学習通信030914
◎いかに愛するかを学ばなければならない。
 
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 精神科医は、自分の恋愛も自由自在なんですか?
 そんなことを聞かれ続けて、早一五年余。そして私はいまだに、「どこかにイイ人、いないかなー〜 ううん、イイ男じゃなくたっていいの。ごくふつーの人…」なんて言い続けています。
 
 この現状を見ればわかるように、精神科医だからといって、自分の恋愛や結婚を思い通りに操れるか、というとそんなことはまったくありません。これは私にかぎったことではなく、私の同僚の精神科医たちの中にも、いまだにシングルの人、離婚しちゃった人、結婚と離婚を繰り返している人…などさまざまな 愛の放浪者″がいます。
 
 じゃ、心のことをいくら勉強しても、恋愛にはちっとも役に立たないということなのでしょうか。
 
 もちろん、精神医学や心理学は恋愛のためにあるのではなく、悩みや葛藤のある人、心の病の人のためにあるものです。でも、恋愛は、私たちが生きる上では絶対に欠かせない大切なもの。中には「恋愛のない毎日なんて、めんの入ってないラーメソと同じ」と思っている人もいるかもしれません。
 
 そうだとするならば、「好きで好きでたまらないのに、彼ったら全然ふり向いてくれないの…」と身をよじるくらい悩んでいるあなたのために、医学や心理学の知恵をもうちょっとうまく使ったって、いいのではないだろうか。そんなことを思い立って書いてみたのが、この本です。
 
 でも、恋愛についてただ心理学を使って解説してみたって、あまりおもしろくもなさそうだなぁ。そう思った私は、こんなことを考えついたのです。「そうだ、日本にほ苦から、五十音でいろいろな知識をわかりやすく覚えてもらう、アレがあったじゃないか!」。アレとは、そうです、カルタです。
 
 そういうわけで、いろはがるたの形式で、「あの人が好き。」と思う恋心の心理やいっこうにわからない彼の心理をわかりやすく読み解いてみよう、としたのがこの本です。「えー、カルタぁ〜 古いんじゃないのぉ」と思っているそこのあなたも、まあ、だまされたと思ってひとつ、ふたつ口ずさんでごらんなさい。ほら、「好き。」の謎が少しずつ解けていくような気がしてきませんか。
 
 現に私だってこのカルタを自分で使って…ぷぷぷ、その話はまた、ということにしましょうー!
(香山リカ著「「好き。」の精神分析 大和書房 p1-2)
 
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 恋の物語は、主人公たちがそこそこのしたたかさを持った賢い人たちだと、物語にならない。結婚を断るにしても、機嫌をそこねない断り方があろうものに、と思ったり、いくら親友だからと言っても、それほど大事な金をこうも簡単に貸してしまうものか、と思ったり、主人公たちはいらいらするほど不器用で、純粋で、お人好しで、人に踏みつけにされる。
 
徳兵衛のこのひどい成り行きを聞いて、お初は「この上は徳様も死ななければならない。死ぬ覚悟が聞きたい」と言うことになる。こうしてお初のほうからうながし、二人は心中に旅立つことになるのだった。
 
 これが「恋の手本」とされるのは、何と言っても、二人ともが現実世界での有利な条件をすべて蹴って、恋を貫くからである。「現実世界」というのは、甘やかな顔と過酷な顔とを合わせ持っている。
 
自分を折り曲げ、周囲に合わせ、年長者、実力者の言うことを聞き、友達を疑い、あるいは適当に利用することができれば、この世は甘やかな顔を向けてくれる。しかし自分の思いを貫き、それが世間の意志と対立するようなことにでもなれば、過酷な顔を向けてくる。
 
その過酷さは、「金」という単位を持っている。金を持つことができるかできないかで、恋を貫けるかどうかまで、変わってきてしまうのだ。近世の大坂の人々がこの浄瑠璃の登場に熱狂したのは、時代が金を中心に動き始め、人間としての意志までも金によって動かされることに、日夜苦しみを感じていたからに他ならない。
 
ちなみに、『曾根崎心中』はほんの一カ月前に起こったほんとうの心中事件を、浄瑠璃にしたものだった。
 
 人は恋の幸せを願っているのだろうか、それとも恋の不幸を願っているのだろうか? 『マディソン郡の橋』という映画が公開された時、「私もあんな恋をしたい」とつぶやいた中年女性が多かった。
 
この映画は、子育ても終わったひとりの主婦のもとへ、橋を撮影しながら旅をしているカメラマンが道を聞くために立ち寄ったことから、二人が恋に落ちる話である。彼女は彼とともに家を去ろうかとさえ考えるが踏みとどまり、亡くなった後、二人の骨は遺言によって、それぞれ同じ川に流される。
 
いい物語だったし、あの場合も実在のカメラマンの体験をもとにした話だったが、このような体験は幸せで穏やかな結婚生活の外面を保ちつつ、生涯消えることのない苦しみを負っていくことを意味する。泉鏡花の『外科室』も映画になったが、やはり心の秘密を負った人妻は病気になって、麻酔をかけないままメスを胸に刺して死んでゆく。
 
 ここで結論。「恋をしたい」と思うことは、「苦しみたい」と思うことと同じである、と覚悟すべきだ。この事実については、当事者が未婚であろうが既婚であろうが関係ない。結婚できるなら幸せ、とは限らない。
 
第一、結婚を目的にしているのなら、そこには現実上の計算もさまざま働くので、恋心だけで結婚するとは限らない。第二に、結婚はハッピーな「エンド」ではなく、関わりの(修羅場の、と言う人もいる)始まりである。結婚してから別の恋に出会う可能性はいくらでもあり、それはさらなる苦しみの種である。
 
 江戸時代の恋は確かに、仕事と家とが密接に関わっており、がんじがらめになりやすいし、世間と個人との関わりが強い。しかし近代、現代の社会であっても個人が完全に自由になり、何もかも思うとおりになる、ということはない。人生がそういうふうでないことは、生きれば生きるほどわかる。
 
自分が自由であるということは、他人も自由であるのだから、人の心を管理することはできない。長い時間をかけて作り上げた絆が、新しい恋とめぐり会ったからと言ってそう簡単に断ち切れるわけではなく、それはどの時代も同じだ。江戸時代より今の日本のほうが金持ちだからといって、その金で人の心が買えるわけでもない。恋は古今東西、未来永劫、難しいのだ。
 
 しかしその困難さは、人生の奥義に達する深みを持っていることも、また事実だろう。恋は時に人生をむなしくする。しかしそのむなしさは、毎日が何となく楽しく過ぎてゆく、と感じていた時に比べ、現実により近いのだ。
 
恋によって、自分が生きていた毎日や、慣れ親しんだ価値観が、別の観点から見えてくることもある。その結果、死を望む気持ちが起こってくることもある。命の瀬戸際が見えることもあるし、さまざまな理由で辛い思いをしている人の気持ちが理解できるようになる。
 
だから江戸時代の人々も、恋が苦しいとわかっていながら、恋をやめることはできない。恋にはときめきとともに、人生があるからだ。
(田中優子著「江戸の恋」集英社新書 p20-23)
 
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 この特異な態度は、これを支える若干の前提の上に立っている。ひとつひとつ独立した前提であることもあり、いくつかの前提が連合していることもある。
 
大部分の人びとは愛の問題を、第一に愛することの問題としてとらえるよりも、愛されることの問題として考えている。それゆえ、人びとにとって問題なのは、どうして愛されるようになるか、どうして愛らしくなるかということなのである。
 
この目的を追い求めて進む彼らの道はいくつかある。男子によって好んで用いられる方法は、成功すること、その人の地位として社会的に許されるかぎりの権力を持ち、金持になることである。
 
女性によって好んで用いられているもうひとつの方法は、自分の姿をととのえ、服装を洗煉して自分を魅力のあるものとすることである。
 
男女のいずれによっても用いられる、自分をアトラクティブにする他の方法は、感じのよい作法や興味深い話のやりとりに巧みになることであり、有能であり、しかも謙遜で悪気がないようにふるまえることである。
 
自分を愛すべきものとする方法は、自分自身を成功させるため、また《友人をかちえて、人びとを動かすようになる》ために用いられるのと同じ方法なのである。
 
われわれの文化において、ほとんどすべての人びとが、愛すべきだという言葉に与えている意味は、事案は、通俗的であり人気があるということと、性的アピールがあるということがいりまじったものなのである。
 
 愛について、特に学ばなければならぬようなものはないとする態度の背後にある前提の第二は、愛することの問題は、その対象いかんの問題であり、能力の問題ではないという主張である。
 
こ町人たちは、《愛する》ことは簡単なことで、ただ愛する──あるいは愛される──正しい対象を見つけ出すことがむずかしいのだと考えているのである。この態度には、近代社会の発展に根差しているいくつかの理由がある。
 
ひとつの理由は、愛の対象をえらぶことに関して、この世紀に起ったはげしい変化である。ビクトリア朝時代には、家という伝統を受け継ぐ文化においてそうであったように、《愛というもの》は、そこからやがて結婚に導かれるような自発的、個人的な経験ではなく、また結婚は、家と家とにより、あるいは結婚の仲介者たちを介し、あるいはそのようなもののないときには、慣習に従って契約されたのである。
 
結婚は社会的な配慮にもとづいて決定されるものであり、愛はこのような結婚がなされた後に展開してくるものと考えられたのである。ロマンチックな愛の概念が、ほとんど西欧の世界に普遍的なものと見られるようになったのは、ここ数世代の間のことなのである。
 
アメリカ合衆国においては、慣習的な性格を持った考え方がまったくなくなっているわけではないが、大部分の人びとは、自分自身の個人的な愛の経験を結婚にまで導くような、《ロマンチックな愛》を追い求めている。このような愛における自由の概念は、必然的に、愛の機能の重要さに対立するものとして、対象の重要性を強めることになった。
 
 この要因に密接に関係しているのは、現代文化の性格を示すもうひとつの特徴である。われわれの文化のすべては、購買欲、相互に有利な交換という考えの上に成り立っている。近代の人間の幸福というのは、店の陳列窓を見て喜ぶこと、そして現金か月払いで自分の買えるだけのものをなんでも買うということから成り立っている。
 
彼(あるいは彼女でもよい)は人びとをも同じ方法で見るであろう。男子にとってアトラクティブな女子──そして女子にとってアトラクティブな男子──は、彼らが求めている商品である。
 
《アトラクティブ》であるとは、普通、人の気にいり、人格の市場で求められているところの品質の良い包を意味する。なにが人間を特にアトラクティブにするかは、身体的にはもちろんのこと精神的にも、その時の流行によってかわる。
 
二十年代には、お酒を飲んだり煙草をすったりする少女、強健で性的魅力のある人がアトラクティブであった。今日の流行では、より家庭的であり、慎み深いことが要求される。十九世紀の終りと今世紀の初めには、アトラクティブな《包》となるためには、男子は進取的であり勇敢でなければならなかった。
 
──今日では彼は社交的であり、寛大でなければなむない。──とにかく、恋に陥るというセンスは、自分自身を他のものと交換できる範囲内にとどまっているような人問商品に関してのみ発達するのが常である。私は買物に出かけるのである。その目的物はその社会的価値の見地から求められるのは当然である。同時に、相手も私を欲しいときには、私の明白な、またかくされた資産と可能性とを考えるはずである。
 
このようにしてふたりの人間は、自分たちが、自分たち白身の交換価値の限界を考えて、市場で最良の有利な対象を見出したのだと感じたときに恋に陥るのである。不動産を売買するときと同じように、今後は発展するかもしれないが、いまは秘められている可能性が、この契約の時にもかなりの役割を演じていることもしばしばある。
 
広告が普及している文化、及び物質的成功がきわめて高く評価されている文化においては、人間の愛の関係が、商品や労働市場を支配しているのと同じ交換の形に従っていたとしても驚くには当らないのである。
 
 愛について学ぶべきことはなにもないのだ、という仮定に導びく第三の誤りは、恋に《陥る》はじめの経験と、愛しているという持続的な状態、あるいはわれわれがよくいうように、愛の中に《とどまっている》こととを混同していることにある。
 
もし、われわれすべてがそうであるように、いままでは他人であったふたりの人が、急に自分たちの問の壁をこわし、親しさを感じあい、ひとつであることを感じあうというとき、この合一の瞬間は、生涯においてもっとも勇気を与え、またもっとも心をおどらせる経験をする瞬間であろう。
 
それは愛なしに遮断され、独りぼっちにされていた人にとっては、いっそうすばらしく奇蹟のようなことであろう。急に親しくなるというこの奇蹟は、もしもそれが性的な牽引(けんいん)及び性の成就と結びつけられるか、あるいはそれによってはじめられるときには促進されることがしばしばである。
 
しかしながら、この形の愛はその性質のはげしさのためにながくは続かないのである。ふたりの人がよく知りあってしまうと、彼らの親密さはしだいに、その不思議な性格を失うようになる。遂には、彼らの対立、失望、お互いの倦怠が最初の興奮の名残りであるものをも殺してしまうようになるのである。
 
しかし、はじめは、彼らはこのことにまったく気づいていない。実際、夢中になる強さ、互いに《血道をあげる》強さが、その愛の強さの証拠としてあげられている。しかしながら、それはただ彼らが愛しあう以前の淋しさの程度を示すものにすぎないのである。
 
 この──愛することよりやさしいことはないとする──態度は、これに反する圧倒的事実があるにもかかわらず、愛についての一般の人びとの考えとなって今日までひき続いている。どんな活動も事業も、愛のように巨大な希望と期待とをもってはじまり、しかも、きまって失敗におわるものはない。
 
もしも、これがなにか他の活動の場合であったなら、人びとはその失敗の理由を知ろうとし、どうしたらうまくやれるようになるかと熱心に学ぶか──さもなければ、彼らはその活動をやめてしまうだろう。しかし、愛するというこの活動をやめることは不可能であるとすると、愛の失敗を克服する適切な方法は、ただひとつしかないように思われる。──この失敗の理由を調べ、愛の意味を学ぶことをはじめることがそれである。
 
 ふむべき第一の段階は、生きることが技術であるのとまったく同じように、愛が技術であることを知ることである。もしわれわれがいかに愛するかを学ぼうと思うならば、音楽や絵画や建築の技術、治療あるいは工学の技術のような他の技術を学ぼうと思う時に、われわれがまずしなければならないのと同じような仕方で学びはじめなければならないのである。
(エーリッヒ・フロム著「愛するということ」紀伊国屋書店 p2-5)
 
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 現代の異性愛は、古代人の単なる性欲、つまりエロスとは本質的にちがう。
 
第一に、それは、愛されるほうにもそれにこたえる愛のあることを前提とする。そのかぎりで女は男と平等であるが、ところが古代のエロスにあっては、つねに決して女の気持ちは聞かれない。
 
第二に、異性愛には、相手といっしょになれずに別れることは最大ではないまでも大きな不幸であると双方に思わせるほどの強烈さと持続性とがある。互いにいっしょになりうるためには、彼らはのるかそるかの行動にでて命をかけさえするが、こうしたことは、古代ではたかだか姦通の場合に見られただけである。
 
そして最後に、性交を判断するための新しい道徳的尺度が生まれ、その性交が婚姻内でのものだったか婚姻外でのものだったかということだけでなく、それが相互の愛情から起こったものだったかどうかも、問題にされる。
 
わかりきったことだが、この新しい尺度は、封建的、ないしブルジョア的な慣行では、その他のすべての道徳上の尺度よりも重視されているわけではない──それは無視されもしている。だが、それは他の尺度よりも軽視されているわけでもない。
 
それは、他の尺度と同様に承認される──理論のうえで、紙のうえで。そして、さしあたり、この尺度としては、これ以上のことを求めることはできない。
(エンゲルス著「家族・私有財産・国家の起源」新日本出版社 p105-106)
 
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◎愛とはなにか……結婚とは、夫婦、家族……とつながっていきます。これまでの学習通信≠ナもとりあげています。合わせてまなんでください。
 
◎「恋に《陥る》はじめの経験と、愛しているという持続的な状態」「強烈さと持続性」……愛すること、持続すること2つの事をフロムもエンゲルスもしてきしています。
 
◎男らしさ、女らしさにもつながります。愛の大きさをもの(商品)≠ノ例え「○○の贈り物をしたのに……裏切られた」良く聞く話です。学んでいきましょう。