学習通信030916
◎マクドナルド化の本質は人と人とのコミュニケーションがマニュアル化しシステムとなってしまうということ
 
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 TDL(東京ディズニーランド)では「やさしくなれる」と母親はいう
 
 マクドナルド化のすごい点は、それが浸透していくと、客のほうもそれにあわせてマクドナルド化するということにあるという。
 たとえばマクドナルドで店員と世間話をはじめるような客はいない。商品についてあれこれ質問を浴びせるような客もいない。みんなきちんと列にならび、サービスの効率性を邪魔しないようにてきばきと注文していく。
 
 こんな笑うに笑えない話をきいた。
 その男は店員のなかに気になる女の子がいた。彼は毎日、昼になるとその駅前商店街にあるマクドナルドをめざして自転車を走らせた。たとえ列が長くてもわざわざその女の子のレジにならぶ。アルバイト生活で財布のヒモはかたい。きびしく注文するのはいつもおなじ安いセットメニューだった。そうして一カ月ほどたった。
 
「いらっしゃいませ」
 彼女のマニュアル化した笑顔に向かって、彼は意を決してこういったのだ。
「いつもの」
 その店員はきょとんとした顔で彼を見返しただけ。そこからさきは言葉を失ってしまった。マニュアル想定実には、客からの「いつもの」に対応する返答など用意されていない。その男は失意のどん底におとされた。
 
 笑い話になりそうなエピソードだが、これこそマクドナルドのマクドナルド化。すなわち、合理的にマニュアル化され円滑でむだのないコミュニケーションが、いかに突発的な出来事にたいして脆弱なものであるか、そして、じつはがんじがらめのルールによってかろうじて保たれているのだ、といったことを示している。
 
 マクドナルド化の本質は人と人とのコミュニケーションがマニュアル化しシステムとなってしまうということ。いまでは社会のすみずみにまでそれが浸透しているのではないだろうか。一歩外へ出ると、ばくらは無意識にマクドナルド化された日常に適応することを強制されているともいえる。
 
 たとえばエスカレーターの片方へ身を寄せて立ち、急ぐ人をさきに通すというマナーもマクドナルド化である。そのほうがたしかに効率的だ。「運転マナー」にも、駐車場から道路に出て車列に割りこんだあと、ハザード・ランプを点滅させて「礼をいう」というようなマクドナルド化が進んでいる。
 
 このようにマナーという名で進行するマクドナルド化は、日々の暮らしのあらゆる場面で出くわすのだが、ときに問題なのは、それに適応しない人々がシステムから排除されてしまうことだ。エスカレーターでまんなかに立っている人は怒りをかうし、つぎつぎに生まれる運転マナーに対応できない人もおなじ目にあう。
 
 マクドナルド化があらゆる場面に浸透していくとともに、非マクドナルド的な行動は「効率のいいシステム」を乱す原因として排除される。そういうことが起こってくる。
 
 TDLでも非ディズニー的な存在や行動は極力排除されている。ビニールシートを敷いて弁当を食べるという行為は御法度だしアルコールも禁止。「くわえタバコ」で歩く人を見かけることはないし酔っぱらいも当然いない。ディズニーランドにふさわしい品行方正な大人ばかりだ。
 けれど彼らもいったん外に出ると別の大人になる。
 
「ディズニーランドでは自分もみんなも優しい人になれる」
 これはさきのディズニーランド・マニアの女性の言葉だ。つまりディズニーランド以外では「優しい人ではない」、少なくともそういう場面もあるという事実を、この言葉はいいあらわしている。
 
 ディズニーランドでは、私たちは自由にふるまい、個々人がそれぞれ自分のスタイルで愉しんでいるように感じる。が、じつはそれはひとつのパターンにはめられた画一的な快楽であり、自由や「個性」とは対極にあるものだ。
 
 むしろ「個性的」であるほどしらじらしくなるばかりだろう。なぜならディズニーのファンタジーを愉しむのに「個性」は邪魔だからだ。ドナルドダックが手をふったら反射的に手をふりかえしているといった「素直」な反応ができる従順な身体性があって、はじめてTDLは居心地のいい場所になるのだ。
(藤原智美著「「子どもが生きる」ということ」講談社 p161-134)
 
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オリジナリティは遊びの中から
 
 日本人は昔から付和雷同といいますか、社会で同じような生き方をすることが、最も安全確実といったような性質があります。そして他人と同じレベルの同じカラーの生き方をすることで安心してしまうのです。
 
とくに今日のように消費文化の中で大企業が商品を大量に作っていますと、だれもがその規格品を買い、どの家庭にも同じような家具がおいてあり、同じようなものを食べて、同じ型のテレビから同じような情報を得て、それで満足しているのです。
 
 日本人の一般サラリーマン家庭を見たあるアメリカ人が、首をかしげたそうです。似たような洋服、似たようなネクタイ、似たようなカーテンに似たようなキッチン、さらに、同じようなゴルフ道具が立てかけてあり、旦那はどの家庭でも暇があると、居間でゴルフを打つジェスチュアをしている。
 
 この日本人たちは個性が同じなんだろうか、これで一人ひとりが満ち足りた生活だと思っているのだろうか、というわけです。-略-
 
 もう一つ例をあげますと、ぼくのマンガに、よくヒョウタンツギという奇妙なものが登場します。この物体は格別に意味はありません。むしろマンガの物語とは全然無関係の、いうなれば落書きです。これをぼくは、物語のズツコケシーンに突然登場させます。
 
また物語がひどく生真面目に続いている時、だしぬけに書いたりします。当然読者はびっくりし、一体何だという質問が数え切れないほどありましたが、やがて、その無意味さがかえってみなさんに喜ばれて、ぼくのマンガの人気者になりました。
 
 これとて、アメリカ人やヨーロッパ人には見当もつきません。最初は顔をしかめて見ていました。しかし、そんな連中も見慣れてくるうちにだんだんその無意味なユーモアがわかってきて、最近は、
 「ユニーク・キャラクター」
 と喜ぶようになってしまいました。
 
 驚いたことに、三年ほど前、アメリカのコミック雑誌が送られて来て、その中のアメリカ人の描いたマンガに、ヒョウタンツギが出てきたのを見つけたのです。
 ぼくのオリジナルが、とうとうアメリカへ輸出されてしまったわけです。
 
 今の日本のマンガの、いろんな手法というのは、もともとはアメリカやヨーロッパのマンガがお手本なのです。アメリカやヨーロッパのマンガは世界に通用します。その手法に、オリジナルなものをつけ加えていくと、それがふえていけばいくほど、非常におもしろい独特の味がでます。それはイミテーションというよりもう創造です。
 
 日本の近代文化の大半は、西欧文化のなぞりからはじまったのですが、それが日本人のオリジナリティで料理されて、たいへんユニークなものを次々に生み出してきました。
 
 たとえばアンパンです。日本人のそういう才能は、本来、非常に優れているわけです。
 最近渡米された方はご存じだろうと思いますが、今、アメリカではたいへんな豆腐ブームで、豆腐にケチャップをかけて食べたりしておりますが、最近、豆腐アイスクリームというものを作った人がいます。
 
 一見、普通のアイスクリームと同じなんですが、大豆で作ってありますので豆腐的な味がいたします。とくにダイエットをしている女の子に受けて、またたくまに一財産作るくらいのヒットになったそうです。
 
 これはアイスクリームという欧米の商品と、豆腐という東洋の産物とをドッキングさせた、アンパンに匹敵するユニークな発明ではないでしょうか。もちろん、日本人に受けるかどうかはわかりませんが、立派にアメリカの食べものになったのです。
 
 こういった異文化のドッキングは、一種の遊びの要素を含んでいます。日本人は、もっといろいろ遊びの中から、オリジナリティを見つけるくせを持つべきでしょう。
 最近、日本人の中で、それも経済界やインテリ層で、「アメリカやヨーロッパから学ぶものはもうなにもない」なんてうそぶく人間がいるようですが、こういった言葉が、異文化への興味を失い、やじ馬根性や好奇心を弱め、心の老化をきたすもとになるのではないでしょうか。
 
 生きがいのある人生とは、お仕着せの、画一的な、ステロタイプ的な人生に、人それぞれが自分の個性を加味して独特のものにかえていく、そういうことではないかと思います。
 
 何度もやり直しのきく人生が約束されているのならともかく、有限の一度だけの自分の人生です。狭い囲いの中で、息苦しいものにしたくないではありませんか。
 
 山を越、え、海を越、え、国境を越えてさまざまな人々と大いに交流しながら、たくさんの発見をしていきたいものです。他の国々にも学ぶことで自分の国や自分自身も、もっと見えてくるようになるでしょう。
(手塚治虫著「ガラスの地球を救え」知恵の森文庫 p131-138)
 
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◎生きがいのある人生とは、お仕着せの、画一的な、ステロタイプ的な人生に、人それぞれが自分の個性を加味して独特のものにかえていく、そういうことではないかと思います。……手塚治虫がいいます。
 
◎「マナーという名で進行するマクドナルド化は、日々の暮らしのあらゆる場面で出くわす」と藤原……。「ばくらは無意識にマクドナルド化された日常に適応することを強制されているともいえる」と。わたしたちにも浸透しているやもしれません。大いに学ぶ必要があります。