学習通信030911
◎恐いとは言っておれないぞ。 爆弾を仕掛けられた。当たり前の話だ
 
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田中外務審議官自宅に不審物
石原都知事「当たり前」
 
 石原慎太郎東京都知事は十日午後の名古屋市内での街頭演説で、田中均外務審議官宅に不審物が置かれた事件について「爆弾を仕掛けられた。当たり前の話だと思う。いるかいないか分からないミスター]と交渉しているなどと言って、向こう(北朝鮮)の言いなりになっている」と述べた。テロ容認とも受け取れる発言だけに、波紋を広げそうだ。
 
 石原知事は「なぜ北朝鮮に経済制裁すると言わないのか」と小泉純一郎首相の外交姿勢も批判した。これに対し、同首相は同日夜、記者団に「(不審物を仕掛けたのは)どういう人物かわからないが、けしからんことだ。石原氏がなんて言ったのかわからないが、仕掛けられた方は悪くない。仕掛けた方が悪い」と語った。(日経新聞 030911)
 
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 *合流でたまることについて
 
 世間でいう「大人」って、「兵隊」みたいな意味だと思う。うん、大人はやっばり兵隊なんですよ。兵隊に近い人間は、「ああ、あの人、大人だね」っていう話になるわけですよ、結局ね。
 
 東京に出てきて、すっごい日本人って兵隊なんやって感じましたね、いまでも感じてるけど。
 たとえばですよ、車の運転って、けっこう人の性格が出るから、すごくわかりやすいと思うけど、東京の人は、信じられへんような運転してますよね。あれが、いわゆる
「大人」なのかなあ、と思いますね。
 
 たとえば、合流あるでしょ、合流。合流の始まりのとこで、ずら一つとたまっとんねん。そこは合流の始まりであって、少し行ったとこで合流したってええわけや。なのに、絶対、始まりのとこで合流しようとするから道がこむ。オレができるだけ遠くのとこで合流しようとすると、「なにー?」みたいな目で見られる。
 
 アホですよ。東京のヤツの運転は、なんでこんなにアホなんやろって、ずっと思ってたけど、最近、気づいたのは、多分違うね。東京の人間はきっとそうでもないと思う。東京に住んでるいなかもんが、東京に負けてんねん。
 
 なんか、ちゃんとせなあかんというか、そのちゃんとがずれてもーてんねんけど、それがちゃんとしてることやと思ってしまってるし、なんか東京で恥ずかしいことしたらいかんていうか、いなかもんやとばれたくないとか、いろんなそういう気持ちがどんどん合流でたまらしてると思う。
 
 合流でたまることが都会になじんでると勘違いして、たまってるオレは東京人で、東京人というのが大人で、カツコイー、スマート、みたいな。そういうバカな公式を作ってるよね。
 
 そう考えると、やっぱ大阪の人間は子供やけど、それはもちろんいい意味で、いい子供やと思う。バカな大人じゃない。
 
 今日でも、このスタジオ来るとき、ズラーツと車が並んでる。2車線あるのに、ほんまびっくりするくらい1車線になってんの。なんでこつちの車線使えへんのやろ。左に曲がるから左に寄ってるんやってことかもしれんけど、とりあえず曲がるまでにはだいぶあるんやから、いまはこつちの車線を使って、入れるときに左に入ったらええやんって思うねんけど、ズラーツと並んでる。
 
 こいつらアリやなあ、思ってね。こいつらもう、アリ。オレは、こいつらの1匹にはなりたないわ、と思って。
 
 こっちの人、ファミレス好きでしょ。なんでやろ。ほんま好きやなあ、と思ってねー、ファミレスねー、別にええねんけど。
 あれも兵隊的な感じするなあ。
 
 ファミレス入るために車並んでるときあるじゃないですか。考えられへん。ぁと、ベンツとビーエム多いでしょー。そんなにいいクラスじゃないよ。中途半端なクラス。多いよねー。ま、とりあえず、これ乗っといたら無難やろ、まあそんな恥ずかしないしって、それはすごい見える。
 
 多分、ファミレスもそうちゃうかな。まあまあ、ファミレス行っといたらええかって。
 そこが嫌いやねん。兵隊やねん。
(松本人志著「愛」朝日文庫 p19-22)
 
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 なんという悪い考え、なんという恐ろしいたくらみ、なんという憎むべき行いでしょうか。伊藤公を狙撃したのは朝鮮人ですが、こんどのはみんな日本人なのです。
 
 みなさん。まったくこれは悲しい、恐ろしい、憎むべき大事件です。天皇陛下に対し奉り、なんともおわびの申し上げようもない不祥事です。
 
 おそれおおいことですが、私たち六千万国民は、陛下を御父君と仰いでいます。陛下もまた私たち国民を、赤子としておいたわり下さるのです。こういう国柄は、世界に二つとはありません。
 
日清、日露のたたかいに、日本が大勝利を得ましたのも、この世界に二つとない国柄、つまり降下の御稜威のたまものであります。私たち国民は、いつでも陛下のおんために、いのちを捧げてたたかうことを名誉と心得、また本分と心得ています。
 
 この天皇陛下に爆弾を投げつけようなどというのは、まったく、きちがいのしわざでありまして、大日本帝国をくらやみにし、六千万国民を塗炭の苦しみに追いやるなどということは、天もゆるさぬところであります。
 では、その七人はきちがいだったのだろうか? 校長先生の言葉はむつかしくて、ところどころ意味の解せないふしもあったが、それでも校長先生のいうとおり、それがたいへんな出来事なのを孝二は了解した。なぜなら、それは天皇陛下に関する事件だからである。
 
 天皇陛下はかみさまである……と孝二たちは教えられている。神さまというのは、少しでもいやなことをされると、すぐに怒って、そのいやなことをした者にひどいばちをあてるのだ。神さまを祀(まつ)ったお宮が、どこもきれいで立派なのは、ばちがこわいからにきまっている。
 
天皇陛下の写真を、誰も通らぬ廊下の向うのご真影室″に祀っておくのも、それから写真の出し入れをする時、校長先生が特別立派な洋服を着て、真っ白い手袋をはめるのも、やはり天皇陛下のばちがこわいからだ。
 
このように、何かといえばばちをあてたがる神さま天皇に、爆裂弾など投げつけてはどんな大ばちがあたるか、孝二は想っただけでも寒くなる。
 
 だが、天皇陛下に爆裂弾を投げつけると、世の中がくらやみになると校長先生がいうのはほんとだろうか? もし爆裂弾にあたって、天皇陛下が伊藤博文公みたいに死ぬと、こんなにも頭からかんかん照りつけているお日さまが、すっと消えてなくなるのだろうか? 
 
しかし、天皇陛下がほんとに神さまなら、爆裂弾にあたっても死なないはずだ。それを、爆裂弾にあたると死ぬというのはおかしいではないか。
 
 孝二は、右、左の仲間をみた。みんな校長先生のはなしなど、上の空の顔つきをしている。そんなことより、友だちは一刻も早く教室に入りたがっているのだ。もうもう暑くて暑くてたまらないからだ。
 
 しかし校長先生のいわゆる〃陛下におわびの申し上げようもない不祥事≠フ報告はまだ終っていなかった。
 
「みなさん。さっきもいいましたように、その七人の悪者はつかまりました。そいつらの考えは、ほんとにきちがいです。そいつらは、なぜ爆裂弾を作って、天皇陛下に投げつけようとしたかといいますと、そいつらは、もうずっと前からこの世の中をたいそう不平に思っていまして、いつかおりがあったら世の中をひっくりかえそうとねらっていたのです。
 
そして、そうするには、日本の国の中心でいらせられる、太陽のような天皇陛下をなくすことが、一番早みちだと考えたの
です。
 
 そいつらは、日清戦争や日露戦争にも反対を唱えました。戦争は、悪いことだというのです。天皇陛下が、露国と戦えと詔(みことのり)を下していられるのに、それに反対するとはなんという不忠でありましょうか。」
 
 がーんと、孝二は何かにぶつかったような気がした。
 戦争は悪い! 戦争には反対だ!″
 
 そんなことを言った人が、この日本にいたなどと、孝二は今の今までゆめにもしらなかった。もしその人たちのいうように、みんなで戦争に反対したら、今ごろ日本はどうなっていたろうか。
 
それは孝二にはわからないが、ただ一つはっきりしているのは、日露戦争がなければ、バンコ頭のお父(と)ったんが、今も達者で生きていたろうということだ。そして、お父ったんが生きていれば、兄やんは大阪へ丁稚奉公に行かず、高等小学校に通えたかもしれないのである。
 
 孝二は田植がすむと、兄の誠太郎が大阪へ丁稚奉公に出ることに話がきまっているのを、もうとうから知っていたのだ。
 
 孝二は流れる汗を右手でふいた。そしてふいた手のひらを更にきものの脇にこすりつけた。
 
 「みなさん、その悪いやつらは戦争に反対したばかりではありません。まだもっと恐ろしいことを考えたのです。そして、それこそこの世の中をまっくらにするものです。そいつらは世の中から金持ちをなくそうとしました。金持ちから金を取り上げようとしました。
 
そいつらは、人間はみな平等だから、金も平等にしなければいかぬというのですが、しかし、それでは、誰もまじめに働かなくなり、世の中は強い者がちになってしまいます。この恐ろしい一味は無政府党というて、中心人物は幸徳秋水、名は伝次郎というのです。」
 
〃わかった≠ニ、孝二はからだの真ん中で叫んだ。むせいふとう″とは何のことか理解できなかったし、そのほかにもわからぬ言葉は沢山あったが、こうとくしゅうすい・名はでんじろう≠ネるその人が、何をしようとしたかということは、腹から背中へつきぬけるようにはっきりわかった。
 
 こうとくしゅうすい・名はでんじろうは、去年の春、下川村井野のお祖父やんの家で読んだ、〃私たちのお父さま≠ニいうおはなしの、あのお父さまと同じようなことをやろうとしたのだ。つまり親たちが働いても働いても貧乏で、食う物もない小森の子供に、腹一杯食うものをわけてくれようとしたのだ。
 
 それを校長先生はくりかえして悪いというが、そんなら今のように、小森は貧乏でエッタがいいというのだろうか。それから先生は、天皇陛下は国民の父君だというが、おはなしの中のお父さま≠ヘ、国中の人がしあわせにくらして行けるように骨を折ったからこそ私たちのお父さま≠ニよばれるようになったのだ。
 
ところが、天皇陛下は、こうとく・しゆうすいや、その仲間の人をつかまえさせたではないか。それは、ばちをあてるためにきまっている。
 
 自分の写真を誰かが手袋なしで持つと、もうそれだけでばちをあてる恐い人。そんな人はお父さま≠カゃなくて、やっぱりかみさまだ。かみさまというのは人にばちをあてるのが仕事やから‥…。
 
 くるくるくると足もとの地面が廻って見えた。そして、ふき出ていた汗が一ペんにかわいて、肩のあたりが冷たくなった。孝二は思わずしゃがみこんだ。
(住井すゑ著「橋のない川」新潮文庫(1) P06-309)
 
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ぼくは戦争を忘れない
 
 戦後四十余年が過ぎ、だんだん戦争の忌まわしさを伝える人間がいなくなりつつあります。
 
 当時の状況を体験として、つぶさに知っている人間は、若い人たち、子どもたちに戦争″のほんとうの姿を語り伝えていかなくては、また再び、きな臭いことになりそうだと、ぼくは不安を抱いています。
 
正義″の名のもとに、国家権力によって人々の上に振りおろされた凶刃を、ぼくの目の黒いうちに記録しておきたいと願って描いたのが『アドルフに告ぐ』なのです。
 
 人間狩り、大量虐殺、言論の弾圧という国家による暴力が、すべて正義≠ニしてまかり通っていた時代が現実にあったことが、いまの若者たちには、遠い昔の歴史ドラマでしかないかもしれません。でも、女も子どもも無残にあっけなく殺されていったのは、ついこの間の厳然たる事実なのです。
 
 ぼくたちは、この世の中が百八十度転換して、昨日までは黒≠セったものが、きょうは白≠ニ、国家によって簡単にすり香えられた現実を目のあたりにしている世代ですから、その恐怖をなんとしてでも伝えたかった。
 
 ぼく自身は、暗い昭和初期という時代の中でも、じつに恵まれた子ども時代を過ごしたと思います。けれども、それも青春期には空襲と窮乏生活によって、ほとんど失うことになってしまいました。
 
 小学校の時に日中戦争が始まり、中学に入るころ、太平洋戦争が始まりました。
 東京都では一九二八年から児童映画の日というのが設けられていました。文部省とか都が主催して、学校を巡回し、子どもたちに半強制的に映画を観せようというわけです。
 
 ぼくの住んでいた大阪でこれができた時は五十校が加盟し、八年後、ぼくが小学校に入学したころには五百校くらいに増える。さらに、ぼくが中学入学時には、五千校にまで増えました。非常に普及したわけです。
 
 講堂でばかりでなく、映画館にも教師が引率して見せに行くのです。「五人の斥候兵(せっこうへ)」とか「かくて神風は吹く」「肉弾三勇士」なんていうものもあって、戦意を高揚させるような映画ばかり。ベルリンオリンピックの映画も見せられました。
 
そんな映画の前に、国産の短編マンガが一本付くのです。太陽が出ていてその下をうさぎがピョンピョンはねていく、それだけの五分ほどのアニメの黎明期のものですが、こっちのほうが、ずっと楽しいのです。
 
 そこで、本編が始まるとトイレに行くからと言って、全然かえってこない生徒がずいぶんいたものでした。
 
 当時、そんなふうに戦意高揚のための映画教育を、文部省が率先してやり始めたということは、記憶にとどめておくべきだと思います。一九二五年にラジオ放送がJOAKとして初めてできてから、ほんの数年で学校放送≠ニいうものがラジオで全国放送されましたが、それ以前にもうすでに、学校巡回映画会が行われていたのです。
 
 いかに、視聴覚による子どもへの時局教育が重要視されていたかがわかるわけです。子どもに限らず、耳で聞くより目で見るイメージのほうが、何百倍も強烈です。
 
 アドルフ=ヒットラーのナチス教育のほとんどが、この映像教育でありました。とくに青少年のナチス組織、ヒットラー・ユーゲントを教育するのに、ふんだんに映画を使ったのです。
 
 こういう教育を施すプログラムを組んだのが、宣伝相でヒットラーの右腕と言われたゲッペルスです。
 
 彼はヒットラーの一挙手一投足まで全部演出し、一種のパフォーマンスのプログラムを作った。たとえば、ヒットラーが演説する時に、この言葉の時には胸に手を当てろとか、こういう時にはテーブルを叩けとか演出していたわけです。この男を中心にして、ナチスの映像教育は徹底的にやられていました。
 
 日本とドイツの共同映画製作もやって、ぼくも子どものころに見せられた覚えがあります。日本人までも、ドイツのナチス政策はこんなに素晴らしいんだと見せられたのです。
 
 日本の軍部、情報局関係は、子どもへの映像による教育が、どんなに効果的かをよく知っていたから、こういう政策をとったのだと思います。そうなるとぼくら子どもは、たまったものではない。一も二もなく戦争におぼれていかざるをえなかったのが、ぼくたちの世代です。
 
 ぼくが、アニメーション映画に力を注いできたのも、一つには、この軍国主義による映画の効用を逆手に取って、夢や希望に目を輝かすことのできる子どもたちに育ってもらいたいからなのです。
 
 ぼくの世代の子ども時代は、遊びまで戦争ごっこ≠ホかりでした。
 
 ぼくは体が弱かったので、おまえなんか兵隊になれん、というわけで、なんと従軍記者の役でした。それで、みんなが戦争ごっこをやっているところを誰それが弾に当たっただのとスケッチするのです。
 
そして後で、「ただいま、従軍記者が決死の覚悟で撮ってまいりましたフィルムをお見せします」と、スケッチしたもので紙芝居をしたりしていました。
 
 そうこうするうちに中学、高校となりますが、当時は学校などほとんど行かずに子どもたちは予科練や幼年学校に行かされました。さもなければ工場で労働者にまじって強制労働です。
 
 ぼくのように体力のない弱い子たちは国民体育訓練所という一種のラーゲリ(強制収容所)に入れられた。つまり、お国のために役立つ少年にするということで、一年間みっちり体力をつけるために、ぶちこまれたというわけです。ここは周りが二重に鉄条網に囲まれていて、入ったらもう出られません。
 
 ところが体力をつけるどころか、豆かすみたいな食べ物ばかりで、毎日朝から晩まで軍事訓練。とうとうぼくは耐えかねて、四カ月目に座ぶとん五枚で鉄条網をはさんで、くぐり抜け、家に逃げ帰ったのです。
 
 夜中にどんどん戸をたたいてやっと家に入ったぼくの顔を見たおふくろは、まあ、ぞつとした、とあとで言いました。青い顔をして幽霊のようにやせこけて、半分死んだような状態なので、誰だろうとよく見たら、ウチの息子だった、というわけです。
 
 その夜は、もう無我夢中で三食分くらいも食べさせてもらって、おふくろににぎりめしを作ってもらって、またこっそり訓練所に帰って、友達に食べさせたのです。そんな時代でした。
 
 しかし、それでも徹底的に軍国教育を叩きこまれていたぼくは日記に、
 
 「敵は量においては残念ながら我が国よりすぐれている。だが国民の力は我が国のほうが数千倍も強い。ゆえに、まず第一は敵、つまり人的資源を失わしめることである。殺して殺して殺しっくせば、物質的脅威なんぞ恐るるに足らんや」
 
 などと中学生で書いているのです。自らの愚を白日にさらすようなものですが、いかに教育がすさまじい力で子どもの柔らかい心身に食い込むかを、ぼくは若い人たちに知ってもらいたい。もう本当に食うや食わずの生活をしているにもかかわらず、こんなことを書いていたのです。
(手塚治虫著「ガラスの地球を救え」知恵の森文庫 p48-54)
 
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◎マスコミでは、911を特集しています。その矢先に石原発言です。恐い≠ニいう感情を通りこして、気概を燃やす必要があります。平和の担い手を増やすことに。
 
◎戦争とはどういうものか、どんなに深く入り込むものなのか……。
「橋のない川」の孝二の「そんな人はお父さま≠カゃなくて、やっぱりかみさまだ。かみさまというのは人にばちをあてるのが仕事やから‥…。」 言うこと無いですね。私たちもいま流行の原理主義におちいってはなりません。