学習通信030907
◎人間は一歩一歩と事実と現実の真の姿に接近していく……。
 
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 科学の怪しさ
 
 ここで勘違いされやすいのが、「科学」についての考え方です。「そうはいうけど、科学の世界なら絶対があるはずでしょう」と思われるかもしれません。
 
 実際、統計をとったわけではないのですが、科学者のおそらく九割近くは「事実は科学の中に存在する」と信じているのではないかと思います。一般の人となると、もっと科学を絶対的だと信じているかもしれません。しかし、そんなことはまったく無い。
 
 例えば、最近では地球温暖化の原因は炭酸ガスの増加だ、というのがあたかも「科学的事実」であるかのように言われています。この説を科学者はもちろん、官公庁も既に確定した事実のようにして、議論を進めている。ところが、これは単に一つの説に過ぎない。
 
 温暖化でいえば、事実として言えるのは、近年、地球の平均気温が年々上昇している、ということです。炭酸ガスの増加云々というのは、あくまでもこの温暖化の原因を説明する一つの推論に過ぎない。
 
 ちなみに、湿度が上昇していることも、それ自体は事実ですが、では昔からどんどん右肩上がりで上昇しているかというと確定は出来ないわけで、もしかすると現在は上下する波の中の上昇の部分にあたっているだけかもしれない。
 
 最近、私は林野庁と環境省の懇談会に出席しました。そこでは、日本が京都議定書を実行するにあたっての方策、予算を獲得して、林に手を入れていくこと等々が話し合われた。そこで出された答申の書き出しは、「CO2増加による地球温暖化によって次のようなことが起こる」となっていました。私は「これはCO2増加によると推測される≠ニいう風に書き直して下さい」と注文をつけた。するとたちまち官僚から反論があった。「国際会議で世界の科学者の八割が、炭酸ガスが原因だと認めています」と言う。しかし、科学は多数決ではないのです。
 
「あなたがそう考えることが私は心配だ」と私は言いました。おそらく、行政がこんなに大規模に一つの科学的推論を採用して、それに基づいて何かをする、というのはこれが初めてではないかと思う。その際に、後で実はその推論が間違っていたとなった時に、非常に問題が起こる可能性があるからです。
 
 特に官庁というのは、一度何かを採択するとそれを頑として変えない性質を持っているところです。だから簡単に「科学的推論」を真理だと決め付けてしまうのは怖い。「科学的事実」と「科学的推論」は別物です。温暖化でいえば、気温が上がっている、というところまでが科学的事実。
 
その原因が炭酸ガスだ、というのは科学的推論。複雑系の考え方でいけば、そもそもこんな単純な推論が可能なのかということにも疑問がある。しかし、この事実と推論とを混同している人が多い。厳密に言えば、「事実」ですら一つの解釈であることがあるのですが。
 
 科学には反証が必要
 
 ウィーンの科学哲学者カール・ポパーは「反証されえない理論は科学的理論ではない」と述べています。一般的に、これを「反証主義」と呼んでいます。
 
 例えば、ここにいかにも「科学的に」正しそうな理論があったとしても、それに合致するデータをいっぱい集めてくるだけでは意味が無い、ということです。「全ての白鳥は白い」ということを証明するために、たくさんの白鳥を発見しても意味は無い。「黒い白鳥は存在しないのか」という厳しい反証に晒されて、生き残るものこそが科学的理論だ、ということです。
 
 つまり、真に科学的である、というのは「理屈として説明出来るから」それが絶対的な真実であると考えることではなく、そこに反証されうる曖味さが残っていることを認める姿勢です。
 
 進化論を例にとれば、「自然選択説」の危ういところも、反証が出来ないところです。「生き残った者が適者だ」と言っても、反証のしようがない。「選択されなかった種」は既に存在していないのですから。
 いかに合理的な説明だとしても、それは結果に過ぎないわけで、実際に「生き残らなかった者」が環境に不適合だったかどうかの比較は出来ない。
 
 ポパーが最も良い例としてあげたのは、アインシュタインの特殊相対性理論についての反証でした。この理論が実験的に検証出来るかどうかを彼は考えた。「空間が曲がっている」というアインシュタインの説は正しいのかどうか。
 
 この検証として、具体的には日蝕の時に、星の位置を観測した人がいる。すると実際には太陽に隠れて見えないはずの星まで観測することが出来る。つまり光が曲がって伝わって来ている。それは空間が曲がっている、ということの証明になる。だから、とポパーはいいます。わずか一つのことに賭けられることの大きい理論ほど、よい理論である、と。
 
 確実なこととは何か
 
 このような物言いは誤解を生じやすく、「それじゃあ何も当てにならないじゃないか」と言う人が出てくる。しかし、それこそ乱暴な話で、まったく科学的ではない。
 
 そもそも私は「確実なことなんか何一つ無い」などとは言っていない。常に私たちは「確実なこと」を探しっづけているわけです。だからこそ疑ったり、検証したりしている。その過程を全部飛ばして「確実なことは無い」というのは言葉遊びのようなもので
す。
 
「確実なことは何も無いじゃないか」と言っている人だって、実際には今晩帰宅した時に、自分の家が消え去っているなんてことは夢にも思っていない。本当は火事で全焼している可能性だって無い訳ではないのですが。全ては蓋然性の問題に過ぎないのです。「もう何も信じられない」などと頭を抱えてしまう必要は無いのです。そういう不安定な状態から人は時にカルト宗教に走ったりもする。
 
 別に「全てが不確かだ。だから何も信じるな」と言っているわけではないのです。温暖化の理由が炭酸ガスである可能性は高い、と考えていてよい。毎日の天気予報では、「降水確率六〇%」という表現がされていて、それを普通に誰もが受け止めています。それと同じで、「八〇%の確率で炭酸ガスと思える」という結論を持てばよい。
 
 ただし、それは推測であって、真理ではない、ということが大切なのです。なぜこの点にこだわるかといえば、温暖化の問題の他にも、今後、行政に科学そのものが関っていくことが多くなる可能性がある。その時に科学を絶対的なものだという風に盲信すると危ない結果を招く危険性があるからです。
 
 付け加えれば、科学はイデオロギーでもありません。イデオロギーは常にその内部では一〇〇%ですが、科学がそうである必要はないのです。
(養老孟司著「バカの壁」新潮新書 p23-29)
 
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【ホパー】現代イギリスの哲学者,ロンドン大学教授・く批判的合理主義〉の旗を出している。ウィーンで生まれそだち,ヒトラーのオーストリア併合のころニュージーランドへ亡命し,戦後イギリスへ招かれた.ウィーソで論理実証主義の運動と接触していらい,一貫して,その主流とくにカールナブに代表される見解に反対しつづけている。科学の法則や理論は,感覚的経験からの帰納によってえられるのではなく,既存の一般的説明(原始的なものや思弁的なものもふくむ)の漸次的改善(仮説提起とその反乱つまり,試行錯誤法による)によって〈経験的内容〉ゆたかなものとなるのだ,というわけである。社会的実践や歴史にもつよい関心を寄せ,この点でも分析哲学者中の異色といえる。ファシズムに反対して民主主義と自由の擁護を力説するが,社会主義一共産主義をファシズムと同列に置く誤りのために,社会革命に反対して〈漸次的社会工学〉に固執する結果になっている。
(「哲学事典」青木書店 p446)
 
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真理の客観性
 
 このように考えてくると私たちは自分たち人間の認識能力をもう少し信頼してもいいのではないでしょうか。
 
 もちろん人間の認識能力を過信することは間違いのもとです。つねに現在の知識は不完全であることを自覚していなくてはならないでしょう。そうでないと、現在の知識を絶対に正しいなどと思いこむとそれはひとり合点の独断論(教条主義)になりかねません。ごの点は十分に警戒しっつ、しかし人間の認識能力を信頼していくべきではないでしょうか。
 
 そこでいま述べた「独断論」におちいるのは警戒しっつ、「人間の認識能力を信頼する」というのはどdっいうことか具体的に考えてみましょう。
 
 第一に、私たちはものごとを認識(研究)するとき、現在もっている知識を固定化せず、ものごとをありのままに見る(感覚する)必要があります。このありのままに見るということは、いうのは易しいが実際にはなかなか困難なことですが、少なくとも、ありのままに見る努力をする必要があります。
 
 そのためには第二に、あくまで事実や現実(客観的実在) を尊重し、この事実や現実の示すデータに従って私たちの知識を補い豊かにすることが必要です。この努力によって私たちの知識はさらに正確になり、私たちは真理により接近することになります。
 
このことは一度にあるいはたやすくできることではありません。先にも述べたように、感覚能力と思考力とを総動員して、うまずたゆまず努力する必要があるのはいうまでもありません。
 
 このような意味で努力するならば、私たち人間は一歩一歩と事実と現実の真の姿に接近していくことができるはずです。人間の認識史(科学史)の発展の経過がそのことを示してくれています。原始時代に不完全で表面的な知識しかもっていなかった人類は、長年かかって今日のような科学的知識や文明に到達しました。
 
今日の到達点はまだまだ不十分で、科学や技術の歪みも重大ですが、今後とも人類はそのような不完全さを乗り越えて進んでいくでしょう。また私たち自身がそのために少しでも力を合わせることも必要でしょう。
 
 このようにみてくると、先にみた不可知論者や論理実証主義者のように、人間の感覚は不完全だから真理は認識できないとか、真理といえるようなものは論理法則しかないというように悲観的になることは何もないといえると思います。私たちは、一度に完全に真理を認識することはできないけれども、事実とか現実とかこれまでいってきた客観的実在の世界があるわけですから、これをしっかりと標的にして感覚能力と思考力を総動員して努力するならば、客観的真理に到達できるといえます。
(鰺坂真著「哲学入門」学習の友社 p68-70)
 
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 先へ進もう。哲学がそういうものとしてはもう必要でなくなるとすれば、哲学の体系も、哲学の<自然的体系>でさえも、もう必要でなくなる。
 
自然事象の総体が一つの体系的連関のうちにあるという洞察にうながされて、科学は、この体系的連関を、個々についても全体としても、いたるところで立証しょうと努めることになる。
 
しかし、この連関を適切にあますところなく科学的に叙述するということ、われわれが住んでいる世界体系の精密な思想的模写をつくりあげるということは、われわれにとってもすべての時代にとっても、いつまでも不可能なままである。
 
もしかりに人類発展の或る時点で、もろもろの自然的・精神的・歴史的な世界連関を最終的に完結するそのような一体系ができあがったりしたら、人間的認識の世界は、それによって完結したことになり、将来の歴史的継続発展は、社会があの体系と合致してしつらえられたその瞬間から打ち切られることになってしまうであろう。そんなことは、ばかげたことであり、まったくの背理というものであろう。
 
人間は、こうして、〈一方では世界体系の総連関をあますところなく認識しようとするが、他方では、自分の本性からいっても世界体系の本性からいっても、この課題をいつになっても完全には解決できない>、という矛盾に直面させられることになる。
 
しかし、この矛盾は、世界と人間という二つの要因の本性のうちにあるという、ただそれだけのものではなく、いっさいの知的進歩のおもな梃子(てこ)であって、日々に、絶え間なく、人類の無限の進歩的発展のなかで解決されていくのである。
 
それは、たとえば数学の問題が無限級数や連分数で解かれるのと同じことである。実際には、世界体系のどの思想的模写も、客観的には歴史的状況で、主観的にはその模写をする人の肉体的・精神的状態で、制限されており、今後ともそうである。
 
ところが、デューリング氏は、自分の考えかたは主観主義的に制限された世界観念に走ろうとする気まぐれをすべて閉め出すものだ、とはじめから宣言する。さきほどわれわれは、氏が遍在的であることーありとあらゆる天体上にいることを知った。
 
いまわれわれは、氏が全知であることをも知るのである。氏は、科学の最後の諸課題を解決してしまい、こうして、すべての科学の将来を板でかこって釘づけにしてしまったのである。
(エンゲルス著「反デューリング論」新日本出版社 p55-56)
 
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◎説明がいらないのではないでしょうか。「バカの壁」バカ売れです。昨日のNHK教育テレビ-深夜- 2時間あまりの放送がありました。いわゆる原理主義批判です。客観的実在をしっかりととらえることを強調していました。注目してよいものだと思います。しかし、ポパーが紹介されたりしています。限界もとらえて……。
 
◎あなたも和製デューリング≠ノならないように学んでいきましょう。