学習通信030912
◎「だってあなたはもうしっかりしてるのだから」
 
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信頼し、見守ることの大切さ
 
 (2)の「信頼する、要求せず待つ」に該当するのは、43.44.45などである。どの親も子どもの行動・判断を尊重している。
 
 子どもの判断、価値観を大切にするということは、とりもなおさず、その子の友だち、服装、趣味、将来の希望などを親も大切に思い、親自身の判断や価値観を押しっけないということになる。
 
 親の目には必ずしも賛成できない友人、服装、志望校、キャリアプランなどであっても、見守る。言い換えれば、子どもを信頼してやり、待つ姿勢がこれらの親には見受けられる。親がいくら待っても子どもの意見や気持ちが変わらないことも当然あるであろう。それでも親は自分の考えを押しっけたり、性急に何かを聞き出そうとしても意味はない。
 
 娘が泣いていて、悩みを抱えていることを知った45ともえの母親の対応はすばらしい。「どうしたの、どうしたの」としつこく開かず、「話したくなったら話しに来なさい」と待つ。娘は母親が待っていてくれることを知っていて、それを「追及しないで待っててくれる」という表現で、感謝、喜び、満ち足りた気持ちを表している。
 
「追及しないで待つ」 のは子どもの自主性を重んじているからであり、彼らの気持ちを優先させることである。43と44は、ことのほか子どもを信用している親である。高いスニーカーを買ってきてしまったことが気になっている隆志は、母親の「もうそろそろお金の使い方ぐらい分かってると思うし」という言葉に安堵した。
 
文脈によっては、「もうそろそろお金の使い方ぐらい分かっていてもいいのに、何やってるの」というネガティブな意味あいで使われがちであるが、隆志の親は子どもへの信頼を示すことで、大きな励ましの言葉となった。子どもの判断を信用していること、そして「だってあなたはもうしっかりしてるのだから」という趣旨を親が口に出して子どもに伝えていることは、子どもにとって喜びであろう。
 
親は自分を見守っていてくれる、また、よいところを評価してくれていることを知ることによって安定した精神となり、自信に結びついていく傾向がある。
(河地和子著「自信力はどう育つか」朝日新聞 p66-68)
 
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不親切こそ真の親切
 
 自分の力不足、努力不足を棚にあげて「コーチが悪い」「教え方が悪い」と、責任を他人に転嫁する選手がプロ野球界には割と多いものだ。実力があがらん、チャンスがもらえん。思うように活躍できなければ収入も増えてこない。あせる気持ちが、なんでも人のせいにするのだろう。
 
 しかし、いくら他人や監督やコーチのせいにしても長くはもたない。要は自分がやるかやらぬか、いきつくところはその一点である。
 
 その一方でコーチはコーチで、いつでもどこでも、熱心に教えていないと選手や周囲から「あのコーチは一生懸命にやっていない、と思われるんじゃないか」と思って、教え魔といわれるようなコーチになっていったりする。学習の場でよくあるはき違えだが、プロ野球の世界はすぐにも結果をだしたい世界だから、こうしたことがよくあるものだ。
 
 最近では、コーチとしての能力よりも監督やフロント幹部との人間関係や情実などからコーチを選んでいくケースが多いので、コーチの人数も増え、それでいて教え方にも腰がすわっていない人が目立っている。ああでもない、こうでもないと教えて、成果がでてこないと、コーチのせいにする選手もよけいに出てきたりするものだ。
 
 結論からいうと、教えすぎるコーチはよくない──というのがわたしの考えである。
 
 教えないと人は育たないが、教えすぎても人は育たない。よいコーチがいれば技術は習得しやすいが、教えられる範囲とレベルは大体が平均値のもので、本物の技術、本当の力は、その人ならではの力量は自分自身でつかむものだからだ。教え方のうまいコーチに、手取り足取り教えられて育った選手は概してひ弱だ。自分のものが育ってこないのである。
 
 なんでもかんでも教えていくと、教わる方はなんでもかんでも習いさえすればいいので「自分」というものが動いてこない。教える力、教え方も大切だが、選手が本当に育つか育たないかは実のところ、その選手の素質とやる気にかかっているのが真相だ。だからわたしは、教え魔と呼ばれるコーチをよしとしない。
 
「教育の適量」というものはなかなかつかみ難いのだが、少なめに控えめにする方がよい。少しだけ、ポイントとなる点を教えて、あとは本人の考えやエ夫にまかせて、苦しんでいるとみたらまた少しだけアドバイスをして、本人にやらせていくコーチが本当の意味で良いコーチといえるのではないか。選手が自分で考え悩み、工夫してつくつていく気持ちにならなければ、内容は決して充実していかないものだ。
 
 不親切こそ親身の親切というが、大リーグでは野茂や佐々木の話を聞くまでもなく、選手の方から教えを乞わない限り、まず教えることはない。どんな投げ方、どんな打ち方をしていようが、大リーグのコーチたちはほうっておく。「3割バッターも15勝ピッチャーもつくるものではない。生まれるものだ」と考える国だが、こうしたわたしの考え方と大リーグ流のコーチ法は一致しているように思う。
 
 人から教えられるものはしょせん一部分であり、人から教えられるものはしょせん借り物でしかない。プロの技術は自分で苦心して身につけ、磨いていって初めて本物。自分でコーチ以上の技術を習得していくことが大事なのだから、教える、教わるばかりでは生徒で終って、プロとしては大成しないのである。
 
 コーチも選手もその周辺も、成果を急ぐとどうしても手取り足取り、促成栽培のような教え方になる。コーチ自身の信念によるのだが、監督や周囲がコーチのしりをたたくようなことがあると、一層教えすぎて、ある種の過保護になって、選手は理屈の多い頭でっかち、コーチや周囲の者に対して依頼心の強い、軟弱な選手になりがちだ。
 
 ハード・トレーニングは常に、トレーニングする者にとつてハードかというとそうではない時期がある。選手の伸び盛りの時だ。きびしいトレーニングによって目に見えてパワーや技術が増していく時は、はじめの頃きつかったハード・トレーニングでさえ少しもの足りなくなってくるものだ。こうした時は選手自体が自発的にトレーニングを受け入れはじめる。乾いた砂地に水が浸み込んでいくように、コーチのアドバイスも技術訓練もどんどん吸収されていく。段階を踏ませていって、このあたりの境地まで運んでいければコーチの役目はもう充分だろう。
 
 上達しなければ、それはコーチのせいで、教え方の問題だとしたりする。最近の子育てと同じで、便利で親切にすぎる恵まれた環境は必ずしもプラスにならない。それは往々にして逆にマイナスに働いて、人の成長や進歩の災いにもなる。いい人だ、いいコーチだ、熱心によく教えてくれるといわれて、先へ先へとていねいに教えすぎていくと、どうしても理論先行の形になって、結局突き放す勇気を失くしてしまう。最近のコーチのあり方の問題点である。
(川上哲治著「遺言」文春文庫 p102-105)
 
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 ものを言いはじめると子どもは泣くことが少なくなる。これは自然の進歩だ。一つの言語が他の言語に代わったわけだ。ことばをもちいて苦しいと言えるようになったら、なぜ泣き声をあげてそれを知らせる必要があろう。もっとも、苦痛があまりにも激しくて、ことばでは言いあらわせないばあいは別だ。
 
この時期になってもまだ子どもが泣いてばかりいるとしたら、それは子どもの周囲にいる人たちの罪だ。エミールは、ひとたび「痛い」と言えるようになったら、よほど激しい苦痛を感じないかぎり泣くようなことはあるまい。
 
 子どもが弱くて感じやすく、生まれつきなんでもないことにもすぐ泣くようだったとしても、その泣き声がなんの役にもたたず、なんの得にもならないようにすることによって、わたしはやがてその涙のもとをとめてしまう。子どもが泣いているあいだはわたしは子どものそはへ近よらない。泣きやんだらすぐにそばへ行ってやる。
 
やがて、かれがわたしを呼ぶ方法は、泣きやむか、それともせいぜい一皮だけ叫び声をあげることになるだろう。いろいろなしるしの目に見える効果によってこそ、子どもはそのしるしの意味を判断する。子どもにとってはそれ以外の約束はない。どんなに痛い目にあっても、子どもはひとりでいるときには、だれかに聞いてもらえるというあてがなければ、めったに泣くものではない。
 
 子どもがころんだり、頭にこぶをこしらえたり、鼻血をだしたり、指を切ったりしても、わたしはあわてて子どものそばにかけよるようなことはしないで、少なくともしばらくのあいだは、落ち着いていて体を動かさない。
 
災難は起こってしまったのだ。子どもはその必然に耐えなければならない。いくらわたしがあわてても、それは子どもをいっそうおびえさせ、感受性を刺激するだけのことだろう。
 
じつのところ、けがをしたばあい、苦しみをあたえるのは、その傷であるよりも、むしろ恐れなのだ。わたしはとにかく、そうした苦しみだけはなおしてやる。
 
わたしがその傷をどう考えているかを見て、子どもはそれを判断することは確実だからだ。わたしが心配してかけよって、なぐさめたりあわれんだりしたら、かれはもう自分はだめだと考えるだろう。わたしが冷静にかまえていれば、子どももやがて冷静な態度をとりもどし、痛みがなくなれば、もうなおったものと考えるだろう。
 
この時期においてこそ、人は勇気をもつことを最初に学びとり、すこしばかりの苦しみを恐れずに耐えしのんで、やがてはもっと大きな苦しみに耐えることを学びとる。
(ルソー著「エミール」 p97-98)
 
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◎「わたしがその傷をどう考えているかを見て、子どもはそれを判断することは確実だからだ」……。子どもを育つ思想とは大人の集団の中でお互いが持つべき思想にもつながっています。
 
◎越えなければならない課題≠ノ対する関わり方は、その人の人生そのものです。年齢はこの際関係ないことでしょうね。