学習通信030905
◎わたしたちがわたしたちとは別のものがあることを学ぶのは、運動によってにほかならない。
 
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 子どもがありのままに幸せであるために
 
 早期教育や超早期教育を支持する母親たちが、生まれて間もない赤ちゃんに、外国語の音声が流れるビデオを見せているという話をよく聞きます。
 
 できるだけ早く、良い環境を作って学ばせようという考えには、あえて反対する者も少なく、世の親にはとても納得しやすいことであるだけに、このような育児・教育グッズがあっという間に家庭に入り込みました。「脳科学」の流行がそれにさらなる拍車をかけ、「育脳」や「脳にやさしい」などという言葉が、あちらこちらで聞かれるようになりました。
 
 私も、日本赤ちゃん学会を創設し、「育児に脳科学を」と主張した手前、大きな責任を感じています。しかし、真意は、「まだまだ育児や教育に直接的に役立つほどの成果を脳科学の分野は上げておらず、未解明のことばかりであるから、そのことをまず知ってほしい。
 
その上で、赤ちゃんの解明に脳科学を積極的に取り入れていくことが重要であり、脳科学者と教育、あるいは育児の現場との交流をもっと積極的にしたい」ということです。決して「脳科学者の言うことを鵜呑みにせよ」と言っているのではありません。なぜなら現実に、早期教育の有効性を支持するような証拠は、脳科学者からはほとんど示されていないといっても過言ではないからです。
 
 しかしそうはいっても、脳科学は着実に進歩していて、いくつかの新しい知見を提供してくれています。
 
 先に述べたように、「シナプスの過形成と刈り込み」での刈り込み不足もその一つで、無条件に取り入れられている早期教育に疑問を呈するもののように私には思えました。「無駄なシナプスをバランスよく削りながら成長する脳」というコンセプトは、何でもかんでも刺激すればするほど成長する、という従来の考え方に警鐘を鳴らすように思えたのです。
 
 たとえば障害児の訓練では、科学的な検証が少ない段階から早期訓練が取り入れられてしまったために、やがて早期訓練の見直しが言われるようになり、今ではその効果に疑問が投げかけられています。それだけでなく、障害を受容し、社会の中で共生することの重要性が叫ばれ始めています。
 
 赤ちゃんの早期教育が、何を目的になされているのかを考えたとき、「少しでも他の子どもより賢くなってほしい、すぐれた能力を発揮してほしい」というのではどんなものでしょうか。
 
 そうしたい親の気持ちをまったく理解できないわけではありません。しかし、人よりすぐれてほしい、能力がすぐれているほうが素晴らしいという競争主義的な考えは、「そうでない子はダメ」という、偏見や差別意識につながりかねません。また、障害をもったままでも幸せに暮らせる、あるいは暮らすべきだという、障害児(者)の社会的ノーマライゼーションという観点からみても、それには賛成できかねます。
 
 2002年、NHKで『奇跡の詩人』という番組が流され、言葉も発せらないほど重度の障害児が素晴らしい詩を書いている、と賛美されました。その後、真偽やその訓棟方法の是非について多くの意見がNHKによせられたと言います。
 
 しかし、私が思うには、重度の障害児が詩を書いたからといって、それを「奇跡」だとするその姿勢のほうが問題なのではないでしょうか。障害をもった子どもが訓練の結果で詩を書けた、だから素晴らしい、というのであれば、努力をしても詩も書けず、言葉も発することができない障害児は素晴らしくない、ということにもなりかねないからです。
 
 どんな障害をもった子どもでも、あるいはのんびりした子どもでも、ありのままに人生を幸せに送ることができれば、それこそが素晴らしいことであると私は思うのです。─略─(p124-126)
 
 上へ伸びる喜び、幅を広げる楽しみ
 
 改めて自らの人生を振り返ってみますと、反抗期の峠を越し、学校教育も終え、社会人として独り立ちした後、私たちはどのように「発達」してきたでしょうか。エネルギーに溢れる子どもたちと同じように、未来永劫に成長し続けてきたでしょうか。
 
 私の場合、大学を卒業してこの仕事を始め、いくつかの挫折を経験して、ある程度の方向性が見え始めたときに、ふと「ああ、俺の人生はこのくらいだな」と実感したことがありました。あきらめたというより、人生の道が見えてきた時期でした。同じように、多くの人が、ある程度の年齢に達した自分に限界を見たり、それを自覚する時期を迎えるのではないかと思います。
 
 たとえば子どもが何か新しい能力を身につけ、与えられた課題を次から次へと吸収していくことは、親にとって楽しみの一つです。しかし、無限に伸びることだけが発達ではないと思います。破竹の勢いで縦に伸びる発達が、ある程度のところへ達したとき(ある人は頭打ちと呼ぶかもしれませんが)、それを「楽しむ」ことが私たち人間にはできるわけです。
 
 前述したように、ヨーヨー・マの姉は、ヨーヨーと同じように音楽の早期教育を施され、結局挫折した苦い経験をもっています。そして今は、小児科医として立派な活動をしながらも、音楽による子どもの総合的な教育を目指す活動にも力を注いでいます。挫折しても立ち直り、自分で解決策を見いだした彼女のようなケースは決して珍しいものではありません。
 
 私も人生の先が見えたと実感したとき、それを悲観的なものとしてとらえるのではなく、それを満喫したいと思いました。高齢を迎えて社会の第一線を退いた人が老後を楽しむということは、むしろそういう価値観から生まれてくると思います。
 
 人間は上へ伸びる喜びと同時に、幅を広げる楽しみも知っています。ですから肝心なのは、子どもを「天才に育てる」ことではなく「幸せな人間に育てる」ことだと思うのです。
 
 ここで、私が本書で述べたかった新しい赤ちゃん観をもう一度まとめておきたいと思います。
 
@赤ちゃんは、自ら行動し、環境と相互作用する存在である。
H赤ちゃんの発達は、必ずしも右肩上がりではない。
C赤ちゃんも、一人の人間としてその存在を尊重すべきである。
(小西行郎著「赤ちゃんと脳科学」集英社新書 p174-176)
 
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 わたしたちがわたしたちとは別のものがあることを学ぶのは、運動によってにほかならない。
 
また、わたしたちが空間の観念を獲得するのは、わたしたち自身の運動によっでにほかならない。子どもが、すぐそばにあるものでも、百歩さきにあるものでも、差別なしに手をだして、それをつかもうとするのは、空間の観念をもたないからだ。
 
子どもがそういうことをするのは、支配欲のしるしのようにみえる。物にこっちへこいと命じたり、人にそれをもってくるように命じたりする、命令のようにみえる。
 
しかし、それは全然ちがう。それはただ、子どもがまず頭脳において見、ついで目で見る物体が、いま手の先に見え、そして子どもには、手の届くかぎりの空間しか考えられないからだ。
 
だから、ときどき子どもを動かしてやるようにするがいい。一つの場所から他の場所へ移動させ、場所の変化を感じさせ、距離について考えることを学ばせるがいい。
 
距離ということがわかるようになったら、そのときは方法を変えなければならない。そしてあわたがたの好きなようにだけ子どもを動かすがいい。子どもが望むように動かしてはいけない。子どもが感覚によってあざむかれないよになると、その努力の原因が変わってくるからだ。
 
この変化は注目にあたいするもので、説明を必要とする。
 
 欲求をみたすために他人の助けが必要なばあい、その欲求から生じる不快の念はいろいろなしるしで表現される。そこで、子どもは叫ぶ、泣いてばかりいる。
 
それも当然のことだ。子どもの感覚はすべて感情的なものだから、それが快い感覚であるなら、子どもは黙って楽しんでいる。苦しいときは、子どもはその言語でそれを告げ、助けをもとめる。
 
ところで、目を覚ましているあいだは、子どもは無関心な状態でいることはほとんどない。子どもは眠っているか、それとも、なにかに刺激されている。
(ルソー著「エミール」岩波文庫 p75-76)
 
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◎@赤ちゃんは、自ら行動し、環境と相互作用する存在である。H赤ちゃんの発達は、必ずしも右肩上がりではない。C赤ちゃんも、一人の人間としてその存在を尊重すべきである。……私たち大人の事が言われている感じませんか。
 
◎頭で「成功するか……成功させなければ…………」と悩む前に実際に行動です。そのなかでこそ距離がわかる≠フです。自分の位置もわかるのだと思います。
 
◎労働学校に参加しようか、しまいか……。労働者のみなさんなら、9月2日の学習通信=u成功の一つの要素を労働者はもちあわせている──人数である。だが、人数は、団結によって結合され、知識によってみちびかれる場合にだけ、ものをいう。」と、マルクスは言っています。思い切って行動≠、よびかけます。再度読んで見て下さい。