学習通信030831
◎貨幣はできないことごとを兄弟のように親しくさせるものであり、たがいに矛盾しているものを無理やりに接吻させるのである。
 
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銭で買えないものがある? 冗談じゃない
おまえ そんなこと言えるのか
 
 オレ、絶対に金持ちになってやろうって思ってたよ。金さえあれば何でも手に入ると思った。
 金で買えないものがある〜 うん、あるだろうな。あるって、軽く言ってやる。
 でも、そういう「金で買えないもの」って言い方には、すごく抵抗があるんだ。
 金があれば、二兆円ぐらい持ってたら、京王プラザなんかでも買える。でも、言われるだろう。
 「彼はきっと孤独なんだ」
 うん、孤独かもわかんない。
 オレ、進んで孤独になる。オレにはそっちの孤独の方がいいから。長屋の孤独、嫌いだもん。
大邸宅の孤独を選ぶ。
 
 もうごめんだよ。長屋の孤独は……。
 金がすべてじゃない。こう言う人にも、やはりふたつのタイプがあると思う。
 まったく、頭から金持ちになることを放棄してるやつ。自分の才能がないってことを、完全に理解してるんだ。
 もうひとつは、苦労を知らないやつ。
 
 金では買えないものがある。
 すばらしい愛。
 うん、そうか。いまの愛情は、だいたい金で買えるね。女の愛情も、金で買える。言っちゃ悪いけど。
 
 人間て、タブーがたくさんあって、その緊張感でバランスをとってる。つまり、それを言っちゃったらおしまい、そんな感じがあるんだよ、世の中には。でも、ほんとに、はんとのことを言えってことになったら……。
 全部、金で買える。島も買える。ナオンも二十人ぐらい買える。
 田中角栄、おおよし、認めるよ。オレの正義っていったら銭だ。銭さえあれば、正義も悪魔も全部買える。
 
 カラーテレビ一万台ぐらい部屋に置いて、朝から一発ずつぶっ壊せる。ナショナルからソニーから、片っぱし。本日は朝から晩までかかって十八台壊したから、明日ほ八十台追加持ってこいこうね。
 
 オレの正義は銭だっての、合ってるね。
 ……ほんとは、銭じゃないのよ。
 ほんとは銭じゃない。オレに、こんなに銭だって思わせた何かに腹立ってる。
 そう思わせて二十八年間やってこさせた何か。ホント、悲しい、実は。
 精いっぱい粋がって、銭だって言うようになったわけさ。人間なんて、小佐野賢治みたいに何千億あったって使い途(みち)はない。それを、オレ、あえて銭だって言うのは、悲しいんだ。悲しいから言うんだろうね。
 
 小学生のオレが、えらく強烈に感じた部分が、良かったのか悪かったのか、オレの原動力になってる。将来、誰よりも銭を持ってやろうって。
 
 女房。銭で買えない。
 あいつは銭で買えない。あいつは、よくオレについてきてくれた。
 ホソトの気持ちは、そうさ。
 銭じゃない……。
 
 だけど、オレ、何歳になっても完全には人間的になりたくない。やっぱり、昔のことを忘れてない。あれを背負って生きてく人間でありたい。
 いまでもね、酒飲んだ時、昔のこと考えると怒り出すよ。震えてくる。腹立って、こみあげてくる。
 
 「そんなに昔のことで……」女房が言う。 冗談じゃない。オレ、怒ってる。あの空気、あの雰囲気に腹が立つんだよ。
 長屋の空気、長屋の酸素!
 オレをみじめにさせてた。長屋の空気、オレ自身なのかもしれないな。オレも、全部ひっくるめたあの空気に、怒ってる。
 オレは、最後までそれを忘れたくないね。 銭。しゃくで言ってるのかもしれない。でも言いたいんだ。簡単にキレイごと言うやつは大嫌いだ。
 「銭じゃ買えないものがあります」
 ふざけるな! この野郎。
 おまえにそういえる背景があったのか。だいたい中流クラスのおぼっちゃんのやってることはたまんないよ、オレには。
(矢沢永吉著「成りあがり」角川文庫 p22-25)
 
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紳助◎ 心の豊かさのために、お金は必要なものだ
 
 お金とは、心の安心感だと思う。
 よく、人はお金を持っては死ねない、あの世へお金を持って行けない、なんていうけれど、それは違うと思う。
 人はお金を持って死ねるのだ。
 お金を持って死なないかんと思う。
 
 たとえばもし、七十歳の何月何日に死ぬと、ちゃんとわかってるなら、その日から逆算して、自分の持ってるお金をぜんぶきっちり使い切るのがベストだ。
 
 だけど、人間いつ死ぬかほわからないから。「七十歳で死ぬやろ」と思ってお金を使ってたら、九十歳まで生きてしまったとする。そしたら七十歳で金がゼロになって、あと二十年間は路頭に迷うことになってしまうじやないか。
 
 そうではなくて、死ぬまでお金の心配をしなくていい、老後の心配をしなくていいというのが理想だと思う、どう考えても。家賃どうしよう、ガス代どうしよう、なんて考えずに、死ぬまで好きなもん食べて、買いたいもの買って、行きたいとこ行って、という生活ができる人が僕はいちばん幸福な人だと思う。
 
 それで死ぬときはお金いっぱい残っていてどうするんだといわれそうだが、それでもお金を持っているという心の豊かさってあると思う。心の豊かさのために、お金は必要なものだと僕は思う。
 
 まあ、それは僕の考え方であって、お金というものに対する考え方は、人それぞれで違うものだとは思うけれど。
 
 僕の知ってるある社長さんの、お金に対する価値観っていうのは、僕なんかの何十倍もかっこいい。
 その人にとって、お金はトロフィーなのだ。
たぶん資産は何百億、それを一代で築き上げた。ものすごい金持ちなのだが、自分ではぜんぜん使わない。「晩ご飯でも食べに、温泉でも行ったらどうですか」とかって僕なんかいうのだが、行かない。「時間がない、忙しい」と、ずっと家にいる。家っていうのは、自分の会社の上にあるのだが、そこから降りてこない。ずっと仕事してる。
 
 かといって、ケチなわけではないのだ。一緒に仕事してる人に、証書もなしに、ボンと何千万円もの金を貸してしまうのだから。──略──
 
 まあ、ナマで見る現金と、数字で動かす金は全然違うけど。
 パチンコで二万円負けたら、「台割ったろか」って思う。けど、株で一日に二百万円、三百万円損しても、「あちゃー」って思うだけ。
 
 人間は、現金に弱い。
 二万円も負けたら「台、割ったろか」って思うけど、正直な話、本気で腹を立てているわけでもない。昔は二万円も負けたら、えらいことだった。ものすごく落ち込んだ。でも今は、四万円勝っても負けても、なんとも思わなくなってしまった。これはイヤミではなくて。
 
 隣の台で打っているおじさんを見て、このおじさんほおもしろいだろうなあ、つて本気で羨ましくなることがある。
 お金を持つと人格は変わるのだろうか?
 自分では変わらないと勝手に思っているだけのことで、でもやっぱり気持ちのあり方みたいなものは絶対に違ってくると思う。
(島田・松本著「哲学」幻冬舎 p172-179)
 
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お金
 
 「時は金なり」ということばがある。もちろん「時間はお金と同じように大切なもの」という意味だが、最近のビジネスの場などではもっとストレートに「時間もタダではない」というニュアンスで使われることもある。そして、後者の「時は金なり」は欧米式の発想なので、日本人にはなかなかなじみにくい、とも言われる。
 
 診療室でカウンセリングをして「今日はお薬はいらないでしょう」と告げた中年の患者さんが、会計窓口のところで怒っている場面に遭遇したことがある。どうしたのかと近づくと、「先生! 今日は話だけで何もしてもらってないのに、治療代を要求するなんてひどいじゃないですか!」。おそらくこの人はその金額に腹を立てたのではなく、時間や会話といった目に見えないものにまで料金を要求されたことが非人情に思えて怒りの声をあげたのだろう。
 
 患者さんとしては、できれば医者の治療はビジネスではなく善意にもとづいた行為だと思いたいのに、お金を要求されると「やはりそうではなかった」と思い知らされることになる。お金が介在することでその行為の純粋さ、真実味にキズがついてしまう、という考えが日本人の中にはあるようだ。中には心のどこかでまだ、「お金は汚いもの」と思っている大人もいるかもしれない。
 
 では、若者はお金に対してもっとドライに割り切っているのだろうか。ある部分に関しては、そうともいえる。彼らと話していると非常によくお金の話が出る。どこの店が高い、安いといった身近な話から、大リーガーのだれの年収がいくらだとか、あの歌手の売り上げは何億円だといった詰まで、もはや彼らには「お金は汚い」という意識はまったくない。お金はとても大切、お金があるのはよいこと、というシンプルなお金肯定主義があるだけだ。
 
 あるとき学生が集まって何か書いていたのでのぞいてみると、彼らは年間授業料を講義の時間数で割って「講義一時間あたりの料金」を出しているのだった。「授業までお金に換算しているのか」と少し驚いたが、かといって彼らは「あんな講義にも何千円も払っている計算になるんだなぁ」などと口々に言うだけで、欠席しないようにするとか講義の質を上げるように要求するといったことはない。金銭感覚は発達しているように見えるが、それは現実の生活や行動に結びつくようなものではなさそうだ。
 
 実際、「お金をもうけたいですよ」などと言いながら、就職を決める段になると、賃金も調べずに家から近いところや楽しそうなところに入社してしまったりする。彼らの毎日の生活を見ていても、衝動買いの連続でけっこうムダが多い。お金は大切でほしいものには違いないが、日常的に努力して少しずつ手に入れたいほどのものではない。何かの機会にどさっと入ってくるなら拒まずにもらいたい、といった程度のものなのかもしれない。
 
 だから若者が「お金、お金」と口にするからと言って、大人が彼らをお金を使って動かそうとすると意外に動かずに拍子抜けすることもあるだろう。お金ははしいが、お金のためにやりたくないことまでやろう、とは思わない。逆に、サッカーのワールドカップの応援となると、高いお金をかけてゼロ泊三日の強行日程で海外にまで出かけて行くような若者もいる。
 
 彼らを実際に動かすのは、実はお金ではなくて「これは自分にしかできない」という意識なのではないか。フリーマーケットに出品して「今日は三万円ももうかった」などと喜んでいる若者もいるが、彼らにしてもお金そのものがうれしいというよりは、そこで一日をすごした自分がそれだけの成果をあげ、はっきりした数字で評価されたことを喜んでいるのだと思う。
 
そのことをいちはんわかりやすく表現するのが、「三万円もうかった」という言い方だからそうしているだけなのだ。もちろん、これが行きすぎると、「自分の価値はいくら?」と確かめたいあまりに風俗産業に身を投じる女性が出てきてしまうことになるのだが。
 
 何でも金額や料金に換算して語る若者が、それだけお金に執着があるわけではない。彼らが執着しているのは、あくまで自分にとっての価値。そう思うと、「えー、大学の先生の給料ってそんなに安いのですか」というフレーズが、「先生にはもうちょっと価値があるはずですよ」というようにも聞こえてくる気がする。
(香山リカ著「若者の法則」岩波新書 p6-9)
 
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 貨幣は、すべてのものを買うという属性をもち、すべての対象を我がものにするという属性をもっているから、したがって貨幣は優れた意味における対象である。貨幣の属性の普遍性は、それの本質が全能だということである。
 
だから貨幣は全能な存在として通用する……貨幣は人間の欲求と対象とのあいだの、人間の生活と生活手段とのあいだの取りもち役である。しかし、私に私の生活を媒介してくれるものは、また私にたいする他の人間の現存をも私に媒介してくれる。それは私にとっては他の人間なのである。──略──
 
 私がある料理を渇望したり、あるいは、私が道を歩いて行くほど強健でないので駅馬車を利用したいと欲したりするならば、貨幣は私にその料理や駅馬車をあたえてくれる。
 
すなわち貨幣は私の諸々の願望を表象上の存在から〔現実の存在へと〕変化させる。貨幣は私の望みを、その考えられ表象され欲せられたあり方から、その感性的な現実的なあり方へ、表象から生活へ、表象された存在から現実的な存在へと翻訳するのである。このような媒介をするものとして、貨幣は真に創造的な力なのである。
 
 むろん需要(demande)は、まったく貨幣をもたない者にとってもまた実存する。しかし彼の需要は、たんなる表象上の存在であって、私にたいして、第三者にたいして、(……)にたいしては、なんらの実効、なんらの現実的存在をももたず、したがって私自身にとっては、非現実的な無対象的なものにとどまっている。
 
貨幣にもとづいた有効な需要と、私の欲求、私の情熱、私の願望等々にもとづいた無効な需要との区別は、存在と思惟とのあいだの区別、私の内部に実存するたんなる表象と、現実的な対象として私の外部に私にたいして存在するような表象とのあいだの区別である。
 
 もし私が旅行するための貨幣をもっていないとすれば、私は旅行しょうという欲求をまったくもっていないわけだ。すなわち、旅行しょうという現実的でみずからを現実化してゆく欲求をまったくもっていないわけである。
 
私が学問するという天分をもってはいるが、そのための貨幣をまったくもっていないとすれば、なんら学問するという天分を、すなわちなんらの効果ある天分なんらの真の天分をももたないことになる。それに反して、私が現実的には学問するという天分をなんらもってはいないが、その意志および貨幣をもっているとすれば、学問するための効果ある天分をもっていることになる。
 
貨幣は、表象を現実にし、現実を一つのたんなる表象にするところの一般的手段および能力、人間としての人間からも社会としての人間的社会からも由来するのではない外的な一般的手段および能力として、
 
一方では、現実的な人間的および自然的本質諸力をたんに抽象的な表象へ、それゆえ不完全なものへ、悩みにみちた妄想へと変じ、
 
また他方では、現実的な不完全性や妄想を、つまり実際上では無力でただ個人の想像のなかでのみ実存するような本質諸力や現実的な本質諸力や能力ヘと変ずるのである。
 
したがって、すでにこの規定からみても、貨幣は諸々の個性の全般的な転倒であって、個性をその反対のものに逆転させ、そしてそれらの属性に矛盾する属性を付与するのである。
 
 こうしてまた貨幣は、個人にたいしても、そしてそれ自身本質であると主張する社会的等々の紐帯にたいしても、こうした転倒をさせる力として現われるのである。
 
それは誠実を不誠実に、愛を憎に、憎を愛に、徳を悪徳に、悪徳を徳に、奴隷を主人に、主人を奴隷に、愚鈍を理知に、理知を愚鈍にに変ずる。
 
 実存しつつあり活動しつつある価値の概念としての貨幣は、一切の事物を倒錯させ置換するのであるから、それは一切の事物の全般的な倒錯と置換であり、したがって転倒した世界であり、一切の自然的ならびに人間的な性質の倒錯と置換である。
 
 臆病な者であっても、勇気を買うことのできる者は勇士である。貨幣は、ある特定の性質、ある特定の事物、ある特定の人間的な本質諸力と交換されるのではなく、すべての人間的および自然的な対象的世界と交換されるのであるから、
 
したがって貨幣はーその所有者の立場−からみるならばーあらゆる属性を、あらゆる属性や対象とーそれと矛盾する属性や対象とさえもー交換する。
 
貨幣はできないことごとを兄弟のように親しくさせるものであり、たがいに矛盾しているものを無理やりに接吻させるのである。
 
 人間を人間として、また世界にたいする人間の関係を人間的な関係として前提してみたまえ。
 
そうすると、君は愛をただ愛とだけ、信頼をただ信頼とだけ、その他同様に交換できるのだ。君が芸術を楽しみたいと欲するなら、君は芸術的教養をつんだ人間でなければならない。
 
君が他の人間に感化をおよぼしたいと欲するなら、君は実際に他の人間を励まし前進させるような態度で彼らに働きかける人間でなければならない。人間にたいするーまた自然にたいする─君のあらゆる態度は、君の現実的な個性的な生命のある特定の発現、しかも君の意志の対象に相応しているその発現でなければならない。
 
もし君が相手の愛を呼びおこすことなく愛するなら、すなわち、もし君の愛が愛として相手の愛を生みださなければ、もし君が愛しつつある人間としての君の生命発現を通じて、自分を愛されている人間としないならば、そのとき君の愛は無力であり、一つの不幸である。
(マルクス著「経済学・哲学草稿」岩波文庫 p178-187)
 
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◎お金とはなにか? 1日たりとも使わない日はありません。その本質をきちんとつかんでおくことが大切です。日本は資本主義なのです。
 
◎親友の関係でも恋人関係……でも、お金が間に入ると激変します。その理由を理解するには、お金がもっている本質を理解する必要があるのです。だから、お金を介在としない関係……。
 
◎「それにまた、アメリカ・インディアンや(同一の段階にある)他のところでは、婚姻締結は当人たちの仕事ではなく、彼らの母たちの仕事であって、往々にして当人たちの意向など全然たずねられない。こうして二人のまったく見ず知らずの者どうしが婚約させられ、結婚の時期がせまってはじめて、締結された取引について知らされることがしばしばである。結婚式の前に、花婿は花嫁の同民族の血族に(つまり父や父方の血族にではなく、彼女の母方の血族に)贈り物をするが、これは譲渡される乙女の身代金とみなされる。」とエンゲルスは「国家の起源」で述べています。
 
◎豪華な誕生祝い……結納……  必ず見返りをもとめられ……。学ばなければ……。労働学校の総合コースへ。