学習通信030805
◎恋愛……異性の友情 「なんでもいいから、とにかく恋愛してなきゃ」といった強迫観念から自由に
 
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恋愛至上主義への強迫観念
 
 三高。
 知らない人たちのために解説すると、「サンコウ」と呼びます。背が高く学歴も年収も高い人という、かつての理想の結婚″の三条件のことです。
 
 時代遅れだけど、あまりにも身もフタもない、このナイスな言葉。
 ここには、恋もなければ愛もありません。ルックスだってセンスだってフィーリングだって、関係ないのです。ただ、身長・学歴・収入あるのみ。この三高という言葉の前には、この本のテーマであるはずの「恋するココロの謎を深く考えてみよう」なんて、チャンチャラおかしく聞こえちゃいますね。
 
 でも、よく考えてみると、「結婚するなら、やっぱり三高の男よねー」なんて言っていたあの時期の女性たちは、どうしてあんなにドライでクールでいられたんでしょう。
 
 それに比べると、不倫にまで真実の愛″を求めようとする今の私たちは、よほど純情な気がします。
 なんだか、第四次(だか第一五次だか知らないけど)恋愛至上主義の時代がやって来たみたいです。
 
愛だけ男″はただのナマケ者?
 
 愛こそすべて。楽しきかな、美しきかな。
 しかし、お目々キラキラさせて「やっぱ、条件じゃなくて愛が大切よん」なんて言うようになってから、女たちほ昔以上に幸せになっているのか。私にはそうほ思えません。
 
 それもこれも、男が悪いのです。
 彼らはそのオトメの純情を逆手に取って、「オレ無職だけど関係ねーよな、愛だろ、愛」とばかりにイイ気になっているからです。
 
 ハートやフィーリングが大切だから、と条件バッド君も起死回生とばかりに愛に賭けてくれた……っていうならいいんですけど。それどころか、
今まで三高男に闘争心を
 
 燃やしてがんばっていたなんでも人並みの三中(?)男でさえ、「今のオレでオッケーだってさー」と、何もしてないのに「自分で自分をはめてやりたい」なんて言ったりし始めたんです。
 
「とにかく恋愛しなきゃ」の心理
 
 そのような、アマアマのユルユル男たちといくら恋愛したって、ちっとも幸せになんか、なれっこありません。
 
 でも、元はといえば、三高をあっさり否定して「とにかくハートが大切よ」と思った女性たちにも、責任はあるんだけどね。
 
 とにかく、闘いを忘れた男は、歌を忘れたカナリヤより使えない。「どーせ、オレは…」と卑屈になられるのも困るけれど、「条件の悪さを努力でカバーしてやるぜ」くらいの根性は、やっぱ、ほしいじゃないの。
 
 そのためには、まず女性たちが「なんでもいいから、とにかく恋愛してなきゃ」といった強迫観念から自由になることですね。「よくわかんないけど彼氏が切れたことないのー」っていうよりは、「この一〇年、恋愛してないけど、ホンモノの男をさがしてるの」という方がずっといい。
 
 それに、「ヘソな恋愛するよりは、孤独な方がずっといい」という潔い態度こそが、男たちを闘いのフィールドへと駆り立て、磨いていくのである。
 
 その孤独に耐えられないから、とりあえず手近な男女がくっつき合って…なんていうのは、恋愛にドップリつかっているようであって、実ほ休んでいるようなもの。
 
「いいんだ、あたしゃ休めれば」っていう若いいバーサソ≠ヘそれでもいいんだけど。
(香山リカ著「「好き。」の精神分析」大和書房 34-37p)
 
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 初恋のときめきと憂い
 
 しかし初恋をする時、少年少女たちはその意味を充分に理解できるものだろうか。私は初恋で、自分がなぜときめいているのかわからなかった。その「自分でもわけのわからない激しい感情」を、見事に描き切った近代小説がある。樋口一葉の『たけくらべ』である。
 
 主人公、美登利(みどり)は一四歳。今の年齢で言えば一三歳ぐらいだから、中学一年生である。姉は吉原で一番の遊女。美登利は姉のようになりたいと思っている。美登利の父親も母親も「廓(くるわ)者」、つまり遊廓を仕事場にしている。吉原は華やかな場所であるし、美登利は小遣いに困らない。友達に気前よくものを買ってやるような子供で、賑やかなことが大好き。表町界隈の子供仲間の女王様だ。
 
ところが、夏祭りの日の喧嘩騒ぎを境に、学校に行くのをいやがるようになる。表向きは、横町組の鳶(とび)の頭の息子長吉に、泥だらけの草履(ぞうり)を投げつけられた悔しさからのように見える。しかし美登利のくやしさは長吉に向かっているのではなく、長吉が仲間だと言った、龍華寺(りゅうげじ)の跡取り息子、藤本信如(しんにょ)に向かっている。美登利の心は信如を責め、信如のことでいっぱいになっている。
 
 ある日、いつものように子供たちが集まる筆屋で、外に物音がした。信如が前を通ったという。美登利は「意地悪るの、根性まがりの、ひねっこびれの、吃(どんも)りの、歯かけの、嫌やな奴め」と、信如に対してありつたけの罵詈雑言(ばりぞうごん)。そして「一寸見てやる」と外に出てゆくが、去ってゆく信如の背中を見たとたん、美登利の中で何かが変わる。
 
美登利は、「四五軒先の瓦斯灯(がすとう)の下を大黒傘肩にして少しうつむいて居るらしくとぼとぼと歩む信如の後かげ、何時までも、何時までも、何時までも見送る」のだった。
 
 美登利の中に、二つの気持ちがせめぎ合う。胸をときめかせて信如を見つめる気持ちと、邪険にされている辛さを跳ね返そうとする攻撃心である。信如の中でも、二つの気持ちがせめぎ合っている。美登利とのことで噂を立てられた屈辱感と、遠ざかろうとしながら意識してしまう気持ちである。その矛盾した気持ちのまま、物語は雨の日のクライマックスへと向かう。
 
 大雨の日、たまたま美登利の家の前で鼻緒を切ってしまった信如は、何とか直してそこを早く去ろうとするのだが、その姿を美登利が見つける。信如はわなわなと震え、美登利は信如だと気づいて胸の動悸(どうき)がおさまらない。
 
鼻緒を直すために持ち出した真紅の友禅染めの端切れを、美登利は手渡すことができず、雨の中に投げ出す。信如はそれを拾うことができず、振り返り振り返りそこを去ってゆく。燃えるような紅色の端切れが泥の中に放置される。
 
 この、どちらも手に取ることができないまま、雨に濡れ、泥にまみれてしまう紅色の端切れこそ、「初恋の情熱」である。自分たちの手に取って、育ててゆくことのできない恋も、この世にはあるのだ。
 
 しかし面白いことにこの作品の中には一度も、「恋」という言葉が出て来ない。なぜなら、美登利も信如も、自らのときめきや憂いや恐怖心が何なのか知らないからである。自分で言葉にできない情熱こそ「初恋」 の特徴で、その初恋を書いたこの作品は「近代文学」成立の一つの現場であった。今までの言葉によって説明できない現実の出現を、できあいの言葉に押しこめることなく、一葉はとことん見つめて書き続けたのである。
 
 これはたまたま初恋の物語だが、どんな恋についても、私たちはこの物語を覚えておいたほうがいいのではないか。つまり、「恋はこういうもの」「恋はこうあらねば」「恋はこういうはず」ということはない。絶対にない。
 
恋には何が起こるかわからない。恋心は人間としていいものとも、幸せなものだとも限らない。相手を「愛している」と言いながら焼き殺すこともある。攻撃する気持ちも生まれる。恐怖もある。矛盾する気持ちがいくつも同居することもある。
 
私の考えでは、「恋かも知れない」と思ったら、あえて「恋」と名づけないほうがいい。名前をつけずにじっくり自分の気持ちと、相手の気持ちを見つめ、観察する理性がほしい。
 
一葉は二四歳で死ぬ。短いあいだに彼女は、自分の恋を通して、恋というものが、「恋」という言葉では説明し切れないほど、多様な感情と微妙な襞(ひだ)と深い人間性をともなうものであることを、恐らくとことん知った。
 
また、女が女であることで担う運命があるということも、いやというほど味わった。恋はこのように、人間の矛盾や複雑さに気づく機会になりうるのである。
(田中優子著「江戸の恋」 48-50p)
 
 
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異性の友情
 
 異性との間の友情の可能やその美しさなどについてより多くさまざまに思い描くのが常に女性であるということについて、私たちはどう考えたらいいのだろうか。
 
 十五、六歳のういういしい情感の上にそのさまざまな姿が描かれるばかりでなく、二十歳をかなり進んだひとたちも三十歳の人妻もあるいは四十歳を越して娘が少女期を脱しかけている年頃の女性たちも、率直な心底をうちわってその心持を披瀝(ひれき)すれば、案外にもその人たちが十七、八歳か二十ごろ抱いていた、異性の間に友情は成り立たないものかしら、というぼんやりした期待、疑問を、そのまま持ち越している人たちがかなりあるのだろうと思う。
 
 そして、そういう現代の女性の比較的表現されていない気持は、後輩や娘たちが当事者として、異性との間に友情と恋愛の感情の区別をはっきり自覚しないでいろいろ混迷しているとおり、やはり事態に対して何となし判断の混乱におかれている場合がすくなくない。
 
 でも、どうしていつも女性の側が、ほとんどその年齢にかかわらず異性との闇により広闊(こうかつ)な友情を求める心理にあるのだろうか。男の雑誌に、異性との友情について書かれる記事はまれなのに、どうして女性のための雑誌は、時を置いてはこのテーマをくりかえす必然におかれているのだろうか。
 
とくに、日本の婦人雑誌では、女の幸福についての論議や異性の間の友情の可能についての文章が多い。この事実には、近代日本というものの深い歴史の影が現われていると思わざるを得ない。
 
 もし日本の習俗の中で男性というものが女性にとって、良人候補者、あるいは良人という狭い選択圏の中でばかりいきさつをもってくるものでなかったら、異性の間の友情について常に何かロマンティックな色どりを求めるいくらか病的な感傷性も、きっとずいぶん減っただろう。
 
幼稚園時代から引きつづいた男の子と女の子との共同生活の感情が、成長した若い男女の社会的な働く場面へまで延長されている社会なら、両性の共感の輪も内容もひろげられ、明るくされ、今日つかわれる異性の友情という表現そのものが、何か特定な雰囲気を暗示しているようなうざっこさは脱して、たのしい向上的な両性の友情感が一般の社会感情の一つとしてゆきわたるのだろうと思う。
 
そういう社会的な土台があっての両性の友情感であれば、おのずから恋愛との区分も、感情そのものの質のちがいとして、本人たちもはっきり自覚することができるのだろう。
 
 日本で、さわやかな両性の友情の成り立ちが困難な原因は、もう一つあると思う。それは、日本の婦人ぐらい欧米の男にだまされやすい女性はないという、その現実の源泉と社会的な性質ではまったく同じもので、日本の女性たち日常は、どちらかというと男から荒っぽく扱われ生活感情を圧しつけられて暮らしている。
 
男のひとのいいぶんとすれば、その外見的な粗暴のかげに日本の亭主ほど女房を立てているものはないと説明される。だけれど、男の側から見かけだけは荒っぽく扱われている日本の女こそ、習俗の上で見かけの礼儀や丁寧さのこまやかな欧米の男にだまされやすいということは、外見だけの荒っぽさと称される境遇が、それだけ女の心を、外見のねんごろさにさえもろくしている深刻な機微を語っているのだと思う。
 
外見だけのこととしていいくるめきれない女性歴代の情感の飢渇が、哀れな傷をそこに見せているのである。
 
 日本の女性が両性の友情の間で紛糾(ふんきゅう)を生じがちなのは、われ知らずそこに、自分たち日常の現実にあらわれている関係のきまった男との間にあるいきさつとは異なった気分、より圧迫のすくない、女としてより負担と責任との軽い、それゆえ、より人間として自分を溌剌(はつらつ)とさせると感じられる気分だけを主観的に求めて、友情というものの責任観を十分身につけていないところから生じていると思う。
 
 男性たちにしても、女が生きてきたと同じその歴史のうちで生長してきているのだから、同じような感情のあいまいさや節度の不分明なところを弱点として持っているのは当然である。紛糾(ふんきゅう)は、女性が自分の感情の本質をはっきり知っていないことからひき起こるばかりでなく、男性が両性感情でまだ未熟粗野であることからもおこってきているのである。
 
 河合栄治郎氏がよほど以前アメリカに留学しておられた時分、友人であった一人のロシア生まれの女性が、非常によく両性の友人としての交際に訓練されていて、そのために氏は多くのことを学び、男と女との間に友情がまっとうされるためには守るべきいろいろの限界があることと、そしてそれを守る節度によってますます友愛はそのものとして清潔に美しくあり得ることを知ったよろこびを語っておられたことがあった。
 
 友情というものはただ男と女とが組みになって遊んでいるというよりも深い本質に立つものである。感情の三分の二ほどは恋愛的なものだが、その責任を互いにさけて、対外上にも友情の仮面を便宜としているというふうな自堕落なものでもないと思う。
 
 少年少女時代から一緒に種々様々な行動をして育つ外国の両性たちの間に、細かい礼儀のおきてがあって、たとえば女の子はけっして自分の寝室に男の友達を入れないという慣習などは、建物の構造が日本とはちがっているという条件からばかりでなく、やはり一方に自由闊達(かったつ)な両性の交際が行なわれている社会の習慣が、その半面にもっているけじめなのだと思う。
 
 日本の今日の実際にふれて周囲を見わたすと、大部分の人々の青春は、両性の友情などというものからは、思うよりもはるかに遠くおかれて過ごされているのだと思う。兄妹がいて、それぞれ学校生活をしていたり勤めたりしている人たちでも、なかなか互いの友人たちを家庭の内で紹介しあって、淡白に愉快につき合ってゆくという習慣はできていない。
 
家庭の雰囲気と若い男女たちの生活感情との間に見えないギャップがあって、相当の年ごろになった娘や息子は、友達の問では自分を親の家の空気の重さからはぬけた者として感じていたい心をもっている。
 
男の子は自分たちだけ、女の子も自分たちだけ。その点では兄も妹も別々で、まともな心持の若いものは、かえって兄と妹とのグループをごっちやにして外で遊ぶというようなことはしないらしい。
 
 従って何か特別な社会環境にいる人でない限り、互いの接触はたいへんまれなことになり、友情という広範な感情で訓練される間もなく、本質的には偶然なきっかけが特定な人への特定な感情へと導かれる場合が多くなってしまうのである。
(宮本百合子著「若き知性に」新日本新書 34-38p)
 
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◎とにかく一人で抱え込まないで、どんどん議論してみることが大切です。進行中であるかどうか、なって関係ない。自分が思い込んでいることが沢山あるに違いありません。
 
◎1年前の運営委員会の会議で「やさしくしてくれない」とある女性が、洋服屋さん(?)の店員の話しをしはじめる。真面目に答える私。その彼女がこの秋に労働組合の活動家と結婚するようです。おめでとう! と。これッ わかっている人しかわからないわね。
 
「なんでもいいから、とにかく恋愛してなきゃ」といった強迫観念から自由に……、香山氏が「結婚幻想」という本を書いています。