との・賃金労働者とブルジョアとの階級対立、他方では、生産のうちに広く行きわたっている無政府状態、この両者がともに具体的に実見された結果、生まれたものである。
 
しかし、その理論上の形式から言えば、はじめは、一八世紀フランスの偉大な啓蒙思想家たちが打ち立てた諸原則をいっそう推し進め、表向きはもっと首尾一貫したものにした、そういうものとして現われる。
 
どの新しい理論とも同じく、現代の社会主義も、どれほど経済的諸事実〔初版では「物質的な経済的諸事実」〕のうちに根をもっていたにせよ、さしあたっては、目の前にある思想材料を受け継ぐほかなかったのである。
(エンゲルス著「反デューリング論」新日本出版社 29p)
 
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◎学ぶということ。みんなやっている真似る≠ニいうこと。自信をもってどんどん自分のものにして良いのです。そうしてこそ、自分らしさもできあがってくるのです。
 
◎昨日から始まった「全国保育合研」。労働学校の中心的メンバーが要員として走り回っています。京都の真夏です。
 
「自分の力でやること、甘えること、失敗することは子どもの発達の基盤です。この三つが保障されなければ、体は大きくなっても心は育ちません」(池添さん)。
 
「子どもは育つ力を発揮したがっているが、いまは置かれている環境と育つ力のあつれきを起こしている」(神田さん)
(しんぶん赤旗030803 14面 から)
 
全面的に賛成です。
いま「エミー」を深く読んで身につけることに感動します。
労働学校の116期のテーマは「学習と連帯 可能性の発見と発揮」です。共感しています。
 
要員で走り回っていて話しを聞いていないと思うけど、いつ論議しすすめている保育運動や運営活動を裏付け励ます内容です。
ごくろうさん。