学習通信030902
◎知識というものは、一度に詰めこんで、それで万事解決というような性質のものではありません。
 
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 学ぶとは、真似び、つまり、真似だ
 
 よく、個性教育、といわれます。人間一人ひとりには、その人に固有な性質がある。その性質を見抜き、それを引き出すような教育を心がけなければならない、というわけですね。「教育」(education)に、「引き出す」という語意があるのは知っていますね。
 しかし、逆に「教育」には、ある「特定の型」にはめて教え込む、という意味もあるのです。
 
 「学ぶ」のは、特に、学校に限りません。私がいちばん愛用している携帯用の国語辞典は『新明解国語辞典』(三省堂)です。それに、「学ぶ」はこうあります。
 @見習って、身につける。「まわりのおとなから学んだ生き方」A教えを受ける。「師(し)のもとで──」B学問をする。「物理学を──[対]教えるC経験〈けいけん)してわかる。「自分の失敗に──」
 
 「見習う」とは、真似をすることですね。「特定の型」に自分を合わせることです。「学ぶ」とは「まねぶ」、つまり、「真似をする」ことが基本にあるのです。特定の型を教える人、見習うべき型をもった人を、「師」といいます。教師に限りません。医師であり、技師、牧師、広く師匠といわれる人たちです。teacherであり、masterですね。
 
 だから、学ぶことの一番重要なポイントは、「師」を得ることです。独創的な考えや行動をする人は、その道を自分一人の力で切り開いたか、というと、必ずしも、そうではありません。よく調べてみると、必ず、師とするにたる人をもっていることがわかります。(p36-37)
 
 そうなんです。実は、独学は、学校教育という下支えがあって、初めて、比較的簡単に可能となるのです。自分で、学ぶ範囲や程度をいちいち測定して進むのは、考えられているよりも、うんと難しいのですよ。
 
 それに、独学には目に見える弊害があります。
 第一は、偏食になることです。自分の得意な方をのばそうとするのはいいのですが、苦手な方に目もくれなくなり、個性的ならまだいいのですが、独善的な判断力や行動をもつ人が生まれてしまいます。
 
 第二は、気まぐれになることです。外からの定型や強制がありません。その分、やるときは猛烈にやるが、気が乗らないとぜんぜん進まない、ということになります。人間は、楽な方が万事に気分がいいものです。自由さが、放窓に変わる、というのが大部分ではないでしょうか。
 
 学校教育のいちばんの特長は、特定のことを、きちっとしたやり方で、期間内に習得するシステムだというところにあります。だから、到達目標や、教授のプログラムと方法、さらにスケジュール、そして、評価のない教育は、学校教育とはいえません。しかし、この特長は、同時に短所にもなります。(p44)
 
 共同で学ぶことの限界
 
 共同で、均質なものを習う場が、学校の基本だ、といいました。大学だって変わりはありません。しかし、入間は、どんなに均質なものを、特定のやり方で共同学習しても、均質にはならないのです。均質に学習する、ということさえも、不可能なのです。
 
 人間は、機械ではありません。代替可能ですが、機械の代替とは違います。同型な人間はいますが、大小で違います。成長過程で違います。同一の入間は皆無なのです。みんな、強弱に違いがあっても、個性があります。だからこそ、学校の均質化教育にも、耐えることができるのです。最終的に、学校の影響は怖くないのです。(p83)
 
 しかし、共同で学ぶだけならば、一人ひとりの学ぼうとする力は弱くなります。学ぶ力の弱い人が、共同で学ぶと、学ぼうとする力がさらに弱くなります。これが学校教育の超えることのできない限界です。
 
 学ぶ力が弱くなるということは、自分で考える力、自分で決断する力が弱まるということです。共同で学ぶだけのところからは、おうおうにして、一人のリーダー待望論が生まれ、そのリーダーに、考える力も、決断する力も預けてしまう、ということが生じます。オウム真理教の信徒たちが、自分で考え、自分で決断できなくなったのは、もともと自分を託すに足るだけの「誰か強力な人」を求めていたこととともに、共同学習(洗脳)の結果でもあるのです。
 
 でも、社会は、ますます、高品質になってきましたが、大量生産・大量消費の時代です。高均質の時代ですね。人間の能力開発も、大量生産・大量消費の時代です。私は、これを否定的のみに見るのは間違いだ、と思います。一方では、マニュアル化時代に対応した知識や技術の習得なしには生きてゆけません。
 
この情報化社会で、鉛筆と原稿用紙さえあれば、どうにかなる、などというのは図々しい考えです。しかし、私たちの思考や行動がマニュアル化すればするほど、私たちは、逆に、個性化を求めていかなければ、バランスがとれなくなるのです。「私」というものが小さくなってゆかざるを得ないのです。
 
 共同で学ぶことの限界の第二は、あらかじめ、共同できないものを排除してしまうことにあります。同質のものだけで集まるのですね。
 いじめも同じメカニズムをもっています。単独で考え行動できないものたちが、集団でいじめるのです。それも、単独ではいじめに反抗できないものを狙ってです。
 
 学ぶとは、「真似び」だといいました。あるモデルに同化したい、ということです。そのモデルは、それを学ぼうとするものとは異質のものです。異質の性格のものです。ところが、同質なものたちで学んでいると、学ぶことのもっとも根元的な意味を失ってしまうのです。異質なものが存在しないからです。
 
 異質なものが存在しないのは、気分のいいものです。気分を害するようなものは存在しないからです。しかし、そこには、発展も存在しません。腐ってゆくだけです。
 
 この意味でなら、人間、気分がいいからこそ、好きだからこそするのですが、気分が悪いからこそ、嫌いだからこそあえて挑む、ということが必要なのですね。異風に当たる、異風を招く必要性です。
 
 だから、学校で学ぶこととともに、常に、独力で何ごとかを学ぶ努力を持続する必要があります。あるいは、自分の属する共同の場とは違うところで学ぶ、というのも効果的です。学ぶことと全くかけ離れたところでボランティアをするというのも、一つの方法です。
(鷲田著「学ぶことの法則」丸善ライブラリー p84-86)
 
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 私は、現代では、労働者やはたらく農民こそが、本当に真剣に勉強をしており、本当に真剣に勉強することのできる人たちだということをのべました。しかし、それだからといって、労働者にとって、勉強するということが、何の苦もなくやれることだ、というようなことをいう気はありません。
 
戦前にくらべれば、ずっと有利になってきたとはいえ、現代資本主義の強烈な搾取に直面している労働者にとって、じぶんじしんを、労働者階級と勤労人民の事業に役立てることができるほどの学問を身につけるということは、依然として非常にむずかしい、頑固な意志と忍耐なしには、決してやりとげることのできない大仕事だとおもいます。
 
私は、京都であった炭鉱労働者に感動したはなしをしましたが、この人が何年間かの問に本当に労働者階級の理論を身につけることができるかどうかは、もうひとつ別の感動的な物語りが生まれるかどうかにかかっているとさえおもうくらいです。
 
生活のために、残業をしなければならないし、労働運動のために飛び回らなければならない労働者が、ねむい目をこすりながら、崩れそうになる意志にむちうちながら、机の前に座るということは、たいへんなことです。
 
たしかに労働者は科学の光を熱情的に求めているし、その要求が彼の勉強をささえてくれるにはちがいありませんが、労働者には、本を読みなれていないという弱点もなくはありません。
 
私は、ひたむきな熱情をもって勉強をはじめた労働者が途中で根気をなくして、勉強をいいかげんにしてしまった例も、いくつか知らないわけではないのです。そういうことをあたまにおいて、勉強をつづけてゆく上で、参考になりそうなことを書いておきましょう。
 
(1)勉強はつらいものだ、つらいところをのりこえなくてはものにならない、ということをまず覚悟することにしましょう。一人前の旋盤工になろうとすれば、まずハンマーやヤスリの基礎訓練で手にまめをつくらなければならないことは、だれでも知っていることです。
 
同じように、一人前の見識をそなえた労働者になろうとすれは、どこかで手にまめをつくるような苦労をさけるわけにはいきません。
 
(2)知識というものは、一度に詰めこんで、それで万事解決というような性質のものではありません。私たちは、生活体験をつみかさね、事実についての知識を蓄積し、それらの体験や事実を系統だてる理論を学ぶようにしなければなりません。その意味では、勉強は死ぬまでつづく一生の仕事です。
 
 このことは、本の読み方についてもいえることです。ひとつの本の内容を一度にことごとく理解するなどということは、出来ることではありません。ところが経済学教科書の研究会などの様子をきいてみると、原始的共同体や古代社会などのところで、おたがいにひどくむずかしい質問や意見を出しあっているうちに、何が何だかわからなくなり、すっかりバカバカしくなって、まだ資本家も労働者もあらわれてこないうちに、研究会には誰も集まらなくなり、教科書は本棚におさまってほこりをかぶってしまう、という例が少なくないようです。これは皆さんにもいささか身におぼえがあることでしょう。
 
私たちは、何のために勉強するのか、ということをつねに忘れないようにして、教科書全体をよみ、教科書があたえてくれる思想の武器を、一どきにでなく、次第に深く理解し、実際に適用することをおぼえるようにすべきだとおもいます。
 
(3)勉強をすすめる上で、何よりも大事なことは、自分で読み、自分で考えるということです。ゴーリキイが、映画は観客が努力しないでも、すっかりお膳だてをそろえて観客の目に映るものだから、人間の積極性を刺激しない、という意味のことを言ったことがあります。これはいくらか一両的なようでほあるが、やはり鋭い指摘だといわないわけにはいきません。
 
 私たちは、むろん勉強をすすめる上でも、集団主義的な方法が有効だということを理解しています。それは、単に人のふり見てわがふりなおせ、というようなことだけではなく、われわれの学習は、労働者階級という偉大な集団の中で、この偉大な集団の目的にしたがっておこなわれるものだからです。
 
 しかしそれにしても、勉強の基礎は、あくまでも自分でじっくり本をよみ、自分で深く考えることです。それなしに集団のなかでおしゃべりばかりしていたのでは、ほら吹きは生まれるかもしれませんが、見識のある現代労働者は生まれないでしょう。
 
(4)さいごに、私たちの学習は、あくまでも、真理にたいし、人質の歴史的発展にたいし、けんきょでなくてはならぬ、ということを銘記することにしましょう。
 
 「われわれが共産主義的な結論だけにかぎってよい、共産主義的スローガンだけを暗記すればよい、ということにはならない。これでは共産主義はつくりだせない。
 人類がつくりだしたすべての富にかんする知識で自分の頭脳をゆたかにするときに、はじめて共産主義者となることができる。」
 
 これは一九二〇年にレーニンがロシアの共産青年同盟員に語った言葉です。(講座『社会科学の基礎』第一巻、一九六三年)
(堀江正規著作集 第6巻 p30-32)
 
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 レーニンの頭脳のはたらきはおどろくほど非凡であり、無駄なく合理的、集中的に、外部の自然や社会にむけられているが、これもまた、「意識ある類的存在」(マルクス)としての人間が、生産活動や社会活動のなかで、頭脳のはたらきによって、自然現象や社会現象のなかにある本質的なもの、法則的なものを把捉し、
 
それにもとづいて次第に生産活動や社会活動を意識的に制御できるものになり、そのことによって頭脳のはたらきをさらに鋭いものにしてきた、そのような人類一般の頭脳的な発達の頂点のひとつとしてのみ非凡なのである。
 
 そして、そのことがもしそうだとすれば、われわれは次のようにいうことができるだろう。レーニンも彼の先人たちから学んだのだから、われわれもまたレーニンから学ぶことができるということがそのひとつである。
 
そして、もしわれわれがレーニソの自然や社会に対する認識方法、認識の諸結果を学ぶことにより、自然現象や社会現象をより本質的に把捉し、より意識的、能動的に、
 
つまり、それらにたいしてより自由にはたらきかける可能性をもつようになれば、われわれもわれわれなりに、事物にたいする生き生きとした関心をもつことができるようになり、適当な自己規制に耐えうる意志の力をもそだてることができるだろう、ということ、これがそのふたつである。
 
 ではさいごに、例証として、レーニンがいかに彼の先人から学んだかを示すことにしよう。
 レーニンは、生前のマルクスに会ったことはなかったが、本の中のマルクスには、事あるごとに相談をもちかけたといわれている。そういう事例はおそらく無数にあるとおもうが、次にひとつの例をかかげてみる。
 
 「絶えず膨張しながら資本主義的生産過程そのものの機構によって訓練され結合され組織される労働者階級の反抗もまた増大してゆく」(『資本論』第一巻、第二四章、第七節)
 
 「大規模な資本主義によってつくり出され、組織され、結集され、教育され、啓蒙され、きたえられた、特定の歴史的階級」「この階級とは、プロレタリアートである。」(『レーニン全集』第二九巻「偉大な創意」)
 
 ひと日でわかることは、この二つの文章が瓜二つというほどよく似ていることである。レーニンは、そのことをいってはいないが、──これは学術論文ではなく政治論文だから、そういう必要を感じなかったのだろう──レーニソが、前出のマルクスの「資本主義的蓄積の歴史的傾向」にかんする理論から学び、それを基礎にして、労働者階級の世界史的役割にかんする完成した理論的な規定を導きだしていることはあきらかである。これがレーニンの「まねび」だと私は考える。
 
そうだとすれば、われわれのような平凡な人間も、レーニンと事あるごとに相談することができ、学ぶことができ、それを新しい現実の上に適用して、いっそう展開された具体的な規定に到達することさえできるだろう。(『勤労者通信大学・月報』一九七〇年二・三月号)
(堀江正規著作集 第6巻 p45-46)
 
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マルクス
個々の問題について暫定中央評議会代議員への指示(1866.9.3)
 
 労働組合。その過去、現在、未来
 
(a)その過去。
 資本は集積された社会的な力であるのに、労働者が処理できるのは、自分の労働力だけである。したがって、資本と労働のあいだの契約は、けっして公正な条件にもとづいて結ばれることはありえない。それは、一方の側に物質的生活手段と労働手段の所有があり、反対の側に生きた生産力がある一社会の立場からみてさえ、公正ではありえない。労働者のもつ唯一の社会的な力は、その人数である。しかし、人数の力は不団結によって挫かれる。労働者の不団結は、労働者自身のあいだの避けられない競争によって生みだされ、長く維持される。
(p172)
(「マルクス・エンゲルス8巻選集」大月書店 第4巻 p60-61)
 
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マルクス
国際労働者協会創立宣言(1864.9.28)
 
 成功の一つの要素を労働者はもちあわせている──人数である。だが、人数は、団結によって結合され、知識によってみちびかれる場合にだけ、ものをいう。
 
さまざまな国の労働者は兄弟のきずなで結ばれ、このきずなに励まされて、彼らのあらゆる解放闘争でしっかりと支持しあわなければならないのであって、この兄弟のきずなを無視するときには、彼らのはらはらな努力は共通の挫折という懲らしめをうけることは、過去の経験が示すところである。
 
一八六四年九月二八日、セント・マーティンズ・ホールの公開集会に集まった諸国の労働者は、この思想にうながされて、ここに国際協会を創立した。
(「マルクス・エンゲルス8巻選集」大月書店 第4巻 p60-61)
 
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◎労働学校の募集が本格的に始まっています。そこで学ぶとは≠ヌういうことであるのかを考えてみました。これまでの通信でも上げていますが真似び≠ニいうことは、学ぶことにおいての最も基本的な姿勢なんですね。一足飛びに新しい創造、自分らしさはでてこないのです。
 
◎集団学習≠ニ独習≠フ問題、基本は独習≠ナす。講師や運営委員の「不十分さ」をなじる生徒もいますが、自分の問題意識こそ見直さなければなりません。恥ずかしいことです。
 
◎エンゲルスの「イギリスにおける労働者階級の状態 ──大ブリテンの労働者階級へ」に次のような文章があります。
 
──そして私はそうしたのである。私は中流階級の会合や宴会、ポートワインやシャンパンを見捨てて、ひまな時間をほとんどすべて、ふつうの労働者との交際にふりむけた。
 
私はそうしたことを喜び、かつ誇りに思っている。喜んでいるのは、このようにして私が生活の実態についての知識をえるのに多くの幸せな時間をすごすことができたからであり──もしそうでなければこの時間はくだらないおしゃべりや退屈な儀礼のために浪費されたであろう──、
 
誇りに思っているのは、このようにして私が、どんなに欠陥があろうと、どんなに不利な状況におかれていようと、イギリスの金貸し以外のすべての人の尊敬のまととなっている、抑圧され中傷されている階級の人びとを正当にあつかう機会をもったからであり、
 
また、諸君を支配している中流階級の残忍なほど利己的な政策やその行動全般の必然的結果として、大陸でますます軽蔑されるようになってきているイギリス国民を、その軽蔑から救いだす立場に私がおかれたからである。
まぎれもなく、私たちも日本の労働者階級の一員なのです。
労働学校へ労働者を%ュきかけを一段と強めよう。