学習通信030804
◎ウンコのようなこだわり…… 松ちゃんのウンコ≠ニは どうにもならない ということのようだ。
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あのとき横山やっさんを殴っといたらよかったわけ
あれは、確か十年くらい前、吉本興業入りたてホヤホヤのわれわれダウンタウンが、初めてプロとしてテレビに出た(といっても、当時はダウンタウンというコンビ名でなかったが)。テレビ朝日の「ザ・テレビ演芸」という横山やすし司会の番組であった。あのころのやっさんといえば絶好調で、黒い物も彼が白いと言えば白というほどパワーがあった。
そんな状況で、われわれ二人もそこそこ緊張ぎみで十分ほどの漫才をやり終えた。テレビ初出演のわりにはそれなりの成果を得られたと、少なくともオレは満足していた。
だが、やっさんは怒りをあらわにして、舞台の袖から飛び出して来た。
「お前らはナメとんか!」
「そんなもん漫才やない!」
「チンピラの立ち話じや!」
チンピラはお前じや、というツッコミを入れられないほど、彼はわめき散らした。オレは何度も手が出そうになったが、とりあえずガマンすることにした (殴っといたらよかった)。番組が終わってからも、漫才とはこういうもんだとお説教が続いた。
ただ、何もオレはこの場をかりて、横山やすしの悪口を書きたいわけではない。師匠と言われる人たちの多くは、「あんなもん漫才じやない」とか「漫才とは……」などとわけの分からんこだわりのようなものを持っている。それに対して、オレは怒りを感じるのだ。
もともと漫才とは、そんなこ難しいものではないのだ。舞台の上で、二人がおもしろい会話をする、それだけのことなのだ。
チンピラの立ち話でおおいに結構だ。チンピラが立ち話をしているので、聞いてみたらおもしろかった。最高やないか! それこそオレの目指す漫才なのである。
間が悪い、テンポがどうした……関係ない。笑えるか笑えないかがいちばん大事なことであり、テクニックは後からついてくるものである。
最近、若い漫才師が育たないいちばん大きな理由がそこにあることをなぜ気づかないのだろうか? 漫才を思うあまり、逆に漫才を衰退させているのだ。皮肉な話である。そんな奇妙なこだわりは、一刻も早く捨てるべきだ。
待てよ、このわけの分からんこだわりは、高校球児の坊主頭に通じるものがある。野球と坊主頭に何の関係があるというのだ。ウンコのようなこだわりである。
中学、高校時代、オレのまわりにもいっぱいいた。野球が好きでやりたいが、坊主にするのが嫌でサッカーやっていたヤツ。坊主頭へのこだわりのせいで、せっかくの才能を逃しまくっているのだ。もし、あんな決まりがなかったら、日本の野球のレベルはいまごろもっと向上しているのではないだろうか? いや、絶対そうだ(そら、サッカーに食われるわなあ)。
結局オレが言いたいのは、漫才、野球に限らず、バカなおっさん連中のカタイ頭とこだわりが、せっかくの若い才能の牙を摘み取っているということで、あのとき横山やっさんの手によって一歩間違えばダウンタウンという漫才コンビは、この世に存在しなくなったかもしれないのである。
(松本人志著「「松本」の「遺書」」朝日文庫 85-87p)
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あんなものをデモストレーションというのなら、私も昨年末、何度か有事法制反対のデモ」なるものに参加し、かつてとの様変わりに驚き、砂噛む思いどころか鳥肌が立つようなことも経験した。
いったいどんな意味があるのか、動物の縫いぐるみをまとった者や看護婦に仮装した男が先頭で踊ったり、造花を道行く人に配ったり、喇叭(らっぱ)や太鼓を打ち鳴らしたりという「デモ」もあった。あれが今風なのだといわれても私にはわけがわからない。示威行進のはずなのに、怒りの表現も抗議のそれもさほどではなく、なぜだか奇妙な陽気さを衒(てら)う、半端な祭りか仮装行列のようなおもむきのものが少なくなかった。
児戯、滑稽、無惨、あほらしさ、恥ずかしさ、虚しさ……。いっそ隊列から抜けだしてしまいたい衝動に何度もかられたが、そうしなかったのは、有事法制反対の声のヴァリエーションは、私の声調から彼らの声調まで無限にあって当然であり、不快は不快でも、さしあたりはそれらの声を重ねたりつなげたりして少しでも大きくせざるをえないという考えからであった。
もう一つ。私の周辺には、わけ知り顔で世を憂えるふりをして、そのじつただの現状追随者にすぎない編集者や記者やディレクターや、口先だけ体制批判を語り、実際にはでたらめな大学行政に諾々と従っているような腐れ学者らが掃きすてるほどいて、その類の輩にかぎり、デモなどが話題になると、なにをいまさらと、さも小馬鹿にしたように口の端をゆがめて苦笑するのである。
そんな者どもと状況の危機を語らってなに面白かろう、という思いも手伝い、私は年甲斐もなくデモ、いや埒(らち)もない行列に参加したのだ。口先だけの編集者らとの交わりはたとえようもないほど虚しい。犬の糞以上のつきあいである。思えばデモだっておそろしく虚しい。だが、同じく虚しい二つのことがらのどちらか一つと交わらなければならないとしたら、私としては迷いなく後者のそれをとる。つまり、冒頭の手紙の主のように、実際に犬の糞を踏む運命のほうを選ぶ。
埴谷雄高はかつてみずからが加わったデモについて「大きな愉悦から苦い自覚に至るまでの怖ろしいはど幅広いあいだに含まれている数知れぬ(相反する気持)を殆ど数歩ごとにつぎつぎと転変させながら……」(「六月の(革命なき革命)」『罠と拍車』未来社)歩いたのだと、じつに的確に表現したことがある。
もっともこれは全国で連日、数百万単位の人びとがデモに参加した日米安保阻止闘争の最高潮時、しかも国会突入時の心象を語っているのであり、「愉悦」もまたむべなるかな、なのであった。いま、デモにおける「大きな愉悦」など望むべくもない。抵抗の水位が下がっているどころか、まるで干潟(ひがた)のようなところで闘わざるをえないのだから。
あるのは「苦い自覚」 のみである。しかしながら、抵抗の規模がどうあれ、「愉悦」などという独り善がりというか錯覚よりも、「苦い自覚」のほうが、抗議行動のいかなる局面にあってもよほど大切なことではないだろうか。往時、しばしば勘ちがいしてデモの「愉悦」に浸ったこともある私などは現時点ではそう痛感している。
なまじいっとき「愉悦」や「至福」などを感じていたから、この国の抵抗運動は今日のていたらくとあいなったのではないか。逆にいえば、閑散とした集会場所で犬の糞を踏む虚しさこそがたしかな感覚なのだ。それでも抵抗を諦めない、いわば(虚しさを底に溜めた冷めた意思)のほうが、いつにあっても、「愉悦」よりは正確であり、ときに戦闘的になりうるのである。
(辺見庸著「いま、抗暴のときに」毎日新聞 18-20p)
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ファイト/
1.あたし中卒やからね 仕事をもらわれへんのやと書いた
女の子の手紙の文字は とがりながらふるえている
ガキのくせにと煩を打たれ 少年たちの眼が年をとる
悔しさを握りしめすぎた こぶしの中 爪が突き刺さる
私、本当は目撃したんです 昨日電車の駅、階段で
ころがり落ちた子供と つきとばした女のうす笑い
私、驚いてしまって 助けもせず叫びもしなかった
ただ恐くて逃げました 私の敵は 私です
ファイト! 闘う君の唄を
関わない奴等が笑うだろう
ファイト! 冷たい水の中を
ふるえながらのぼってゆけ
2.暗い水の流れに打たれながら 魚たちのほってゆく
光ってるのは傷ついてはがれかけた鱗が揺れるから
いっそ水の流れに身を任せ 流れ落ちてしまえば楽なのにね
やせこけて そんなにやせこけて魚たちのぼってゆく
勝つか負けるかそれはわからない それでもとにかく観いの
出場通知を抱きしめて あいつは海になりました
ファイト! 闘う君の唄を
関わない奴等が笑うだろう
ファイト! 冷たい水の中を
ふるえながらのぼってゆけ
3.薄情もんが田舎の町にあと足で砂ばかけるって言われてさ
出てくならおまえの身内も住めんようにしちゃるって言われてさ
うっかり燃やしたことにしてやっぱり燃やせんかったこの切符
あんたに送るけん持っとってよ 渉んだ文字 東京ゆき
ファイト! 闘う君の唄を
闘わない奴等が笑うだろう
ファイト! 冷たい水の中を
ふるえながらのぼってゆけ
4.あたし男だったらよかったわ
力ずくで男の思うままに
ならずにすんだかもしれないだけ
あたし男に生まれればよかったわ
ああ 小魚たちの群れきらきらと
海の中の国境を越えてゆく
諦めという名の鎖を
身をよじってほどいてゆく
ファイト! 闘う君の唄を
賄わない奴等が笑うだろう
ファイト! 冷たい水の中を
ふるえながらのぼってゆけ
ファイト! 闘う君の唄を
闘わない奴等が笑うだろう
ファイト! 冷たい水の中を
ふるえながらのぼってゆけ
ファイト!
(中島みゆき ファイト! )
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◎政治や経済……世界も大きく変化しているが、私たちも青年も大きく変化している。「わかっている!」とそれこそしたり顔でいうでしょう。しかし、中島みゆきの「ファイト!」、結構労働学校の受講生が知っていて口ずさんでいます。もちろん私は知りませんでした。
こんな気持ちで闘うということを考えざるを得ない時代なんです。それでもファイト! というわけです。見かけで判断なんて出来ない時代だと思います。知ったとき、CDを回したときには鳥肌がたちました。急がなければ、と。
◎母親大会で三上先生が「子どもの成長はジグザグ発達」と話されたことが報道(しんぶん赤旗030804)されています。子どもをありのままに捉えることができなければ……その努力が求められているのです。目の前のものが、そのまま見えないほど私たちが「壊されている」のです。
労働学校がはたす役割は大きい。