学習通信030820
◎言葉でいうところの文法のような、おたがいが理解し合うための共通の約束事
 
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映像表現の根拠を探る 小栗 康平
 
 ふだん人と話しをしていて、それが相手にどこまで伝わっているか、実のところ私たちはよく分かっているわけではない。あれが欲しいとか、これをこうしたいといったように、物や行為に関しては大きく間違えることはないけれど、考え方や価値観、あるいは感情といったことに触れて言葉をやり取りすると、これがとたんに怪しくなる。
 
 例えば、内面という言葉を使う。それがこれまでどのような場面で使われてきたのか、使ってきたのかを思い起こして、その言葉を用いる。しかしその言葉がもついきさつは、話す相手の人と同じではない。
 
 それでもなんとか私たちが言葉によってコミュニケーションを成立せしめているのは、文法という共通の規範、約束事をもっているからであって、単語の言葉としての膨らみ、指し示す中身が、人によってずれてはいても、言葉の前後関係や全体の流れのなかで、それを類推していくことが可能だからである。もちろん単語そのものが分からなければ、それを辞書で確かめることもできる。
 
 書き言葉では、文法上の論理性が強まり、話し言葉では、言葉より直接性の強い生きた表情というものがそこに加わる、そういう違いはあるにしても、こと言葉に関しては、家庭、学校教育などさまざまな場で、私たちは学習機会をもっている。
 
 では映画、映像表現ではそのあたりがどうなっているだろうか、いわばそうした映像の基本にかかわることを確かめてみようと、先月までNHKで「映画を見る眼(め)・映像の文体を考える」という講座を八回担当した。
 
 これまでも、映画や映像の理論書、表現上の技術書、といったものはあった。映画史の本もあるし、映画批評はちまたにあふれている。しかし、言葉でいうところの文法のような、おたがいが理解し合うための共通の約束事はなにかということを、平易に探り合おうとする試みは、あまりなされてこなかった。
 
 結論からいえば、映像表現は言葉のように成文化された文法、共通の規範というものをもたない。私たちは、言葉よりはるかに感覚的に映像というものを感受している。曖昧(あいまい)なところがよさだ、といえばいえないこともない。
 
 ではだからといって、その表現に根拠がないかといえば、ある。明らかにある。じっさいに自分の映画作りを思い起こせば、その一つひとつの段階で、こうであろう、こうでありたい、そう考えたことの裏付けはある。だとすれば、それらを一度整理して見よう、というのが私の動機ではあった。
 
 自作の解説ではなく、自作の具体を例に引きながら、映像という「ことば」がどのようにして表現を深めようとしてきたかを、私は八つの章に分けて語ってみた。ところが映画が好きでよく見ている人や、映像の現場で働く人たちからは反応があったものの、講座は難しかったというのが一般的だった。ある程度予測していたこととはいえ、それは予想を越えてそうだった。
 
 面倒なこと知らなくても、いいものはいいと受け取る力を私たちはもっている。しかし映像の学習機会は、とにかく作品を見てのことだから、その多くは商業に頼らなければならない。その非は分かっているにもかかわらず、映像というものについて、考えなければいけないことだったのですか、というのが正直なところだつたようである。
(しんぶん赤旗030820)
 
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  鑑賞と創造の追っかけっこ
 
 さて最後に、絵自体については、べつだん、なにもわからないことはないが、よい絵なのかどうか、つまり「価値の判断がつかない」というばあいについてお話しして、この間題をおわることにしましょう。
 
 自分には芸術がほんとうにいいか悪いかわからないという人は、ずいぶんいます。そういう人の多くは、わかろうとしていろいろ人の意見を聞いたり、手引書や解説書を読んでみたり、たいへん努力しているのです。
 
だが、さまざまな知識を頭につめこめばつめこむほど、ただそれらに引っばりまわされるだけで、かえってかんじんの自分自身を失ってしまい、ますます、わけがわからなくなってしまうという人が多いのです。良分を失っては、どれほど勉強しても、知識をとり入れても、絶対に理解に到達できません。
 
この本にたいしても、もし新しい絵の解説を期待していられるとしたら、まちがいです。さきほども言ったとおり、これはけっして、鑑賞のための手引書でも案内書でもありません。芸術には教えるとか、教わるとかいうようなことはなにひとつないのです。ただ、私はこの本全体をつうじて、あなた自身の奥底にひそんでいて、自分で気がつかないでいる、芸術にたいする実力をひきだしてあげたい。それがこの本の目的なのです。
 
 よく、絵を見ていて、「いいわね。あたしにはわからないけれど」と言う人がいます。小説や映画についてはあまりこういうことは言いませんが、絵画や音楽のばあい、よく聞く言葉です。むつとも、謙虚に言うときもあるし、逆にテライ、裏がえしの虚栄でそんなことを言う人もありますが、どっちにしても無意味な言葉です。
 
「いい」と思ったとき、その人にとって、そう思った分量だけ、わかったわけです。あなたはなにもそれ以外に、わからない分など心配することはありません。
 
 いつでも自分自身で率直に見るということが第一の条件です。そして何かを発見すれば、それはまず、あなたにとって価値なのです。絵はクイズのように、隠された答えをあてるために見るのではありません。白紙でどんどんぶつかっていき、それによって古いおのれを脱皮し、精神を高めていくべきです。
 
今まで、よいと思っていたものが案外つまらなくなり、かえって無関心だったものに急に情熱がわいてきたりします。たとえ同じ作品にたいしても、見るほうが積極的になり、高まれば高まるほど、その深さと高さがそれに比例してわかってくるのです。
 
 すぐれた芸術家は、たくましい精神で、つねに前進し、新しい創造をしています。当然、それは持ちあわせの常識では、ただちに判断できません。自分のつねに固まってしまう見方を切りすて切りすて、めげずに、むしろ相手をのり越えていくという、積極的な心がまえで見なければ、ほんとうの鑑賞はできません。
 
けっこう、わかったつもりでいても、新しい芸術創造は、さらにさきにつき進んでいたりします。つまり、創造と鑑賞は永遠の追っかけっこです。この驀進(ばくしん)のなかに芸術と、その鑑賞の価値があるので、とどまって固定的に理解されるものではないのです。
 
 だから、虚栄心からわかったようなポーズをとる必要もないし、またわからないから自分には鑑賞能力がないなどと早のみこみして悲観したり、自分とは無縁なものとして敬遠してしまってはならないのです。
(岡本太郎著「今日の芸術」知恵の森文庫 p43-45)
 
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◎創造と鑑賞は永遠の追っかけっこ…… 相互に影響しあうということでしょうか。創造℃ゥ身も鑑賞≠ノこたえる……。面白いですね。なんどとなく、聞くでもなしに流れているクラッシックをあらためて聞くと、快感です。自分のドラマを描けますね。しかし、初めて聞くものは、ざわざわして心が落ち着きません。あなたはそう感じませんか?