学習通信030808
◎自由とは いちばん大事な自由が、じつは人間が悪を生みだす原因の一つ≠セから自由を抑えろ、と。 
 
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 悪は人間を戒めるためにあるという説もありますが、純粋で美しい心をもった存在が神なのだから、世の中は善ばかりでいいはずなのに、なぜ悪がなければならないのか。
 
 この疑問は長いあいだ私の頭を離れなかったのですが、あるとき、悪はわれわれのつくりだした影ではないかと考え、それで疑問は氷解しました。もともと悪があるのではなく、人間が生きていくために、結果として悪を自分でつくつてしまっているのだと考えたわけです。
 
 では、悪という影を生じさせるものは何か。それは「自由」だと私は考えています。自由は、人間が人間らしく発展してきた基(もとい)であり、本質的に大事なことです。そのいちばん大事な自由が、じつは人間が悪を生みだす原因の一つなのです。先に述べたように、自分自身が自由でありたければ、他の人に不自由を強いることになります。こうして、自分が自由を謳歌(おうか)する影として悪が生じるわけです。
 
 尊い自由が使いようによっては悪をなすという意味では、たとえていえば包丁のようなものでしょう。使いようによっては人を殺す道具にもなるし、人間の食を支える道具にもなる。ですから私は、自由そのものは肯定しますが、その使い方には十分に気をつけなければならないと思います。
 
 では、なぜ子供たちが凶悪な犯罪に手を染めるのでしょうか。それは、現代の子供たちは自由をほしいままにしているからだ、と私は考えています。そのような状況では自己の欲望は抑制されません。その結果、悪をなすのです。物質文明が発達し、豊かになった社会で、甘やかし放題で育てられた子供が大きな悪を働く理由は、そこにあると思います。
 
 また、自分が苦しいときもあるのだから、隣の人が苦しんでいれば助けてあげるということも、厳しい自然環境のなかを生きていくうえで人間は習得していきました。たとえば日本でも、戦後しばらくまでは、美味しいものが手に入ると隣近所におすそ分けする習慣が残っていたように思います。
 
 ところが、物質的に豊かになってくると、人間は自然が教えてくれたことを忘れがちになります。
 いまの日本がまさにそうです。経済的に豊かになり、一生懸命働かなくても普通の生活はできるようになりました。ですから、就職して拘束されるよりも、フリーターとして働きたいときに働いて、あとは遊んでいればよい、「精進」も「持戒」も関係ない、ましてや「忍辱」など考えたこともない、そのような人が増えてきました。
 そこでは人間の心をつくる行為が全部否定されています。
 
 少年の凶悪犯罪のもう一つの原因として、戦後、教育の場で「自由こそ大事だ」と教えてきたということもあると思います。先に述べたように、自分にとっての自由が他人に悪を及ぼすことがあります。しかし、そのことは戦後教育のなかでは一切語られることなく、とくに最近では「自由がいちばん重要であり、子供の自主性を尊重すべきである」という方針で教育が行なわれています。
 
 しかし、まだ個が形成されていない幼稚園のときから自主性を尊重するというのは、勝手気ままに育てることと同じです。私は、そういう教育の結果が、何歳になっても自己の欲望を抑えられない子供たちを生むことにつながっている、だから十七歳の凶悪犯罪は起こるべくして起こっている現象だと思うのです。
 
 メディアの報道や有識者の議論を見ると、最近の青少年の凶悪犯罪の真の原因がまだわかっていないように感じます。私は、これまで述べたように、真面目に働くこと、苦労すること、辛抱すること、人のために貢献することがなくなり、無制限の自由が氾濫したことがその原因であろうと思っています。したがって、それを抑制することの大切さと、どうすればそうできるかを子供たちに教えてあげなくてはならないと感じています。
(稲盛和夫著「稲盛和夫の哲学」PHP 84-90
 
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 自分を誇り、その誇りを言葉や態度で表現することで、人はさらにしっかりと自信を強めていくこともある。自分に高い評価を与えることは、紛れもなく自己主張である。「学校の成績」で見たように、自分の成績が半分以下であっても「自分は成績がよい」「頭がよい」と回答したアメリカ、スウェーデンの子どもたちと、むろん例外はあるものの、成績がよくても謙遜ばかりしている日本の子どもたちとでは、今後人生を選び取っていく時、あるいは何か新しいことに挑戦する時、さまざまな点で人きな違いを生むことになるのではないだろうか。
 
 子どもたちが「自分は成績がよい」「頭がよい」と言い難い社会は、自己主張を奨励しない社会、あるいは許さない社会だと言えないだろうか。こうした社会は、自信のある子を「創り」にくい社会である、という言い方も成り立つ。実際に日本の子どもたちの自己評価の低さを実感した時に、「それは単なる文化の違いである」「国民性の違いである」と言って放置しておけないように思う。
 
引き裂かれた価値観
 
 すでに見たように、「従順」は、日本の子どもたちが他の調査国と比べても、群を抜いて回答率が高かった性格である。そして、自分を従順であると感じている子は、従順ではないと思っている子より自己評価が低かった。
 
 従順であることはよい性質であると考える向きもあろう。しかし従順とは、自分の意思や意志を、主張せず、場合によってはそれらを殺して誰かの言うとおりにすることを意味する。自分で決められることは自分で決め、自立しようとする気持ちとは相容れない要素である。─略─で見たように、日本の子どもたちには「自立心に富む」という回答は少なかった(スウェーデンとアメリカは六割弱、日本と中国三割弱)。
 
 しかしながら注目すべきことは、日本の子どもたちが自分白身は自立していないと思う一方で、自立することは非常に大切であると考えている点である。筆者は、アンケートの質問で、自分の将来にとって何がどの程度大切かを聞いたところ、八割を超える日本の子どもたちが独立心を持つことを、「とても大切」か「まあまあ大切」と回答した。そうであるならば、自分に自立心があるかと問われ、「はい」と言えないことは、彼らの中ではジレンマになっているにちがいない。
 
 すでに言及した『国際比較・日本の子供と母親』では、日本の子どもは家庭生活であれ、学校生活であれ、総じて不満が昂じており、「生きていくこと自体に無気力になっていく様子を示唆するものといえなくもない」と述べている。筆者は、今回の調査活動をとおして、多くの子どもたちが家庭生活にも学校生活にも不満を持っていることを感じたが、それはどこの国でも言えることである。教室観察やインタビューを通じて、日本の子どもたちに対して、「生きていくこと自体に無気力」であるという印象を持つことはなかった。
 
 彼らは無気力なのではなく、その多くは、なりたい自分と実際の自分との問にあるギャップに苦しんでいる。そのように言ったほうが正確であると思われる。─略─「自分の考えをはっきり言う」「押しが強く、積極的」「競争心がある」の項目では、他の国に近い数値か、あるいはスウェーデンを上回る回答率があったことを考えた時、彼らは無気力どころか、むしろ本当は自己主張をしたいのだということが分かる。
 
 一方で謙譲の美徳を発揮し、従順である自分を意識する。そしてもう一方では将来、自立することを目標にし、考えをはっきり言う自分、押しが強く積極的である自分を意識している。明らかに日本のティーンエージャーは二つの価値観に引き裂かれている。
(河地和子著「自信力はどう育つか」朝日新聞社 100-103p)
 
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 <自由>の第一の規定にまったく無遠慮に平手打ちを食わせるこの第二の規定は、これまたヘーゲルの見解を極度に浅薄化したものにほかならない。ヘーゲルは、自由と必然性との関係をはじめて正しく述べた人である。彼にとっては、自由とは必然件の洞察である。「必然性が盲目であるのは、ただそれが概念把握されていない限りにおいてのことでしかない」〔『エンチュクロペディ!』第一四七節、補遺〕。
 
自由は、もろもろの自然法則に左右されないと夢想している点にあるのではなく、こうした法則を認識するという点に、そして、これによってこの諸法則を特定の目的のために作用させる可能性を手に入れるという点に、ある。
 
このことは、外的自然の法則についても、人間そのものの肉体的および精神的存在を規制する法則についても、そのどちらにもあてはまるのである。──この二つの部類の法則は、せいぜいわれわれの観念のなかで切り離せるだけで、現実には切り離すことのできないものである。
 
<意志の自由>とは、だから、事柄についての知識とともに決定をくだすことができる、そういう能力を言うものにほかならない。したがって、或る特定の問題点についての或る人の判断がますます自由になればなるほど、この判断の内容は、それだけ大きな必然性をもって規定されていることになるわけである。
 
他方、無知にもとづいた不確かさは、異なった互いに矛盾しあう多数の決定可能性のなかから気ままに選択するように見えても、まさにそのことによって、自分の不自由を、自分が支配するはずの当の対象に自分が支配されていることを、証明しているのである。
 
自由のなかみは、だから、<自然必然性の認識にもとづいて、われわれ自身と外的自然とを支配する>、ということである。
 
自由は、したがって、どうしようもなく歴史的発展の一つの産物である。動物界から分離したばかりの最初の人間たちは、本質的に重要なすべての点で、動物そのものと同じように不自由であった。しかし、文化におけるどの進歩も、自由への一歩であった。
 
人類史のはじめには、力学的運動が熱に転化することの発見すなわち摩擦火の産出があり、これまでの発展の終点には、熱が力学的運動に転化することの発見すなわち蒸気機関がある。──そして、蒸気機関が社会生活のなかで巨大な解放的変革──それはまだ半分も成就されていない──をなしとげているとはいえ、世界解放の効果という点では、摩擦火のほうが蒸気機関よりもまさっていることは、なんと言っても疑いない。と言うのも、摩擦火が人間にはじめて一つの自然力にたいする支配を与え、それによって、人間を最終的に動物界から切り離したのだからである。
 
蒸気機関はと言えば、人類の発展のうえでけっして摩擦火ほどの巨人な飛躍をもたらすことはないであろう、
 
──もはや階級の区別がなく、個人の生活の資を手に入れるための心配もなくなって、はじめて真の人間的自由を、認識された自然法則と調和した生活を、話題にすることのできる、そういう社会状態が、蒸気機関に依存する巨人な生産力に肋けられてだけ可能となるのであって、
 
蒸気機関は、そうしたすべての生産力の代表者としてわれわれにとってきわめて重要なものではあるけれども。
 
しかし、〈これまでの歴史全体は、力学的運動が熱に転化することの実地の発見から熱が力学的運動に転化することの実地の発見までの期間の歴史であると言いあらわすことができる>、という簡単な事実から見ても、人類史全体がまだどれほど若いか、そして、われわれの現在の見解を或るなにか絶対的な妥当性をもったもののように考えることがどれほどばかげているか、ということがわかる。
(エンゲルス著「反デューリング論」新日本出版社 163-164p)
 
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◎稲盛氏の自由論……とんでもないものです。正確にとらえておく意味でもエンゲルスの自由論≠紹介します。エンゲルス、マルクス……といえば身体がむずかしい≠ニ反応する人もいると思うのですが、じっくりと読んでみるとスルスルとわかります。特に労働学校に受講した経験のあるかたは、鰺坂先生の講義を思い出して下さい。
 
◎稲盛氏は自由と子どもの成長の問題を関連させています。河地氏の実地の調査から明らかにされている示唆を学ばなければなりません。不都合だ≠ニいって抑圧する姿勢こそ問題です。それも自分の思いこみを事実に押しつけてはいけないと思います。
 
◎鴻池氏がまたまた発言しています。
 
鴻池祥肇構造改革特区担当相は五日夜、福岡市内で開かれた政府のタウンミーティングで、「教育の分野でも教育を受ける側が選択できるようにする。ろくでもない、日の丸なんか大嫌いと降ろすような先生がいっぱいいるところは、違う学校に行く(のがいい)」と述べました。
 
 鴻池氏は、長崎の男児誘拐殺害事件で、「親なんか市中引き回しのうえ打ち首に」と発言その後も反省の色を見せていません。
(しんぶん赤旗030817)