学習通信030819
◎失われた人間の全体性を奪回しようという情熱の噴出……労働学校の総合コースという意味も
 
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自己回復の情熱
 
 毎日、瞬間瞬間の自己放棄、不条理、無意味さ、バカバカしさ。
 社会が発達していけばいくほど、この矛盾の傷口は、いよいよ絶望的に大きくなっていきます。
 
 くりかえしていいますが、ほとんどの人間はあきらめて、適当にやっています。だれでも、子どものときには、人生ってもっとすばらしいものだと思っている。大きくなったら、と夢想していた。にもかかわらず──毎日毎日の生き方がなにかほんとうではない。こんなものではないはずだ、とあせります。
 
しかし、そういうふうに矛盾を感じる人は、きわめて感受性のすぐれた、良心的な人なのです。多くはそんな疑問さえもちえない。絶望的な状態です。そして知らずしらずに自分をいつわりつづけている。
 
 それにほんとうにぶちあたり、自分で解決しないかぎり、人間はいよいよスポイルされ、分裂的になっていくほかありません。自分自身が信用できない。まして他人なんか信じられるはずがない。惰性的で、無気力でありながら、しかし神経だけは奇妙にイライラしています。
 
自分自身に充実する。──電気冷蔵庫を置いたり自家用車をもって、生活が楽になる。そんないわば、外からの条件ばかりが自分を豊かにするのではありません。他の条件によってひきまわされるのではなく、自分自身の生き方、その力をつかむことです。それは、自分が創りだすことであり、言いかえれば、自分自身を創ることだといってもいいのです。
 
 だが、どうやって?
 それをこれからお話ししようと思います。私はそこに、芸術の意味があると思うのです。それは現代社会においてこそ、とくに必要な、大きな役割として、クローズアップされています。
 
 それは一言でいってしまえば、失われた人間の全体性を奪回しようという情熱の噴出といっていいでしょう。現代の人間の不幸、空虚、疎外、すべてのマイナスが、このポイントにおいて逆にエネルギーとなってふきだすのです。力、才能の問題ではない。たとえ非力でも、その瞬間に非力のままで、全体性をあらわす感動、その表現。それによって、見る者に生きがいを触発させるのです。
 
 失われた自分を回復するためのもっとも純粋で、猛烈な営み。自分は全人間である、ということを、象徴的に自分の姿の上にあらわす。そこに今日の芸術の役割があるのです。
(岡本太郎著「今日の芸術」知恵の森文庫 p20-21)
 
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全体性の営み
 
人間の生活は、生命の全体性の営みであり、競走馬のような単一の目的のために走っているのではない。サモアのツイアビは次のように言っている。
「愛する兄弟よ、私たちは時のくるままに、時を愛してきた。時間が苦しみになったことも悩みになったこともない。すべての職業は、それだけでは不完全なものなのだ。なぜなら人間は手だけ、足だけでなく、頭だけでもない。みんなをいっしょにまとめていくのが人間なのだ。手も足も頭もみんないっしよになりたがっている。
 
体の全部、心の全部が一緒に働いて、はじめて人の心はすこやかな喜びをかんじる。だが、人間の一部だけが生きるのだとすれば、ほかのところはみな、死んでしまうほかはない。こうなると人はめちゃめちゃになり、やけになり、そうでなければ病気になる」
(『パパラギ』岡崎照男訳、立風書房)
 
 私達にも人間としての全体性を回復したいという欲求がある。時間と行動の制約によってそれが満たされないとき、人はその代替作用として、モノを持つことで欲求を満たそうとするのではないか。「持てば持つほどあなた自身はなくなる」いわゆる買い物依存症である。
 
 子どももまた、自由な自己決定権がないかわりに、小遣いやたくさんのものに囲まれて暮らしている。携帯電話、CDやMDのプレイヤー、ピアノ、コンピューターゲーム、自転車、専用のテレビ、マンガや雑誌、おしゃれな服。消費のなかにやっと自分の個性を発揮しているかのようだ。
 
 しかし、子どもは本来、行動的な存在である。行動の中に個性を発揮する。自分で創り出すもの、思いがけないものに出会う喜びや活動そのものを求めている。友達との交流、冒険、自然の中の束縛のない開放感。身体の五感をとぎすまして、自分自身でロックの演奏や作曲に没頭し、スポーツをする。子どももまた自由の中で人間の全体性を回復したがっているのだ。
 
 それなのに、お金と物と学習塾が与えられ、孤食が増えて家族の中の会話も友人との話し合いも少なくなると、会話の中でものごとを反窮(はんすう)し発展させること、つまり思想が発酵する土台もできにくくなる。
 
生活のもつ全体性
 
 生活には、人間的な全体性がある。
 生活の中では、病気や障害をもつ子どもは、よりいっそういたわられ、大事にされる。親は子どもの心配ごとや悦びを共有するだろうし、愛情に効率性は問われない。
 
地域社会は福祉政策や安全を優先して求める。そこでは競争原理よりも助け合う共存原理が土台となっていることを人々は十分に知っている。安心と安全と信頼できる人間関係は、生活にとって競争よりも大切なものなのだ。全体性をもつ生活から、はじめて総合的判断が生まれる。
 
 たとえばより多く稼いだとしても、社会保障が後退すれば、所得の増加分も水の泡となり、生活の安心はなくなる。成果主義で賃金が増えたとしても、疲れ果てて、自分で教養を高める時間もなく、子どもとの団欒(だんらん)の時さえもてないのでは、人間らしい豊かな生活はできない。
 
 大量消費でゴミが増えれば、ゴミ処理の税金が増える。さらにダイオキシンが空中にふりまかれるのでは、健康が侵される。
 
 要するに、生活のもつ全体性(生活の質といいかえてもいい)は、部分的な利益の欺瞞性を見抜く。生活市民は、いくつかの自治体で、これまでできないと思われていたダム工事の中止や二五人学級を実硯した。それは住民の生活者としての意志が利益誘導の既得権を崩したからである。
 
 人間の生命と生活という共通の基盤に立つ住民主権だけが、競争社会への強い批判勢力となることができるのだ。それは人権や平和や自然環境を破壊したくないという地球上の人々が共有する一体感であり、社会保障制度や生活の共通資本をつくりあげるための大事な一体感でもある。
─略─
 
 原始時代から、ヒトはいつも集団として生きており、共同体の一員としてしか自分の生存を保障することができなかった。時代とともに生産力が発達して、共同体から独立して個人が自由に生きられる時代になっても、個人は決してバラバラで生きてはいない。
 
 まず、人間をつなぐ言語がある。経済行為としても部品をつくる専門化した分業は、それらを最終的に組み合わせる協業によってのみ完成品となり、社会的に役立つものとなる。同様に私達の労働も、みな分業の一部分を担う労働ではあるが、それらの労働は企業の中で、あるいは社会の中で組み合わされて、はじめて有用な労働になり、社会の総需要に適合する労働になる。
 
私達は個人であると同時に、依存しあう社会的人間であり、自然の一部として自然にも依存して生きている。そのどれが欠けても人間生活はありえない。
 
 だから意識の面でも、同情や共感のない社会は存在せず、どんなに自立や自由が叫ばれても、人は、助け合うことの中に悦びを感じてきた。人間の自立も、安全と安心も、他者とのかかわりの中ではじめて可能なのであり、福祉のセーフティネットの上に自立がある、といわれる理由もそこにある。
(暉峻淑子著「豊かさの条件」岩波文庫 p121-124)
 
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日本共産党綱領改定案の提案報告(不破議長)から
 
 第一五節(その四)――「生産手段の社会化」の三つの効能
 
 続く文章は、「生産手段の社会化」が、どういう意味で、人間社会の進歩に役立つのか、その効能を、三つの角度から特徴づけています。
 
 第一。「生産手段の社会化は、人間による人間の搾取を廃止し、すべての人間の生活を向上させ、社会から貧困をなくすとともに、労働時間の抜本的な短縮を可能にし、社会のすべての成員の人間的発達を保障する土台をつくりだす」(第一五節の三つ目の段落)
 
 この文章で注意してほしいのは、一般的な生活の保障、向上の問題とあわせて、人間の全面的な発達を保障することを、未来社会の非常に大事な特徴としていることです。
 
社会を物質的にささえる生産活動では、人間は分業の体制で何らかの限られた分野の仕事に従事することになります。しかし、労働以外の時間は、各人が自由に使える時間ですから、時間短縮でその時間が十分に保障されるならば、そこを活用して、自分のもっているあらゆる分野の能力を発達させ、人間として生きがいある生活を送ることができます。
 
この人間の全面的発達ということは、社会主義・共産主義の理念の重要な柱をなす問題でした。労働時間の短縮にも、こういう意義づけが与えられてきたのですが、人間の発展のこういう大道が開かれる、というのが、大事な点です。
(しんぶん赤旗2003628)
 
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◎なにも説明はいらないのでしょう。私たちの未来社会への熱望とそれを求める持続的な行動は、まさに人間の全体∞全面性≠回復しようとするものでもあり、未来は数段高い人間の全面性が実現されるのです。必然なんです。闘うということは無理≠フない事なんです。
 
◎不破著「マルクスと資本論」の中にも、生産と消費のバランスを破壊する生産第一主義が、恐慌を通じて(恐慌となって)取りもどそうとする……という指摘があります。だからその状態を資本主義的でない方法で解決することが大事なのです。発達した生産手段を破壊するのですから。
 
◎労働学校総合コースの総合≠ニいう意味をつかまえてください。単純にみんなならんでる≠フではないのです。いっそう総合≠オなければなりません。だからなんですね。労働学校で一番代表的なコースなんです。これを大きくしないと科学的社会主義を学ぶ労働学校の値打ちがありません。