学習通信030807
◎言葉 抑揚は話の生命である。それは話す感情と真実味をあたえる。抑揚はことばよりもいつわることが少ない。
 
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 しかし、第一に、この極端は、もう一つの極端にくらべて、それほど悪いことではないと思われる。話すことの第一の法則は自分の言うことをわからせることにあるので、人々がおかすもっとも大きな過ちは話していることがわからないということだからだ。
 
話に抑揚のないことを自慢するのは、その美しさと力づよさを欠くことを自慢することだ。抑揚は話の生命である。それは話す感情と真実味をあたえる。抑揚はことばよりもいつわることが少ない。
 
だからこそ上品に育てられた人々は抑揚をひじょうに恐れているのだろう。なんでも同じ調子でいう習慣から、相手が気がつかないように人をからかう習慣が生まれたのだ。抑揚をつけることをやめると、そのかわりに、流行によっていろいろと変わる、こっけいな、気どった発音のしかたがもちいられる。
 
それはとくに宮廷の若い人たちのあいだにみとめられる。そういう気どった話しかたや態度が、一般的にいって、フランス人をほかの国民にとってとっつきにくい不愉快な人間にしている。話に抑揚をつけるかわりに、フランス人は節をつけているのだ。これはフランス人に好意を感じさせるものとはならない。
 
 子どもがもつことになりはしないかと人々がひじょうに恐れている言語についての小さな欠点はすべて、なんにも気にすることはない。それはごくかんたんにふせげるし、なおすこともできる。しかし、子どもの話を聞きとれないもの、あいまいなもの、おずおずしたものにしたり、話をするときの態度をたえず批評したり、ことばにいちいちけちをつけたりすることによって生じさせた欠陥はけっしてなおすことができない。
 
 時期が来ないのに、子どもにいそいで話をさせようとすることから生じるもっとも大きな弊害は、子どもにしてやる最初の話や子どもが語る最初のこどばが、子どもにとってなんの意味もないものになるということではなく、わたしたちの意味とはちがった意味をそのことばがもつことになり、しかもわたしたちがそれに気がつかないでいるということだ。
 
そこで、たいへん正確な返事をしてるようにみえながら、子どもはわたしたちを理解せず、わたしたちも子どもを理解しないで話をしていることになる。一般的にいって、こういうあいまいさからわたしたちはときどき子どもの言うことに驚かされるのだ。
 
そのことばにわたしたちがあたえている観念を子どもはそれに結びつけていないのだ。子どもにとってことばがもっているほんとうの意味にわたしたちが注意をほらわないこと、これが子どもの最初のまちがいの原因になるものと思われる。
 
そしてこういうまちがいは、子どもがそれを改めてからも、一生のあいだかれらの考えかたに影響をおよぼす。わたしは今後も一度ならず、例をあげてこのことを説明する機会をもつだろう。
 
 したがって、子どもの語彙はできるだけ少なくするがいい。観念よりも多くのことばを知っているというのは、考えられることよりも多くのことがしゃべれるというのは、ひじょうに大きな不都合である。都会の人にくらべて一般に農民がいっそう正しい精神の持ち主である理由の一つは、かれらの語彙がかぎられていることにあると思う。かれらはそれほど多くの観念をもってはいないが、それらの観念をひじょうによく比較することができる。
 
 子どもの初期の発達は、すべてがほとんど同時に行なわれる。子どもは話すこと、食べること、歩くことを、ほとんど同じ時期に学ぶ。これが正確にいって人生の最初の時期だ。それまではかれは母親の胎内にあったとき以上のなにものでもない。感情ももたず、観念ももたない。わずかに感覚があるだけだ。かれは自分が存在しているということさえ感じていない。 かれは生きている。しかし、自分が生きていることを知らない。
 
(ルソー著「エミール」岩波文庫-上- 92-96p)
 
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 そこで、まず言葉に関して述べます。
 第1に、言葉にはきちんとした定義が必要だということです。なにを言っているのかわからないぼんやりとした吉葉を使っていては、ものごとをはっきりと考えることはできません。言葉の定義が非常にはっきりしている例として挙げられるのは、たとえばユークリッド幾何学です。
 
けれど、たとえば社会問題はそんなにはっきり定義することはできないのです。もっとぼんやりしています。代表的なのは政治的な言葉です。議会の答弁に使われる言葉などは、その最たるものと言ってよいでしょう。
 
 それには二つの理由があります。ひとつは、政治的な現象を扱う概念は、一般にあまり正確には定義できないということがあります。他方、議会の答弁などでは、しばしば、「できない」からではなくて、もっと正確に言うことができるのに、故意にごまかしてぼんやりさせることがあります。
 
 たとえば「戦争」という代わりに「有事」などというのがそうです。この言葉の定義は、大いに疑わしいと思いませんか。有事法制をいま議会で議論していますけれど、「有事」っていうのは「戦争」の意味でしょう。「事が有る」というくらいのぼんやりした表現では、地震や天候不順だって「有事」と言えないことはありません。
 
しかし、この「有事」という言葉が指している事柄は戦争、つまり政府による大規模で組織的な殺人です。こういう言葉の言い換えは、わざと意識して行っているものだろうと、私は思います。
 
 そのうえで、もうひとつ大事なことは、用語の定義は正確であればあるほどよろしい、というものではないということです。皆さんがものを考えるときには、考える事柄に応じて必要な正確さで定義しなけれはいけない。政治の問題を考えるときに、幾何学用語のような正確さを求めれば、なにも話ができなくなってしまいます。
 
政治の話は幾何学よりぼんやりしているのがあたりまえで、その話題に適当な正確さで用語を定義すべきです。正確であればあるほどいいということではない、そうでないとその問題についての話さえできなくなってしまう、ということを覚えておいていただきたいと思います。
 
もちろん、あんまりぼやけていたら正確には考えられませんから、程度の問題です。たとえば、有事法制の「有事」などはそのいい例です。
 
 わざとぼんやりさせるということは政治的世界ではよくありますが、人の心に反発を感じさせないように言葉を言い換えて和らげる、嫌なこともそう悪くないように聞こえるように言い回す、ということもよくあります。大概の場合、きれいなほうに、あまり嫌じゃないほうへと言い換えるのです。それが「ユーフェミズム(euphemism)」です。もとはギリシア語ですが、英語やフランス語でも使われます。
 
要するに「当たりがいいように言い換えること」です。政治では頻繁に使われますから、もう少し正確にいえばなんだろう、ということを考える必要がありますね。そうでないと話は先に進まないのです。
 
 政府は国民がなるべくはっきり事態を把握しないように、なんだかよくわからないように、よく言葉を選んでユーフェミズムを駆使する。それをそのまま書いている新聞記事を、いつまで見ていても話がはっきりしないのはそのためです。
 
ですから、自分の頭で考えなければいけないですね。記事を普通の日本語に翻訳しなけれはいけません。あなた方自身がうまく照準を合わせて、言葉をはっきりさせていく必要があります。
(加藤周一著「学ぶこと 思うこと」岩波ブックレット 12-14p)
 
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話〃相手に意志を伝達する。一つの手段であり、それが完全に果されているかどうかによって、あなたの仕事のこれからにひびく場合があります。大げさにいえは、運命を決定づけるような結果をもってるのでは。
 
 人を話で動かす、それと話〃そのものの力と中味です。そして話し手の人柄がそれを決定します。人はその人のそぶり、身のこなし等で職業までも大体、解るものでしょう。
 
 ウソはいつかばれるといいます。たとえお話がどんなにうまくても、真実には勝てません。一時勝ってるように見えても、真実の前には必ず、敗れるのです。
 
 真実は必ず聴衆を、話し手の側に味方させることは間違いありません。話〃とか 言葉〃とかいうものは生きていなけれはなりません。
生きている話〃それはより深い味わいのあるもの。それはあなたにしかできない話し方〃なのだと信じて下さい。しかしその真実を表現する法は? それをこれから考えてみょうと思います。
 
身だしなみ
 
 真実を語るのだから、どんな姿でもかまわないなんて考える人は、人間社会をよりきれいにしようという考えが不足しているとみなければなりません。人前に出るのですから。人前に出ていやみを感じさせたりしないように心掛けることは当然。
 
 先ず手の指のツメはどうでしょう。そんな小さなものが、と思うかも知れませんが、案外遠くから見えるものです。特に爪の先に黒い垢がたまっているのなどは感心しません。爪くらいはいつでもきれいにつみとり、清潔にしておきましょう。何もそれは話をするときだけではありません。人前に出る人のエチケットなのですから。
 
 服装は、これもいや味のないもの、自分の身体に似合うもの、年齢、身体つき、そんなことも日常から気をくぼっていれば、いつしか、どんな色のものでも着こなせるもの。
 
 何もカメレオンだけがその場の色に似せて変るのではありません。人もそういう変り方があるものです。そしてどうしても、この色だけはと思うものは自分からさければよろしい。それは、人間の本能が教えてくれるのです。
 
 ワイシャツ、下着──よごれのないもの。ネクタイ、ハンカチ──男でも多少のおしゃれっ気があってほしい。クツやクツ下──匂うようなクツ下は、たとえ人に気付かれなくてもやめましょう。クツはせめてお出かけ前には、必ず布で拭いておく、その位のことは社会人としてちゃんとやるべきです。
 
 まして、あなたは今日どこかで人と会うか、それ以外、どこかの会で人前に立たねばならぬとしたら、なおさらです。
 
 髭はどうでしょう。頭の手入れはうるさいといわずに、いやがらないで。そしてそれが永年続けは、いつしかあなたは立派な紳士に変身するでしょう。これは女性でも同じです。
 
 ともかくそれは人前に出る礼儀と心得だと肝に銘じておばえておきましょう。
(大空ヒット著「笑いの話術」新日本出版社 120-122p)
 
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◎先日20歳に成り立ての運営委員に身だしなみ≠指摘しました。その先輩も「〜わからん」と。「みんなそうですよ〜」と。その通りでしょう。しかし、自分が多くの仲間の中で何をしているのか。と対話を強めれば自ずと身だしなみ≠燻ミ会的モラルに見合ったものにと変わるでしょう。
 
自分は○○≠ニいう思いこみで周りの意見をシャットアウトすると、立ち止まってしまいます。無関心ではなく対話を重視することが大切です。そういう私も受講生の時(30数年前)は雪駄履きで労働学校に通っていました。運営委員になってやめました。
 
◎言葉を成果に使うことが、物事を正確に捉えることにつながる、伝える迫力(感情と真実味をあたえる)をつくりだすのです。