学習通信030822
◎「男は仕事、女は家庭」の仕組みは、男性にとっても多くの問題を生み出したのではないか
■━━━━━
ここ10年ほどの間に、男性たちが世代を超えて多くの問題をかかえ込みはじめていることがしだいに明らかになってきた。
若い男性の間には、自立できないパラサイト・シングルの問題や、結婚したくても結婚できない独身男性の増加の問題がある。働き盛りの男性の前には、長時間労働や出世競争のなかでの苦悩がある。
しかも、最近のリストラの嵐や雇用形態の流動化は、中高年男性を中心にさまざまなプレッシャーや挫折を生み出そうとしている。ここ数年急激に社会問題化している中高年男性の過労死や自殺の急増はその現れだろう。
仕事人間から解放されて、「さて老後は妻と二人で旅行でも」などと思っていると、妻から定年離婚を言い出されて泡を食ったりする人も増えている。年間30万件に近づきつつある離婚件数のうち、20年以上連れ添った夫婦の離婚は、約4万5000件、つまり全体の15%以上にまで上昇しているのである。付け加えれば、裁判所で離婚調停を行っている夫婦の七割以上は妻から言い出す離婚だという。
離婚ということにならなくても、定年後は、趣味もなく友人もいない、妻に依存するだけの「濡れ落ち葉族」や、あまりにひどい言葉だが「産業廃棄物」のような生活が待っているというわけだ。これではたまらない。
現代の日本社会がまだまだ男性主導社会であるのは明らかだ。しかし、個々の男性の人生を考えるとき、男性たちもまた、男性中心社会ならではのさまざまな矛盾をかかえていることも見えてくる。
たしかに、これまでの男性中心社会は、女性にとってさまざまな不利益を生み出してきた。女性であるということだけで、就業や昇進における差別が存在してきたのも事実だ。特に日本の場合、女性のおかれた労働条件整備の不十分さという点でみれば、国際的に低いレベルであることは(日本人が思っている以上に)よく知られたことでもある。
また、家庭での共同参画ということになると、家事・育児・介護が女性の肩に一方的に担われてきたのが実情だろう。
しかし、この「男は仕事、女は家庭」の仕組みは、男性にとっても多くの問題を生み出したのではないか。最大の問題は、仕事に追われるなかで、男性たちが、家族との絆や地域での生活、さらに趣味や仕事以外の生活の場を喪失してしまったということだろうと思う。
女性の社会参画が進みつつある現代だからこそ、男性が、「仕事の顔」以外の多様な「顔」をもって、より「人間らしく」生きられる社会が、これからはますます必要になるだろう。男性の家庭や地域での「居場所」づくりは、女性や子どもが、より快適に生活できる社会にもつながっていくはずだ。
そのためにも、今、男性に問われているのは、一度、立ち止まって、自分たちのこれまでの生活を、そして、これからの未来を、じつくり考えてみることではないか。
(伊藤公雄著「「男らしさ」という神話」NHK人間講座テキスト p1-2)
■━━━━━
なんとも言い難い不安感を社会に与える事件が相次いでいる。早大生サークルの集団女性暴行事件、東京・渋谷の小学生女児四人監禁事件、長崎男児誘拐殺人事件などだ。それぞれ個別の事情と背景をもって発生した、相互に無関係な出来事である。
しかし、増えるセクシャルハラスメント事件やドメスティック・バイオレンス(DV)関連事件(DV夫による妻の友人刺殺・東京都板橋区)などもあわせて考えると、快楽に溺れ、歪んだ愛着関係を示す日本社会の一断面がうかがえる。
これらは社会的につくられた性の意識や態度、とりわけ男性的な表出の仕方に関連した犯罪と非行なのである。新奇な風俗現象や心の問題などとしては片づけられないジェンダー関連暴力としてみなければならない。
大学生のイベントサークル事件は巧妙に仕組まれた組織的性犯罪集団として悪質なものだ。女児監禁事件は子どもを対象にする歯止めなき風俗産業と自らの小児性愛を満たすことへの耽溺(たんでき)が背景にある。長崎男児誘拐殺人事件は、偶発的ではあるが、思春期の性の欲動が倫理を超えて発露した情緒的あるいは対人関係的な混乱であるだろう。
事件を風化させず、予防を考えるためには、加害男性の異常性、特異性に力点をおくだけではなく、攻撃性を暴力として、しかも性的なエネルギーの発現という形態で行動化させるにいたった背景を吟味すべきである。ジェンダーに関連して暴力を作動させてしまった男性役割・男らしさ意識・男性的行動様式を無視しないことが大事だと考える。欲望の表し方を、情動的に行動化させてしまう際の暴発の力に注目する必要がある。
加害男性たちの動機を語る言葉の不明確さも気になる。責任を感じ、謝罪を表す言葉は貧しく、被害者や遺族に届かない。麻痺させられたかのような脱感情的な態度が見いだせる。感情の荒野に佇んでいるような心象風景である。
さらに焦点をあてたいことは、思春期の男の子の性が絡んだ問題行動、欲望むきだしの性犯罪やセクシャルハラスメン卜、病的な嫉妬(しっと)心を示すDVの加害やストーキング行為などだ。こうした行為は、男女、親子、夫婦、恋人、友人などの親密な関係に宿る男性のコミュニケーションのゆがみを示している。愛着する対象に適切なかたちで関与できず、反社会的な表現で行動化してしまうわけだ。
対人関係上の障害ともいえる男性の脱感情的なコミュニケーションの仕方は、外に向かう暴力だけでなく、内に向かう暴力のエネルギーともなる。自殺が男性に多いこと、ひきこもりも青年壮年男性に多くみられることなどである。
男性性や男らしさの病理として、外や内へ向かう加害行為をとらえてみることで、現代社会がかかえる精神衛生の焦眉(しょうび)の課題が浮かび上がる。生涯にわたる男性の心理社会的変容に即した、内的かつ対人関係上の諸問題という課題だ。とりわけ思春期から中年期にかけての男性のこころと身体の変化に即した心理社会的対応が必要である。
たとえば、性の非行と犯罪に対応した更生教育のプログラム、DV加害者の更生施策、家庭内暴力への司法臨床的介入の体系化、アルコールや薬物などの依存症への対応など、男性の脱感情的対人関係や貧しいコミュニケーション状況を根本から転換する取り組みが、今こそ求められている。
(中村正氏「背景に男らしさ」のゆがみ 京都新聞030801 )
■━━━━━
一時、主に働く女性たちの間で、「男前」というのが同性をほめるための形容詞として流行した。今でも若い人たちの会話の中には、ときどきこのことばが出てくる。自分をしっかり持って仕事の腕も一級、でも情に厚く面倒見もよい。
「オンナは自分さえよけれはいい」などという固定観念が存在した時代もあったが、「男前」はその反対。八十年代に漫画家の中尊寺ゆつこさんが提唱した「おやじギャル」とも共通するが、「男前な女」の特徴はなんといってもこの「自分の利益だけではなくまわりのことも考えている」ことにあろう。つまり、公共性の精神を持っているのだ。
具体的には、本人の前でも堂々と「ユキさんってホント、男前ですねぇ」と言い、言われた方は「そうかな?」とうれしそうに照れ笑いをする、そんな使われ方をすることが多い。
説明は不要だとは思うが、「男前」は決して現実の男性に近いことを意味しているわけではない。あくまで、「かっこいい女性」を表現するためのことはである。そしてこれは、外見のいわゆる「男っぽさ」とはまったく関係がない。それどころか、「男前な女」たちは服装や化粧にもきちんと気をつかっているため、外側はむしろ「女性っぽく」見える。
従来の男性──いわゆる「おじさん」──は、こういった外側と中身が離反した「男前な女」の複雑なあり方を理解せず、見た目だけで「色っぽくてイイ女」と言うか、仕事ぶりから「まさに男まさり」と言うかだろう。目の前にいる人をこれまでの「男」か「女」、どちらかの性の概念に無理やり分類することしかできないのだ。逆に、そういう人たちこそが「おじさん」と呼ばれるのかもしれない。
では、「男前な女」が増える中で、実際の男はどうなっているのだろう。容易に想像がつくとは思うが、「男前な男」はそれほど増えているとは思えない。職場でも、自分のために、また後輩や会社のためにせっせと働く「男前な女」たちを横目で見ながら、権威にしがみつき出世をねらい私腹を肥やすのは、はとんどが男性。
しかもそういう男たちは「男前な女」に対しては「オトコだかオンナだかわからない」と冷たく、決して自分の恋愛や結婚の対象として彼女たちを選ぶことはない。
かくして、まだまだ男性中心の企業や組織では「男前な女」は同性や後輩からは熱い支持を集めても、出世もパートナー探しもなかなか思うようにできず、と十分、幸せになりきれないケースも少なくない。その姿をいやというはど見てくると、最初は「私も先輩のように仕事もできて人間も大きな人になりたい」と思っていた若い女性たちも、「やっぱりそんなことしても損するだけだから」とあきらめざるをえなくなる。
もちろん、すべての若い女性たちが、社会で仕事に全力投球する人生を選択する必要はない。しかし、「そうしてみようかな」と考えた人が「やっぱりやめた」と断念してしまうのは、やはり社会全体の損失とも言える。そうならないようにするには、大人の男性たちがまず、「外見は女性的だが、内面的には自立してしっかり働こうとする男前の女」という新しい女性のあり方を認めることが必要。
そして、今や従来の意味での男らしさ──公共性や指導力など──は彼女たちの中にしかないかもしれない、ということもー度、考えてみた方がよい。そしてその上で、「よし、では自分がそういう女性をサポートしていこう」と決意するのが、「新・男前な男」と言えるのかもしれない。
若い人たちの中には、すでにそういう女性たちを素直に尊敬し、愛することのできる男性たちも目につき始めている。しかし、そういう若者の中にも、社会に出て従来の「男か女か」という価値観の洗礼を受けて、すっかり変わってしまう人もいる。
政治の世界を見ても、自分やせいぜい自分の属する派閥の利益のことしか考えていない男性の政治家にまかせておくと国が危機に瀕する、と多くの国民が気づき始めているはず。
これからは、若い「男前な女」と、彼女たちと共生できる「新・男前な男」に期待するしかない。大人たちは、せいぜいそういう若者の邪魔をしないようにし、彼らが少しでものびのびと自分の能力を発揮できる社会を残せるか、真剣に考えた方がいい。
(香山リカ著「若者の法則」岩波新書 p176-179)
■━━━━━
婚姻している男女の法律上の同権を見ても、右の状態よりましではない。以前の社会状態からわれわれに伝わっている男女の法律的不平等は、女子にたいする経済的抑圧の原因なのではなく、それの結果なのである。
幾組もの夫婦とその子どもたちをふくんでいた昔の共産主義世帯では、妻たちにまかされた家事のきりまわしは、夫たちによる食糧の調達と同じく、一つの公的な、社会的に必要な産業であった。
家父長家族〔の出現〕とともに、またそれ以上に一夫一婦婚個別家族〔の出現〕とともに、この事情が変化した。家政のきりまわしは、その公的性格を失った。それはもはや社会とはなんの関係もないものになった。それは一つの私的役務となった。妻は、社会的生産への参加から追いだされて、女中頭となった。
現代の大工業がはじめて彼女に──それもプロレタリア女性だけに──社会的生産に参加する道をふたたび開いた。だがそれとても、彼女が家族の私的役務の義務をはたせば、公的生産から排除されたままでびた一文もかせぐことができず、また公的産業に参加して自分の腕でかせごうと思えば、家庭の義務がはたせない、という程度のものである。
そして女子は、医師業や弁護士業にいたるまでのすべての職業部門で、工場でと同じ状態におかれている。近代の個別家族は、妻の公然または隠然の家内奴隷制の上にきずかれており、そして近代社会は、この個別家族だけを構成分子にしてつくられている一集団である。
夫は今日、少なくとも有産階級のあいだでは、大多数の場合、稼ぎ手、家族の養い手でなければならず、そしてこのことが夫に支配者の地位をあたえるのであって、この地位に法律上特別な特権をあたえることは必要でない。
夫は、家族のなかではブルジョアであり、妻はプロレタリアを表わす。
だが産業の世界では、資本家階級の法律上の特別な特権がすべて取り除かれ、両階級の完全な法律上の同権がうちたてられたのちにはじめて、プロレタリアートにのしかかっている経済的抑圧の特殊な性格が完全な鋭さで現われてくるのである。
民主的共和制なるものは、両階級の対立を廃棄するものではない。反対にそれは、この対立がたたかいぬかれる地盤をはじめて提供するのである。それと同じように、夫婦が法律上完全に同権になったときにはじめて、近代的家族のなかでの夫の妻にたいする支配の独特な性格も、また夫婦の真の社会的平等を樹立することの必要性と、それを樹立するやり方も、白日のもとに照らしだされるであろう。
そのときには、女性の解放には、全女性の公的産業への復帰が第一の先決条件であり、この復帰がこれまた、社会の経済的単位としての個別家族の性質の廃棄を必要とすることが示されるであろう。
(エンゲルス著「家族・私有財産・国家の起源」新日本出版社 p101-102)
〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
◎男性と女性の関係を科学的社会主義の目でとらえよう。
◎中村正氏「背景に男らしさ」のゆがみ 京都新聞030801 は、学習通信030802 からの再録です。
◎香山氏の「男前の女」は、京都の労働学校には沢山います。自分の楽しみや学習だけでなく、仲間の楽しみや学習……闘い……に夜遅くまで奮闘しているのは、女性の運営委員達です。ようやく20歳の男性2人がそれに……。もっとも運営委員長と副運営委員長は男性です。
◎「家政のきりまわしは、その公的性格を失った。それはもはや社会とはなんの関係もないものになった。それは一つの私的役務となった。妻は、社会的生産への参加から追いだされて、女中頭となった。」
「民主的共和制なるものは、両階級の対立を廃棄するものではない。反対にそれは、この対立がたたかいぬかれる地盤をはじめて提供するのである。」
「そのときには、女性の解放には、全女性の公的産業への復帰が第一の先決条件であり、この復帰がこれまた、社会の経済的単位としての個別家族の性質の廃棄を必要とすることが示されるであろう。」
──じっくりとかみしめて学習してください。男女平等は実現できるのです。