学習情報030904
◎「けど、どうせ決まっちゃったことはしょうがないんだし、どうせ僕たちにできることなんか何もないよ」
 
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右肩下がりの時代
 
 収入が上がらない
 
 近ごろの私は、以前に比べればちょっと元気がないと思う。
 なぜ元気がないのか、自分でもわかっている。以前に比べて収入が減っているからだ。収入が減れば、当然、「支出してやろう」と思える金額も減ってくる。そのため、「金がないのは首がないのと同じ」こんなレトロな言い回しが思い浮かんできたりもするのである。
 
とはいえ、私のような自由業者は、「収入が減った理由=自分の力不足」だとして、納得することもできる。理由が納得できる分、「へこんだ気分」も多少ましになる。へこんでいる暇があれば、収入が増えるよう努力をしろ、ということだ。
 
 が、一般的な勤め人の場合、正社員であるか否かにかかわらず、「なぜ収入が減ったのか」、納得できる理由を見つけることは難しい。せいぜい、「叔入が減っているのはうちの会社だけではない、皆そうなんだ」と思うことで、気を紛らわせることができる程度だ。
 
 そう、またしても、「皆が○○だから……」、である。そう考えることによってのみ、いまどきの日本人は、なんとか平静を保っていられるのだ。こうなってくると、これはもう、日本人の心のよりどころ的な思想と言わざるを得ないだろう。
 と、思っていたら、こんなとんでもない記述を見てしまった。
 
 25〜34歳世代は、人口減少世代でかつ教育水準が高く労働の質が高いにもかかわらず、彼らの所得停滞が続き世代間の所得格差が拡大した原因は、1975年から95年までの20年間、中年期の賃金は引き上げられたのに反して若年賃金は据え置かれたことだった。年功賃金制が「中年層に厚く若年層に薄い賃金構造」を生んだのである。それは、日本の労働市場がいかに柔軟性にかけていたかという証左であると稲葉はいう。(官本みち子『若者が《社会的弱者》に転落する』洋泉社)
 
 これは要するに、ぶっちゃけていえば、「団塊の世代のせいでくびれの世代は給料を上げてもらえませんでした、残念でしたね」ということである。マジかよっ?
 
 はたして、解決策はあるのだろうか。
「今までよりも少ない支出範囲内で暮らせるように生き方を変える」
 なるほど、これが一番手っ取り早い解決策でほあるのだろう。だが、今のまま手をこまねいていれば、医療費の自己負担割合や、消費税率等、「いやでも払わなければならない金」の絶対額を左右するものが、どんどん上昇していってしまうはずである。
 
 年金も危ない
 
 しかも、いざ年金をもらう段になったとしても、手もとに「返ってくる」額は、団塊の世代が手にする額よりもはるかに少ない。いや、というよりも、「(払った金がやがては)返ってくる」という発想自体をもうやめてくれ、というのが厚生労働省の言い分なわけである。
 
「だって、そもそも数が多い団塊の世代が老人になるんだもん、仕方ないじゃん」、というわけだ。
 
だったら、次に数の多い団塊ジュニアから取るようにすればいいじゃん、とくびれの世代としては思うのだが、なぜか、「負担が重くなる変わり目(=55歳の時から保険料20%の最大負担をさせられ、支給開始は65歳からに繰り下げられ、給付額は52%に下げられる)」にあたるのは「1967年生まれ=くびれの世代」の人間なのである。
 
 第1章の中で私は、
<今、この本を手に取っている人の中で、現在の生活に対して、何の不満も不快感も感じていない、という人はあまりいないと思う。(今、書いていて、勢いで「不安」という語句も入れそうになったが、「イヤ、それはこの本の主たる文脈とは違う」と思い、書かなかった。
 
「不満」「不快感」と「不安」とは違うのである。例を挙げてみれば、国保や税金に対して抱く思いが「不満」であり、年金に対して抱く思いが「不安」である、と言えよう)>
 こういった文章を書いた。
 
 あるいは、「序」の部分では、<「考えると怖い考えになってしまうから考えたくない」=「不安」>とも書いた。
 
 つまり、「年金=不安をもたらす要因」 なのであり、「なぜ若者は怒らなくなったのか=なぜ若者は、自身の抱える不平・不満をその当事者をはじめとする他者に向けて表現しなくなったのか」というこの本の主旨とはややずれる問題であるため、これまでの章では、あえて深入りはしなかったのである。が、「日本の将来」といったことについて考えようとするなら、「年金」についても、少しは触れておくべきだろう。
 
 なぜ年金は、人の「不安」にかかわる要素なのか。そもそも、なぜ人は「年金」を必要とするのか。
 
「いつまで生き続けてしまうのか、リタイア後何年分の生活費が必要なのか、働いている時には予想がつかないから(=何歳から先はない、とあらかじめわかっていたならば、そういった類の心配はしないですむ)」
 これが理由なわけである。
 
 つまり、「00円必要なのに、××円足りない」、こういった場合、人が心に抱くのが、「不平」や「不満」や「不快」なのである。
 他方、「そもそも最低00円必要なのかさえわからない、ゆえに、後××円足りないのかがわからないどころか、もしかしたら十分足りているのか、あるいは全然足りていないのか、まったく見当がつかない」、こんな状況に対して人が心に抱くのが、「不安」なのである。
 
 そして「年金」とは、そんな人びとの「不安」を軽減するためのシステムだった。が、今、そのシステムが、綻び始めている。将来の「不安」を軽減する、という本来の役割に対する信頼が揺らぎ始めただけでなく、「現在差し引かれる金額の多寡そのもの」に対しての(従来は、それほどあからさまに意識されることはなかった)「不平・不満」さえもが呼び覚まされつつある、という二重の意味で、日本の年金は危ういのである。
 
 こんな現実に対して、たとえ「くびれの世代」が、一致団結して大声を挙げたところで、もともとの数の少なさから勝ち目ほほとんどないのである。
 
 が、団塊ジュニアは違う。この「負担は重いが見返りは少ない」システムは、団塊ジュニアたちにも引き継がれるだろう、という状況にあるのだから、もともと数の多い彼らが反発してくれれば、少しは活路が見出せるかもしれないのだ。
 
 ところが、こんな状況について、
「決まっちゃったことはしょうがない」
私たちの世代よりも数の多い層が、こう言って、すべてを受け入れようとしているのである。「賃金構造」をどうにかするためには、会社の中で力を手に入れなければどうしようもない。
 
が、私たちの世代はもともとの数が少ないために、企業内での「閥」を作りにくいのである。ゆえに、企業内でどうこう、という次元での解決策の見通しほ暗い。しかし、では、どうすればいいのか。
 
 投票に行こう
 
 その答えを探るためには、「このままの状況が続けばやがて日本はどんな社会へとなっていくのか」をまずは予測し、その予測が望ましくないものであれば、「どうすればそうならないようにできるのか」、その対応策を考える、という方法が考えられる。いや、そういった、愚直な方法以外にもはや道はないだろう。
 
「やりたいことがやれる」、そんな社会を守るために、「やらなければならないことをやる」、そういう時期がきてしまったようである。
 
「けど、どうせ決まっちゃったことはしょうがないんだし、どうせ僕たちにできることなんか何もないよ」
 
 おそらくは、これが「近ごろの若いもん」の本音だろう。が、決してどうしようもないことはないのである。
 
 たとえば、八九年の参議院議員選挙、まさかと思われていた「山が動いた」のだ。でも、結局社会党なんてダメだったじゃん、という話はここではなしだ。私が言いたいことは、「一人一人が、自分自身の一票を投じたことによって、『動くはずがない』と思われていたものが 『動いた』という事実が過去にちゃんとある」、ということである。
 
 実際、あの時の選挙は燃えていた。まだ結果がわかる前から、「今度の選挙はいつもの選挙とは違うぞ」という空気が漂っていた。その後のことを思うと、「あれは一体なんだったんだ」という気分になってしまうのも、わからないわけではない。
 
が、一人一人が「変えたい」と思い、「変えることができた」、そのことについては忘れてはいけないと思う。そして、なぜそんなことができたのか、その理由を考えた時に思い浮かぶ答えとは、「いつもは『どっちでもいい』と考え、投票しなかった人たちも、あの時は投票したから」、ということなのだ。
 
 多くの人たちが行動すべき時に行動すれば、「変えたい」と思うことは「変える」ことができるのであり、決して、「決まっちゃったことはしょうがない」わけではないのである。
(荷宮和子著「若者はなぜ怒こらなくなったのか」中公新書クラレ p177-184)
 
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 イギリスの労働者が、このような状態にあってはとうてい自分を幸福だと感じることはできないこと、また彼らの状態が、一人の人間なり、あるいは一個の人間階級全体なりが人間的に考え、感じ、生きることのできるようなしろものでないことは、たとえ私が一つ一つの場合について証明しなかったことが多かったとしても、だれでも認めてくれるであろう。
 
したがって労働者は、人間をけだものにするこのような状態からぬけだし、もっとりっぱな、もっと人間らしい地位を、自分でつくりだすように努力しなければならない。
 
そして労働者は、まさに自分たちを搾取することを本質としているブルジョアジーそのものの利益とたたかわなければ、これを実行することはできない。
 
しかしブルジョアジーは、その所有と自分の意のままになる国家権力をつうじて発揮できるいっさいの力を駆使して自分の利益をまもっている。労働者が、現在の事態からぬけだそうとするやいなや、ブルジョアは労働者の公然の敵となる。
 
 ところが労働者は、そればかりでなく、ブルジョアジーが自分たちをまるで物のように、彼らの財産でもあるかのように取り扱うことに、しよつちゅう気がつく。そして、そのためだけでも労働者は、ブルジョアジーの敵としてあらわれる。
 
現在の事情のもとでは、労働者は、ただブルジョアジーにたいする憎悪と反抗をつうじてしか、自分の人間性を救うことはできないということを、私はまえに、百もの実例で証明したし、またさらに、べつの百もの実例をあげて証明することができたであろう。─略─
 
 われわれが見たように、労働者にとっては、自分の生活状態に全面的に反対するよりほかには、自分の人間性を実証するための活動分野がなに一つ残されていないとすれば、労働者は、まさにこうした反対をしているときこそ、もっとも愛すべき、もっともけだかい、もっとも人間的なものとしてあらわれるにちがいないことは、いうまでもない。
 
われわれは、労働者のあらゆる力、あらゆる活動がこの一点にむけられているということ、またそのほかの人間的な教養を習得しようとする努力でさえも、すべてこの一点と直接関係している、ということを、あとで見るであろう。もちろんわれわれは、いくつかの暴行や、蛮行についてさえ報告しなければならないであろう。
 
だが、イギリスでは、社会戦争が公然とおこなわれているということ、そしてこの戦争を、平和の仮面や、博愛の仮面さえつけて偽善的におこなうことが、ブルジョアジーの利益であるとするならば、労働者にとっては、真実の関係を暴露し、この偽善を粉粋することだけしか役にたつことができないということ、
 
したがって、ブルジョアジーとその召使とにたいする労働者のきわめて暴力的な敵対行為でさえも、ブルジョアジーが、労働者にたいしてひそかに、ずるがしこくおこなっていることの公然たる、むきだしの表現にすぎないということを、いつも考慮に入れておかねばならない。
(マルクス・エンゲルス全集第2巻 「イギリスにおける労働者階級の状態」大月書店 p447-448)
 
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◎「けど、どうせ決まっちゃったことはしょうがないんだし、どうせ僕たちにできることなんか何もないよ」……こんな風に思っている青年労働者こそ、私たちの労働学校の対象です。「そんなことないよ。労働学校に来てみたら……」という呼びかけが求められています。
 
◎「労働者にとっては、自分の生活状態に全面的に反対するよりほかには、自分の人間性を実証するための活動分野がなに一つ残されていないとすれば、労働者は、まさにこうした反対をしているときこそ、もっとも愛すべき、もっともけだかい、もっとも人間的なものとしてあらわれるにちがいないことは、いうまでもない。」
 
◎すごい=@労働者の闘いのもっている歴史的な意義をつかんでください。