学習通信030906
◎「エライ人が勝手に戦争しちゃうんだから、僕たちがガタガタ言ったって、どうせムダに決まっているでしょう」
 
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 「誰が言ったか、誰がやったか、誰のためにか」のみが重視される社会
 
 こんなことを考えているうちに、さらに思い浮かんだのが、『ゴーマニズム宣言』(小林よしのり)に描かれていたプロレス観戦時のエピソードである。
 
 指定された席に見知らぬおばさんが座っていたため、文句を言ったところ逆ギレされた。が、同じく、そのおばさんの仲間に席を横取りされた若い女性たちは、「いいんです、私たちは」と、強く抗議をすることなく引き下がった。そんな彼女たちの振る舞いを、小林は、「偉いー!」と褒め称えているわけだが、それを読んで私は、「おいおい、ちょっと待てよ」、になってしまったのである。
 
 それって「偉い」か?
 私は「偉い」とは思わない。なぜ「偉い」と思わないのかと言えば、こんな「前例=理不尽な目に遭った時でも我慢する人間は美しい」を作られては後に続く人間が迷惑する、そう考えているからだ。
 
 しかし、日本の社会では、たとえ理不尽な目に遭ったとしても「いちいち文句を言うなんて見苦しい」「じっと我慢する姿こそ美しい」といった価値観こそが賛美されてきた。小林の漫画は、そんな「日本の常識」を屈託なく描いてみせただけ、ではある。
 
 小林が描いたようなこういった事例について読み解く時、今までの私は、「男はいつも女にこういった立居振舞を要求する、けしからんっ!」といった文脈で語ることが多かった。
 
小林が「男尊女卑」思想の持ち主であることに間違いはないので、これはこれで的外れな怒り方ではないわけだが、しかし、「近ごろの若いもん」について考えるようになった今、「いや、もはや事態は、男だからとか女だからとかで説明できる状況を過ぎてしまったのでは……」といった気分になってきている。
 
すなわち、「理不尽を我慢して、怒るべき時にも怒らない人間」こそが、今の日本で大声でわめきたがる輩の求めている人間像(小林はその筆頭だろう)であり、「近ごろの若いもん」は、まんまその要求を受け入れてしまっているのではないのか、と。
 
 「でも、今の世の中で実際に力を持っている人たちが望んでいるのはそういう人間なんだろうし、どうせ自分はそういう人にはなれないんだから、強い人に嫌われないようにしながら生きていくぼうが気が楽だ」
 
 男であれ女であれ、「近ごろの若いもん」は、そんなふうに考えている層が大半のように思われる。
 
「どんなふうに生きようと個人個人の勝手でしょ」
 こんなふうにも言われるかもしれない。
 が、それは違う。なぜ違うのかと言えは、「理不尽を我慢して、怒るべき時にも怒らないという生き方を選ぶこと」によってむたらされる結果は、社会全体に影響を与えるに違いないため、決して「個人」の問題にはとどまらない、と言えるからである。
 
 私が働き始めた頃は、(たとえ女のほうが職種が上だったとしても)「女は男よりも早く来て職場の掃除をする」一女は男のためにお茶を入れたりコピーを入れたり灰皿を洗ったりする」という状況が当たり前の時代だった。
 
そのため、まず私たちがしなければならなかったこととは、「女は○○すべし」という前例を破ること、だった。より上の世代の女の人たちが、そういった前例を作った背景には、「そうしなければ女はそもそも職場に存在させてもらえない」という状況があったからであり、それらの前例は「必要悪」だったわけだが、そういった事情が十分わかっていたとしても、後に続く私たちにとっては、やはり「迷惑」な慣習だったのである。
 
 前例を破る、という行為は、なかなかエネルギーのいる行為である。実は私も、最初の就職先では、前述の悪弊に依ってしまい、状況を後退させてしまったことがある。そのことは今でも後悔している。そのためその後は、「前例を破る」ことにも、ちゃんとエネルギーを割くようになった。程とえ余計なエネルギーを使う羽目になろうとも、「とにかく、この前例は破らなければ」という思いがある時には、私たち「くびれの世代」はこれらの前例を壊していくよう努めてきたのである。
(荷宮和子著「若者はなぜ怒らなくなったのか」中公新書 p131-134)
 
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子どもの未来を奪うな
 
 子どもというものは、生命力に満ちているし、その可能性は無限です。ただし、緑豊かな美しい地球あればこそ、の話です。
 
 地球上はとりあえず生物や人間であふれていますが、宇宙から見たら、太陽系だけに限ってみても、この地球という星に満ちている生命は貴重な存在です。その星の上で、寿命が延びたとはいうものの、たかだか百年にも満たない人間の命 −。そして、やっとこれから伸びようとする初々しい子どもの命を、こんなに粗雑に扱っていいとは思えません。
 
 ぼくたち大人はまだいい。しかし、いちばん悲惨なのは、なんといっても子どもたちです。彼らは大人よりもいつでも被害は甚大。
 
 生体濃縮反応といって、放射能も薬害も、水俣病の有機水銀と同じように大人よりダメージが深い。同じ地域で同じ食物を摂取すると、親は、いたいけな我が子のほうが自分より先に苦しみ死んでいく姿を、見ることになりかねないということなのです。それは親にとって、地獄の悲しみにも等しいものです。
 
「核戦争が起きようが、食品汚染で苦しもうが、みんないっしょならいい」という人がいるけれど、とんでもないこと。みんないっしょになんか死ねない。いちばん小さいもの、胎児、赤ん坊、子どもから滅んでいくことになるのです。そんなことにだけはしたくない。なんとしてでも、この世界を、この地球を、未来へとつなげていかねばならないと思います。
 
 ぼくには何の力もないから、ただマンガでこんなことをメッセージしつづけてきたのです。ぼくは、大人の目から見たらわかりきったことのように思われようが、いちばん大事だと感じるものをメッセージしつづけてきたつもりです。
 
 アトムも人間の中にあっては、差別される子″なのであって、ふつうの子≠ナはありません。けれども、信念を持って行動し、決してあきらめたりしない。ときには、どう考えても勝ち目のなさそうな相手にも、ぶつかっていく子として描いています。これはもちろんマンガの上でのことですが、本来、子どもというものにはそんなエネルギーがあるのではないでしょうか。いや、そうあってほしいというぼくの願いでもあります。
 
 でも悲しいことに、現在の中学生などに二十一世紀や未来のことをどう思うか尋ねてみると、ほぼ半数の子どもたちは、驚くほど虚無的な考えを持っていることがわかります。
 
「食糧難で餓死する人がたくさんいたり、食物を奪い合って、殺し合いが起こる」「核戦争で人類滅亡だよ」「きっと大地震が起こって壊滅する」「放射能に世界中が汚染されると思う」こんな具合です。
 
 同様の不安はぼく自身のなかにも確かにあるし、前述したように事実、全地球規模で危機感は増大しているにはちがいありません。さらに、テレビやSF映画、マンガが、子どもたちの不安感に拍車をかけているのかもしれませんが、未来人として21世紀の担い手になるべき子どもたちの未来像をおおう、この絶望感はどうでしょう。
 
 子どもたちの明るく輝く未来は、いったいどこへ行ってしまったのでしょう。
 こんなさびしいところへ子どもたちを追いつめてしまったのは、ほかならぬぼくら大人なのです。
 
 むろん、世界の現実はきびしい。いまの子どもたちや若者は、生まれた時から、人類を7回も滅亡させることのできる量の核兵器がすでに地球上に存在していたのです。
 
もう最初から自分たちに何の責任も関わりもないところで、無残な暴力が圧倒的にのしかかっていたわけです。とてもたまったものではないと思います。やる気を失くすのも無理からぬことです。
 
 けれど、むごい現実を見据えつつ、それでもなお、いかに不動に見える現実も、何とか変えていく力が人間にはあるのだ、ということを、どうしてもっと大人は子どもや若者に示してやることができないのでしょうか。
 
 「もし、戦争が起こったらどうする」
 という問いにも、半分以上の子どもたちが、
 「どうせ逃げられない戦争なら、しようがないから死ぬ」
「エライ人が勝手に戦争しちゃうんだから、僕たちがガタガタ言ったって、どうせムダに決まっているでしょう」
 なんて答えるのです。
 
 戦争にしろ何にしろ、自分たちを脅かすものに対して、積極的に乗り越えたり、防止したり、変革するなどという勇気ある発言は、めったに返ってこないのです。
 
 ほとんど、クタビレた大人たちの諦観と少しもちがわない答えばかり。ただひたすら、一見、平和な体制社会の中で、日々を安楽に生き延びるのみの処世術が大人ばかりか子どもの内面にまで根を下ろしてしまいました。
 
 たとえ、どんな状況にあっても、明日へ夢につなげていくための活力や理想を育むことがわれわれ大人の責任ではないでしょうか。
(手塚治虫著「ガラスの地球を救え」知恵の森文庫 p31-35)
 
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 目的を達した宣治にとって長居は無用だった。自分には正確にわからない相対性原理の話や、教授の余技のピアノを聴くよりは、さっさと辞去した方が気がらくだった。が、今度は逆に、教授の方が彼を引留めて、平和運動に関する日本の知識層の態度はどうか、と質問した。それは必ずしも予期せぬ質問ではなかった。宣治はニヤリと笑った。序文をもらったからには、このさいアケスケに日頃の感想をのべても差支えなかろうと、とっさに考えたのだ。
 
 「日本の知識層の個人は、だいたい一人々々についていえば平和運動に理解や同情をもち、徹底した軍縮要求を歓迎し、のぞんでいます。ただし、彼らの一人々々がそういう希望や考えをもっているにしても、その一人々々が安全第一に、それぞれのサザエの殻にとじこもっているだけのことで、生命がけで信念を守ろうとする勇気と感激に欠けています。
 
ですから世界平和の実現のためには、団結力のない彼らに多くの期待をかけることはできません。私の考えでは、今もし他国と戦争を始めようとして日本の軍国主義者どもが鐘や太鼓の鳴物入りではやしたてたとき、憤然起って、こんな愚かな好戦騒ぎに反抗し、それを未然に防ぐだけの実力を将来そなえ得るのはーおそらく卑怯で怠けものの知識層よりは、むしろ実行力にとみ、自信をもっている労働者の団体だとおもいます」
 
 むろん、この最後の言は、宣治自身にとっても、ずいぶん思いきった言葉だった。だがこれこそ、あの十年前の幸徳事件や、米騒動や、最近のいろいろな社会の動きや、さらには彼自身の産児制限運動や読書などを通じて、ようやく辿りつきつつあった−まだ確固としたものではないにしてもー大事な結論でもあったのだ。
 
同時にそれは、いま彼が序文をもらったニコライの著作の、最後に近い一節の文句でもあったー
 
《平和と文化の事業が捲起らんとする徴候はふえている。ところがこの革命は、まず第−に有識者間に完成されるのではなく、世人がしばしば文化を有せざる者と侮蔑する下層社会において遂げられる徴候がふえている。愛にたいする深い憧憤の心が世界中に行きわたっている。
 
しかるに、この心は、その根を堅壕の中におろしたもので、富豪の家とは関係がない。心の貧しい者は再び神の国を求めている。しかし神学者の国を求めていない。……》
 
 宣治の、この歯に衣をきせぬ意外な一言には、場所柄もあって、さすがに同伴した徳太郎もいささか度胆をぬかれたが、案の定、アインシュタイン教授は、苦虫をかみつぶしたような渋面をつくって答えた。
 
 「私は、労働者団体が実際の政治に及ぼす影響を、君が予想するほど偉大ではあるまいと感じている。やはり知識層にたいする啓発・教育・宣伝の方が必要で先決問題だ。だがまあ国情を異にしている日本については、私は全然何も知らないから、断言することだけは遠慮しよう」
 
 これでは、まるで平行線だった。宣治は無言でうなずきながらも、内心では正反対のことを考えていた─そうではあるまい、すくなくとも日本のインテリに今必要なのは、この俺をもひっくるめて、ヴィジョンと感激と、それに伴う継続的突貫を試みる勇気なのだ。この俺にしたところで、書物の上では何度も《死線を超えて》いるのだ。それにもかかわらず生活そのものは、あいかわらず微温湯に浸りきりではないか。……
 
 やや白けたその場の空気をほぐすように、教授が言葉をつづけた。
 
 「日本の知識層のことは何ともわかりかねるが、私がこの国に来て久しくないうちにも、街や駅などで会った人々の印象をいうと、日本の民衆の感情はきわめて素直で、感情もこまやかだし、平和を愛しているようだね。まあだから君のいうとおり、この民衆を相手に平和主義を鼓吹するのは、あまり困難じゃないかもしれないね」
 
 「それはそうです。だいたい、どこの国でも民衆というものは素直で、情に厚く、平和を愛しています。しかし、いまの日本では、この民衆の政治的意見を表現する適当な方法がありませんから、民衆の平和的態度結局は何の効果もないわけです。
 
労働者が非戦主義を抱いているにしても、ドイツのような社会民主党すらないのですから、手の出しようがないのです」
 
 これが教授との最後の会話だった。やがて宣治と徳太郎は、都ホテルを出て、霜の仄白(ほのじろ)く光っている蹴上坂を、木枯らしに吹かれながら三条通の方へ下りて行った。
 
「掌は無意味−Sinnlosigkeit−狂気とでも訳すのかな、それとも無思慮かな。しかし、どっちにせよ俺はそうは思えないな。無意味や狂気を向こうに廻した平和運動──冗談やない。結局、教授の立場は第三者としてのインテリらしい高見の見物というやつだ。
 
しかしまあいい。あの序文をくっつけたら、本の売行きがふえるからな」暗い坂の途中で、宣治はこんなふうに自問自答しながら、靴先で小石を風とはしていた。
 
 だが、都ホテルで宣治が最後にのべた言葉には、知らないこととはいえ、一つの大きな聞達いがあった。なぜなら、彼自身、つい半年前にサンガー夫人に会ってから、今度のアインシュタイン教授に会うまでに、眼にみえぬ前進をつづけていたように、日本の労働階級もまた巨大な前進をとげていたのだ。
 
この年の七月─宣治も知らない《地下》で、社会民主党どころか、まさに日本共産党が結成されていたのである。
(西口克巳著「山宣」大阪山宣会 p165-169)
 
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◎「いちいち文句を言うなんて見苦しい」「じっと我慢する姿こそ美しい」……日常的に耳にします。どこにつながっていくのでしょうか。学習通信≠フ傾向からの推測ではなく貴方自身の経験と学習に基づく推測≠ニ確信≠ェ、いま重要だと思います。
 
◎「それを未然に防ぐだけの実力を将来そなえ得るのはーおそらく卑怯で怠けものの知識層よりは、むしろ実行力にとみ、自信をもっている労働者の団体だとおもいます」「いまの日本では、この民衆の政治的意見を表現する適当な方法がありませんから、民衆の平和的態度結局は何の効果もないわけです」と、山宣は言うのです。
 
◎労働者が学ぶこと……重要なんです。