学習通信030818
◎ルソーが言う。「女性はとくに男性の気に入るようにするために生まれついている」
 
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 性に関係のないあらゆる点においては、女は男と同じである。同じ器官、同じ必要、同じ能力をもっている。機械は同じ方式で組み立てられ、部品も同じで、一方の動きかたは他方の動きかたと同じだし、格好も同じようなものだ。そして、どういう関連のもとに考えてみても、両者のあいだには多少のちがいがあるというだけのことだ。
 
 性に関係のあるあらゆる点においては、女と男には、どこを見ても関連があり、どこを見ても相違がある。両者を比較することのむずかしさは、両者の構造にみられる、性に属するものとそうでないものとを決定することのむずかしさによる。
 
比較解剖学によれば、いや、たんなる観察によっても、両者のあいだには性に関係がないように見える一般的な相違がみいだされる。じつはそれは性に関係があるのだが、その関係をわたしたちは認めることができない。その関係はどこまでひろがっているのか、わたしたちにはわからないのだ。わたしたちが確実に知っているただ一つのことは、両者に共通のものはすべて種に属するということ、ちがっているものはすべて性に属するということだ。
 
この二重の観点から、わたしたちは両者のあいだにじつに多くの類似と対立をみいだすのであって、二つの存在をひじょうにちがったふうに組み立てながら、それらをひじょうによく似たものにつくりあげることができたというのは、自然の驚異の一つといえるだろう。
 
 そういう類似と相違は、当然、道徳的なことに影響をあたえる。これは明らかなことで、経験と一致しているし、男女の優劣とか平等とかいうことについての議論のむなしさを証明してもいる。
 
それぞれの性は、別々の使命に従って自然の目的にむかっていくのだが、それでは両者がたがいにもっとよく似ていたばあいよりも完全ではないとでもいうのだろうか。共通にもっているものから考えれば、両者は平等なのだ。ちがっている点から考えれば、両者は比較できないものなのだ。
 
完全な女性と完全な男性とは容貌と同じように精神も似ているはずはないし、完全性には程度のちがいということはありえない。性のまじわりにおいてはどちらの性も同じように共同の目的に協力しているのだが、同じ流儀によってではない。そのちがった流儀から両性の道徳的な関係における最初のはっきりした相違が生じてくる。
 
一方は能動的で強く、他方は受動的で弱くなければならない。必然的に、一方は欲し、力をもたなければならない。他方はそんなに頑強に抵抗しなければそれでいい。
 
 この原則が確認されたとすれば、女性はとくに男性の気に入るようにするために生まれついている、ということになる。男性もまた女性の気にいるようにしなければならないとしても、これはそれほど直接に必要なことではない。
 
男性のねうちはそのカにある。男性は強いということだけで十分に気に入られる。これは恋愛の法則ではない、ということはわたしもみとめる。しかしこれは自然の法則であって、恋愛そのものにさえ先行することだ。
 
 女性は、気に入られるように、また、征服されるように生まれついているとするなら、男性にいどむようなことはしないで、男性に快く思われる者にならなければならない。女性の力はその魅力にある。その魅力によってこそ女性は男性にはたらきかけてその力を呼び起こさせ、それをもちいさせることになる。
 
男性の力を呼び起こす最も確実な技巧は、抵抗することによって力の必要を感じさせることだ。そうなると欲望に自尊心がむすびついて、一方は他方が獲得させてくれる勝利を勝ち誇ることになる。そういうことから攻撃と防御、男性の大胆さと女性の臆病、そして、強い者を征服するように自然が弱い者にあたえている武器、慎みと恥じらいが生じてくる。
 
 自然は差別なしに両性のどちらにも同じょうに相手に言い寄ることを命じている、だから、最初に欲望をいだいた者が最初にはっきりした意志表示をすることにもなる、などとだれに考えられよう。それはなんという奇妙な、堕落した考えかただろう。そういうもくろみは男女にとってひじょうにちがった結果をもたらすのに、男女がいずれも同じょうな大胆さでそれに身をゆだねるのが当然のことだろうか。
 
共同のいとなみの受け持ちには大へんなちがいがあるのだから、自然が男性に命じている節制を、慎しみが女性に命じていなかったとしたら、やがては両者いずれもが身を滅ぼす結果になるということ、そして人類は自己を維持するためにあたえられている手段によって滅亡してしまうにちがいないということはだれにでもわかるはずだ。
 
女性は容易に男性の官能を揺り動かすことができるし、男性の心の底にもうほとんど消えてしまった欲情の残り火をかきたてることさえできるのだから、この他上のどこかの不幸な国に、哲学がそういう風潮をもたらしたとしたら、とくに男よりも女がたくさん生まれる熱帯の国では、男性は女性にいじめられて、結局、その犠牲となり、みんな死に追い込まれるような目にあいながら、どうしてもそれに抵抗することができない、ということになるだろう。
 
 この原則が確認されたとすれば、女性はとくに男性の気に入るようにするために生まれついている、ということになる。男性もまた女性の気にいるようにしなければならないとしても、これはそれほど直接に必要なことではない。
 
男性のねうちはその力にある。男性は強いということだけで十分に気に入られる。これは恋愛の法則ではない、ということはわたしもみとめる。しかしこれは自然の法則であって、恋愛そのものにさえ先行することだ。
(ルソー著「エミール」岩波文庫-下- p6-7)
 
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 対偶婚家族自体は、自分の世帯を必要としたり、ないしはせめても望ましいとするには、あまりにも弱く、あまりにも非永続的なので、これは、以前の時代から受けついだ共産主義的世帯を解体させることは決してない。
 
だが共産主義的世帯は、家庭内での婦人の支配を意味するのであって、これは、実の父を確実に知ることが不可能なための、もっぱら実の母だけの承認ということが、婦人つまり母親にたいする高い尊敬を意味するのと同じである。
 
社会の初めには婦人は男子の奴隷であったとするのは、一八世紀の啓蒙思想から受けつがれたもっともばかばかしい観念の一つである。
 
婦人は、すべての野蛮人のあいだで、また下段階と中段階のすべての未開人のあいだで、部分的には上段階の未開人のあいだでさえ、自由な地位ばかりでなく、高い尊敬をはらわれる地位をしめている。
 
対偶婚のなかでもなおそうであることは、イロクォイ・セネカ族のあいだで多年宣教師をしていたアシャー・ライトに証言してもらおう。すなわち、「彼らの家族について言えば、彼らがまだ古い共同長屋」(数家族の共産主義的世帯)「に住んでいたときには、そこではづねにある一クラン」(一氏族)「が優勢な地位をしめ、そのため婦人は他のクラン」(氏族)「から夫を迎えた……。……婦人の側が家を支配するのがふつうであった。
 
〔……〕貯蔵品は共有であったが、共同貯蔵品に自分の分担分を寄与できぬほど甲斐性なしか、不器用である不運な夫や彼氏はあわれであった。どんなに多くの子どもを、どんなに多くの自分の物を家にもっていようとも、彼はいつでも、荷物をまとめて出てうせろと命令される覚悟でいなければならなかった。
 
そして〔……〕それにさからうことはゆるされなかった。彼は家にはとてもいたたまれなくなった。〔…〕彼は自分のクラン」(氏族)「にもどるか、それとも、よくあるように、別のクランで新しい婚姻関係をさがすかするよりほかなかった。婦人はクラン」(氏族)「内では大勢力であったし、その他のどこでもそうであった。ときには、首長をやめさせ、ふつうの戦士の地位におとすことも、彼女たちにはなんでもなかった」。
 
──婦人の大部分または全部が同一の氏族に属するが、男子たちは異なる氏族に分かれているこの共産主義的世帯が、原始時代にあまねく広まっていたあの婦人優位の実質的基礎なのであって、この婦人優位をもまた発見したことが、バッハオーフェンの第三の功績である。
 
──なお付言すれば、野蛮人や未開人のあいだでは婦人が過大な仕事をになわされているという、旅行者や宣教師たちの報告は、決して上述したことと矛盾するものではない。両性のあいだの分業は、社会における女の地位とはまったく別な原因から生じてくる。
 
婦人が、われわれの観念から見て応分だと思われるよりはるかに多くの仕事をそのなかでしなければならない諸民族が、往々にして、われわれヨーロッパ人よりもはるかに多くの真の尊敬を婦人にたいしてはらっているのである。
 
うわべの敬意にかこまれ、真の仕事からはいっさい遠ざけられている文明時代の淑女は、骨の折れる仕事をする未開時代の婦人よりも限りな低い社会的地位にあるのであって、未開時代の婦人は、その民族のなかで真の淑女(レディーlady〔英語〕、フローワfrOWa〔古代高地ドイツ語で家長を意味するフローの女性形〕、フラオFrau〔ドイツ語〕=女主人)とみなされたし、その性格から見てもそういうものであった。
(エンゲルス著「家族・私有財産および国家の起源」新日本出版社 p67-68)
 
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◎「男性のねうちはその力にある。男性は強いということだけで十分に気に入られる。──」と、ルソーがいう。福田官房長官の発言「男は黒豹なんだから。情状酌量ってこともあるんじゃないの?これから夏になるしね。女性も悪いんだから、女性も気をつけなきゃいけないんだよ。そういうの、いると思わないか?」をおもいおこします。
 
◎ルソーの女性観は、現代の私たちの女性観にもつながっています。男性の努力はもとより女性の女性観も鍛えなければならないと思います。だからこそ、科学的社会主義の女性観を学ぶことが必要です。誤った女性観で彼女を見ていたのでは、中身のないプロレタリア家族≠ナしかありません。
 
◎労働学校の総合コースで、久米先生の講義がまっています。また、近いうちに、女性コースを再開したいと考えています。