学習通信030821
◎男たちは男として生きることに大きな疑問と不安を感じている
 
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 誰でも、自分が男であることを深く思い知らされた経験をもっていると思う。今までとくに意識していなかったのに、自分の体や心が男としてつくられていることを発見する。それが気に入る場合もあるし、不愉快になることもある。そういった経験の積み重ねによって、私たちは男であることを納得する。いや、納得させられるとともに、男として生きることを引き受けさせられるのだ。
 
私の場合、それは二つのまったく違う種類の出会いによってもたらされた。ひとつはもちろん異性と出会ったときだ。別に性的な欲求を覚えているわけでもないのに、相手が女だとなぜかうきうきしたり、変なところで身構えてしまったりする。相手が男だったら即座に否定するか無視するであろう言動でも、女ならやけに寛容になったりする。そういう自分の振る舞いに苦笑いするような瞬間があるのだが、だからといって完全には自分をコントロールできないでいる。そんなとき、自分が男であることに気がつかざるを得ない。
 
 もう一つは、自分と同性のしぐさや行動に思わず感動してしまったときだ。むろん人間の男の行動に感心することは多々ある。しかし、それにもまして人間以外の動物の行為に心を動かされたときの衝撃は大きい。人間の男の場合、それが人間に特有な行為なのか、男に特別な行為なのか判断するのがむずかしいことがある。たとえば、あぐらをかいて腕組みをするポーズが格好良く見えても、男だからとは言えない。あぐらや腕組みは女にだってできる。日本の文化がそれを男のポーズだと見なしているにすぎない。日本を離れれば、その姿勢がよく似合う女にたくさん出会うことができるし、今の日本ならかえってコケティッシュで魅力的な姿勢と見る向きもあるかもしれない。
 
 しかし、ゴリラのオスが巨体を揺すってうなり、グローブのような手で胸を叩いて突進してくる様はとてもメスには真似ができない。あたりを圧する緊張感と切迫感。空気が針のように身に突き刺さる思いをして、男という身体に刻印された何かを感じ取った瞬間に自分が人間やゴリラという種の壁を越えてオスという種類に属していることを思い知らされるのである。この感動と衝撃はなかなか忘れることができない。理屈ではなく、体でオスという世界を納得させられたからである。
 
自分が女であれば、きっとこちら側からゴリラのオスのドラミングを眺めていることができただろう。それはそれで大きな感動をともなう体験に違いない。しかし、男である私はどうしてもあちら側へ引き込まれてしまうのだ。高見の見物はできない。ドラミングの舞台に引きずり上げられ、いやが上でも当事者としてその緊張感を共有させられるのである。
 
 それは考えてみれば、当たり前のことかもしれない。何しろ人間という種ができるよりずっと前にオスという性ができたのだから。生物が有性生殖をするようになってから、オスはメスとは異なる性としてあり続けてきた。人間もその例外ではあり得ない。
 
ただ、私はここで有性生殖とオスのありようをミクロな世界に立ち入って解説しょうとは思わない。私が目論んでいるのは、少なくとも人類に近縁な霊長類の世界でオスの体や行動がどう作られているか、社会の中でオスがどういう役割を果たしているかを概観し、私たち人間に潜むオトコの特徴を再発見しょうということである。そこには人間である前にオスやオトコの特徴としてひとくくりにできるものが見つけられるはずである。
 
 オスとオトコに分けたのは、生物学的な特徴によって定義されるオスとそれ以外の特徴を身につけたオトコを分けたかったからだ。オトコは文化的なカテゴリーを含んでいる。私たち人間の男は、生物としてのオスから出発し、生物学だけではとらえきれないオトコを経て今の姿になったと考えたい。もちろんオトコの特徴はオスの特徴の上に乗っていることがあり、はっきりオスと二分できるものではない。
 
ここでは、オトコとは人間に近い類人猿がもつ、男の原型のようなものと考えていただきたい。つまり、男という人間に特有なジェンダーをつくる条件になる特徴のうちで、生物学的な制約が希薄なものとでも言
おうか。それが本書の核心であり、読者に読みとっていただきたいエッセンスである。
 
 私も含めて、現代日本の男たちは男として生きることに大きな疑問と不安を感じている。それは急激に変わりつつある今の日本社会で、旧来の文化が要請するジェンダーを男たちが担いきれなくなっているからだし、オトコという生物学的色彩が残る身体と行動を持て余しているからである。
 
ここで霊長類と人類の歴史を振り返って、オトコがどう進化して人間の男になったのかを再確認してみることは、私たち男が生き延びる上で重要だと思う。はたしてそれが希望を与えてくれる結果になるかどうか、それは保証の限りではないが。
(山極寿一著「オトコの進化論」ちくま新書 p7-10)
 
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 こうした考えにもとづいて、一般に、どんな種類の教養が女性の精神にふさわしいか、また、どんな対象のうえに女性の考察を若いときから向けさせなければならないかを決定することができる、とわたしは思っている。
 
 すでに述べたように、女性の義務を知ることはやさいしが、それを実践することはもっとむずかしい。女性が第一に学ばなければならないことは、自分の利益を考えて、その義務を好ましいものにすることだ。これがそれを容易に実践できるようにするただ一つの方法だ。
 
それぞれの状態、それぞれの年齢にはそれにふさわしい義務がある。自分の義務を好ましいものにすれば、それをすぐにみとめることができる。女性の状態にあることを名誉とするがいい。そうすれば、どんな階級に生まれているとしても、あなたがたはかならず正しい女性になるだろう。
 
かんじんなことは自然がわたしたちをつくったままのものであることだ。人間があるように望んでいるものにはいつでも十二分になれる。
 
 抽象的、理論的な実理の探求、諸科学の原理、公理の探求、観念を一般化するようなことはすべて、女性の領分にはない。女性が勉強することはすべて実用にむすびついていなければならない。
 
男性の発見した原理を適用することが女性の仕事であり、また、男性を原理の確立に導く観察を行なうのが女性の仕事である。自分の義務に直接関係ないことにおける女性の考察はすべて、男性についての研究か、趣味だけを目的とする楽しい知識にむけられなければならない。
 
天才を必要とする仕事は、女性の能力をこえているからだ。女性はまた、十分の正確さと注意力をもたないから、精密科学には成功しない。そして、自然認識についていえば、それは、男女のうち、いっそう活動的で、外へでかけることが多く、多くのものを見ている者がすべきことだ。いっそう力があり、力をもちいる機会の多い者こそ、感官にふれる存在の関連について、自然の法則について考えるべきだ。
 
力が弱く、家の外にあるものをぜんぜん知らない女性は、自分の弱さをおぎなうために働かせることができる動因を評価し判断するのだが、この動因とは男性の情念だ。
 
女性が知っている力学はわたしたちの力学よりずっと効果的で、そのすべての挺子は人間の心を揺り動かすことになる。女性は、自分にはできないこと、しかも自分にとって必要なこと、あるいは楽しいことをすべて、わたしたち男性にさせる技術を知っていなければならない。
 
だから、女性は、男性の精神を徹底的に研究する必要がある。抽象的な男性一般の精神ではなく、自分の周囲にいる男性の精神、法律によってにせよ、世論によってにせよ、自分が従属させられている男性の精神を研究しなけれはならない。
 
かれらのことば、行動、まなざし、身ぶりから、かれらの感情を洞察するこかを学ばなければならない。自分のことば、行動、まなざし、身ぶりによって、そんなことを考えている様子を見せないで、自分にとって好ましい感情をかれらに起こさせることができなければならない。
 
彼女にくらべてかれらはもっとよく人間の心を哲学的に考察する。しかし彼女はかれらよりもっとよく人々の心を読みとる。いわば、倫理の実験をするのが女性の仕事で、それを体系にまとめるのがわたしたち男性の仕事なのだ。女性にはいっそう多くの才気があり、男性にはいっそう多くの天才がある。
 
女性は観察し、男性は推論を行なう。この協力から人間の精神が自分の力で獲得できるかぎりの明晰な知識と完璧な学間、一言でいえば、人間が到達しうる、自己とほかのものについてのもっとも確実な認識がもたらされる。
(ルソー著「エミール」-下- p68-69)
 
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 アインシュタインは二十二歳でスイス連邦特許局に就職したあと、大学で同級生だったミレヴァ・マリッチと結婚します。
 
 ミレヴアは、セルビアの名家に生まれ、高校まで故郷で勉強しますが、物理学への思いを断ち切りがたく、いくつものハードルをクリアして、チューリッヒ連邦工科大学(ETH)に入学しました。ここでアインシュタインと出会うことになります。
 
今から百年も前に、セルビア出身の女子学生が、スイスの名門ETHで、男子学生にただ一人まじって、物理学を学んでいたという事実は、ひたすら感激ですね。民族的な差別や女性差別も今日よりはるかに厳しい時代でしたから。
 
 アインシュタインとミレヴァはデートのとき、「エーテルの存在は仮定しなくても良いのでは」というような議論をしていたそうです。特殊相対論の成立にはミレヴァの貢献があったとも伝えられています。
 
 結婚前に生まれた最初の子供は、スキャンダルを恐れた家族の圧力で、養子に出されました。女の子だったそうです。
 
 結婚後、二人の息子をもうけました。特許局の役人だったアインシュタインの給料は少なく、ミレヴァは、家計のやりくりに苦労します。アインシュタインは家事には協力しませんでした。一人で家事、育児、家計のやりくりに追われて、ミレヴァは研究ができなくなります。
 
 仕事と家庭の両立は、現在もなぜか女性だけの課題になっており、本質的な状況は変わっているとはいえません。それでも今では、この間題は、女性の普遍的なテーマとして、広く注目されています。
 
 百年前、そういう社会的状況もなく、孤立無援でがんばったミレヴァの努力はすばらしいと思います。ミレヴアについては、特殊相対論成立への関与にからむ議論が多くなされますが、そんなことより、女性が大学に進む風習もなかった一世紀前に、ましてセルビアからスイスまで単身出かけ、男子にも難関であったETHに進んで最先端の物理学を学んでいたという、そのこと自体が高く評価されるべきだと思います。あとに続く女性にとっても、大きな励みになります。
(米澤富美子著「真理の旅人たち」NHK人間講座テキスト p27-28)
 
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 女らしさは、女にとって随分不自然の重荷であった。実に人間らしい伴侶として婦人を求めている男にとっても苦痛を与えた。従って、その固定観念への闘争は十八世紀ぐらいから絶えず心ある男女によって行なわれてきているということは注目すべきことだと思う。
 
それらの運動は単純に家長的な立場から見られている女らしさの定義に反対するというだけではなくて、本当の女の心情の発育、表現、向上の欲求をも伴い、その可能を社会生活の条件のうちに増してゆこうとするものであった。
 
社会形成の推移の過程にあらわれてきているこの女にとって自然でない女らしさの観念がつみとられ消え去るためには、社会生活そのものがさらに数歩の前進を遂げなければならないこと、そしてその中で女の生活の実質上の推進がもたらされなければならないということを、今日理解していない者はないのである。
(宮本百合子著「若き知性に」 p12)
 
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◎男らしさ≠ェ問われています。山極氏の主張はルソーの主張(ルソーも強さを男性の特徴として強調しています)に通ずるものをもってゴリラのオスのドラミング≠男らしさの原点に据えようとしているようです。太田、森、福田、石原……諸氏と同じでしょうか。
 
◎米澤先生のテレビも見ました。どんどん変化しています。女性が社会的労働に直接参加する機会、その役割が高まってきていると思います。
 
◎引き続き「家族・私有財産・国家の起源」で学びましょう。手に入れて下さい。