学習通信030919
◎「燃えつき」てしまう子どもたちがいる……学習通信030909も参照して深めてください。
 
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 子ども犯罪の増加は社会がのぞむから
 
 犯罪の低年齢化は日本でも進んでいる。10代なかばの少年が全国を騒がせるような大事件を起こす。14歳という年齢がその年ごろの子をもつ親たちをうろたえさせた「酒鬼蓄薇事件」など、ショッキングな殺人事件も記憶に新しい。
 
 2002年の11月には京都市で15歳の少年が詐欺で逮捕された。インターネットで嘘の情報を掲載して金をだましとったという。被害者はもちろん大人たち。少年の詐欺師が大人を簡単にだます。少しまえまでだれが想像できただろう。
 
 犯罪だけでなく、この低年齢化現象はいろいろな分野で進行している。たとえば依存症。タバコ、アルコールをやめられないで専門医を訪ねる中学生や高校生もふえている。もしゲームやケイタイメールに夢中になっている子どもたちをその範疇に入れると、「ゲーム依存症」や「メール依存症」の患者は途方もない数になってしまいそうだ。
 
 犯罪や依存症といった、かつてはほとんど大人の世界でしか起こりえなかった領域に子どもが進出してきている。子どもと大人の境界がなくなろうとしているのはネット上だけではない。
 
 すべての社会的分野において「子どもの大人化」が進んでいるのだ。
 その原因はじつは、子どもが大人のように行動し能力を高めることを「社会自体がのぞんでいる」からである。子どもたちが大人のような犯罪に手を染めたり、依存症に陥るのはあたりまえなのだ。
「子どもは大人にとって都合のいいところだけ」大人にはならないのだから。
 
 ぼくはこの間、電車のなかで見かけた化粧をした小学生たちのことをおもいだした。彼女たちはまだ小学校の3、4年生くらいだが、あるアイドルの影響という、マスカラで目ヂカラを強調するメークをしていた。服装も大人っぽくて、20歳くらいの女性と変わらない。ただ体つきが子どもというだけだ。もちろん、こうした化粧、服装は母親の「協力」があってこそできるものだ。親たちはこうしたわが子をかわいいとおもっている、らしい。
 
 最近、子ども服が売れているという。といっても、その中身は以前とは様変わりしている。かつて子ども服というのは『子ども向け』のデザインがほどこされていた。いま、そんな子ども服はみむきもされない。大人っぽい子ども服、つまり大人が着る服のサイズが小さくなっただけ、そんなスタイルが大半である。
 
 服装も大人化が進んでいる。あるいは年齢をこえた、エイジレスなファッション傾向が出てきているといえる。
 
 スポーツにもおなじことがいえる。子どもも大人もおなじルールでおなじスポーツをやるようになった。硬式のボールを使った野球、テニス、さらにサッカー。どれも大人といっしょにやれるものばかりだ。最近ではゴルフといった、かつて大人が独占していたスポーツにさえ、子どもが登場するようになった。あおりたてているのは大人である。
 
 逆に「子どもだけ」の遊びがめっきりへった。缶蹴り、剣玉、お手玉、コマまわし。そうした伝統的な遊びが衝から姿を消した。電子ゲームは大人と子どもの境をなくし、コミック雑誌もまた子どもの領域から大人の領域へと拡大している。子どもらしい「娯楽」というものがなくなったのだ。-略-
 
 社会がステージママ化している
 
 子どもをせきたてるように大人にしようという動きは、日本だけでなく世界的な傾向だ。それは大人びた行動パターンをとる子ども、早熟な子どもをよしとする風潮を呼んでいる。
 
 この根底にある考え方は「何事も早ければ早いほどいい」というものだ。ピアノやヴァイオリンはもとより、水泳もゴルフも、英語もパソコンも、子どもがどうにかたどたどしい会話ができるようになったくらいからはじめる。
 早期教育は産業化され、さまざまな分野で大人が子どもを食い物にしている。-略-
 
 これは一部の子どもたちの特殊な状況で心配には値しないことだろうか。たしかにプロのスポーツ選手やアイドルをめざす子どもは少数かもしれない。けれど一刻も早く、頭脳がやわらかいうちにとばかりに知識、技術(スポーツから楽器、パソコンまで)を習得するのがのぞましいとして、子どもに「早期教育」をほどこす子育てはいまや一般的になった。
 
 大人とおなじ技術、知識、スタイルを身につけろ。親の、あるいは社会のそんな要請が子どもの大人化に拍車をかけている。
 
 「燃えつきる」 子どもたち
 
 こうして社会全体の気分や教育産業の攻勢によって、いま子どもたちは猛烈な「大人化」競争を強いられている。
 50年まえの子どもがおかれていた環境と、いまの子どもの環境をくらべてみよう。それによって「大人化」がどれほど子どもたちに過酷な現実を強いているか理解できるだろう。
 
 50年まえといえば、まだテレビはない。放送がはじまった一九五三年のことだ。そのころの遊びというと、近所の子どもたちといっしょになって集団でやるものばかりだった。ひとり遊びというのはほとんどない。遊び以外の時間は学校に行くか家の手伝いをするか。学習塾もほとんどなかった。子どもの生活はいまとくらべると、ずっとシンプルだった。子どもが自分の力でできる範囲のことをやっていたにすぎない。
 
 それにたいして、現在の子どもの生活は圧倒されんばかりに「忙しく」、そして複雑だ。小学校の高学年ともなると、娯楽ではテレビはもちろんゲームにケイタイ、パソコン、学校のあとは学習塾、スポーツクラブ、ピアノ教室、英語教室。とにかく過密スケジュールだ。
 
あらゆる情報をインプットし、さまざまな刺激にさらされ、それをちくいち処理し、知識として蓄えていかなければならない。子どもの許容量がどれほどなのか、は考慮されない。
 
 いま小中学校に通う子をもつ母親5000人のうち、半数が「習い事や塾に通わせないと不安」と答えている。この割合は4年前にくらべて小学生で4パーセント、中学生で7パーセントもふえている。たった四年でこの変化だ。
 
 現在、幼稚園などで流行しているのは、遊びのなかに知識教育を組みこんでいこうという、ヨーロッパから輸入された教育方法だ。数字、言葉、色などさまざまなものを遊びに見せかけて教えこむ。子どもは嬉々として愉しみながら知識を得ていく。
 
 というのだが、哀れな大人は子どもがそのいかがわしさ(ほんとうは遊びではなく教育であり成果をもとめられていること)を見抜いていることなど知りはしない。そうした「遊び」はけっきょく、最後にはよくできたかどうかが問われる。まったく無邪気(無意味)に、ただエネルギーを発散するように遊ぶことは言外に禁じられている。そのことも子どもは知っているのだ。
 
 つまりこの新しいタイプの教育も、じつは「遊び」「ゆとり」という衣をまとった早期教育のひとつである。
 アメリカの心理学者デイヴイッド・エルカインドは、『急がされる子どもたち』という本のなかで、こうした子どもの現状に警鐘を鳴らしている。
 あまりに急がされることによってこうむる子どもの「ストレス」をとても危険視しているのだ。
 
 子どもの早期教育化はまるで、小さな鞄のなかに、いきなり大量の荷物を詰めこんで破裂させてしまうようなものだ。それによってエネルギーを使いはたし、「燃えつき」てしまう子どもたちがいるという。「燃えつきる」とは、猛烈に働いていたビジネスマンが疲れはでてついに立ち直れなくなる、社会病理をあらわす言葉ではなかったのか。
 
 子どもの「燃えつき」は、自分が達成できなかった「成功」を親が子どもに託する場合にとくに起こりやすい。最悪なのは親がそのことに気づいていないことだ。「すべて子どものため」という理由をつくりあげて早期教育に熱中し、子どもは声にならない悲鳴を心のなかであげつづけるということになる。
 
 しかも早期教育によって早熟な「才能」を身につけた子どもが、他人よりぬきんでた大人になるかというと、じつはそうではない。神童の大半は大成することなく表舞台から消えていく。
 
 自分の意志どおりにことを行なうことができるのは、なにかするのに自分の手に他人の手をつぎたす必要のない人だけだ。そこで、あらゆるよいもののなかで、いちばんよいものは権力ではなく、自由であるということになる。ほんとうに自由な人間は自分ができることだけを欲し、自分の気に入ったことをする。これがわたしの根本的な格率だ。ただこれを子どもに適用することが問題なのであって、教育の規則はすべてそこから導かれてくる。
(藤原智美著「「子どもが生きる」ということ」講談社 p244-253)
 
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 社会は人間をいっそう無力なものにした。社会は自分の力にたいする人間の権利を奪いさるばかりではなく、なによりも、人間にとってその力を不十分なものにするからだ。だからこそ、人間の欲望はその弱さとともに増大するのであって、大人にくらべたばあいの子どもの弱さもそれにもとづいている。
 
大人が強い存在であり、子どもが弱い存在であるのは、前者が後者よりも絶対的な力をいっそう多くもっているからではなく、前者はもともと自分で自分の用をたすことができるのに、後者にはそれができないからだ。
 
だから大人にはいっそう多くの意志があり、子どもはいっそう多くの気まぐれを起こすことになる。気まぐれということばを、わたしは、ほんとうに必要でないすべての欲望、他人の助けをまたなければ満足させることができない欲望を意味するものと解する。-略-
 
 この考察は重要なことであって、これは社会制度のあらゆる矛盾を解明する助けになる。
 
依存状態には二つの種類がある。一つは事物への依存で、これは自然にもとづいている。もう一つは人間への依存で、これは社会にもとづいている。事物への依存はなんら道徳性をもたないのであって、自由をさまたげることなく、悪を生みだすことはない。
 
人間への依存は、無秩序なものとして、あらゆる悪を生みだし、これによって支配者と奴隷はたがいに相手を堕落させる。社会におけるこういう悪に対抗するなんらかの方法があるとするなら、それは人間のかわりに法をおき、一般意志に現実的な力をあたえ、それをあらゆる個別意志の行為のうえにおくことだ。
 
諸国民の法律が、自然の法則と同じように、どんな人間の力でも屈服させることができない不屈な力をもつことができるなら、そのばあいには、人間への依存はふたたび事物への依存に変わることになる。
 
国家のうちで自然状態のあらゆる利益が社会状態の利益に結びつけられることになる。人間を悪からまぬがれさせる自由に、人間を美徳へと高める道徳性を結びつけることになる。
 
 子どもをただ事物への依存状態にとどめておくことだ。そうすれば、教育の進行において自然の秩序に従ったことになる。子どもの無分別な意志にたいしては物理的な障害だけをあたえるがいい。あるいは行動そのものから生じる罰だけをあたえるがいい。
 
そうすれば、子どもは機会のあるごとにそれを思い出す。悪いことをしようとするのをとめたりしないで、それをさまたげるだけでいい。経験、あるいは無力であること、それだけが掟に代わるべきだ。
 
ほしがるからといって、なにかあたえてはならない。必要なばあいにこそあたえるべきだ。子どもは行動するとき、服従するとはどういうことかを知ってはならない。子どものためになにかしてやるとき、子どもは支配するとはどういうことかを知ってはならない。
 
子どもは自分の行動においても、あなたがたの行動においても、ひとしく自由を感じなければならない。命令するためにではなく、自由であるために必要なだけの力、それが欠けているばあいにはおぎなってやるがいい。あなたがたの助けをいわば謙虚な態度でうけいれて、そういう助けなしですませられる時を、自分で自分のことができるようになる時を、待ち望まぜるようにするがいい。
 
 自然は体を強くし成長させるためにいろいろな手段をもちいるが、それに逆らうようなことはけっしてすべきではない。
 
子どもが外へ行きたいというのに家にいるように強制したり、じつとしていたいというのに出ていかせるようなことをしてはならない。子どもの意志がわたしたちの過失によってそこなわれていなければ、子どもはなにごとも無用なことを欲することはない。
 
子どもは思うままに跳びはね、駆けまわり、大声をあげなければならない。かれらのあらゆる運動は強くなろうとする体の構造の必要から生まれているのだ。しかし、子どもが自分ではできないこと、他の人々が子どものためにしてやらなければならないことを望むばあいには、警戒しなければならない。
 
そのばあいには、ほんとうに必要とするもの、自然の必要と、あらわれはじめた気まぐれによる欲望、あるいはすでに語ったような生命の過剰から生じるにすぎない欲望とを注意ぶかく見わけることが必要だ。-略-
 
 とくに子どもには礼節にかなったくだらないことばを教えないように気をつけることだ。それは必要に応じて周囲のすべての者を自分の意志に従わせ、好きなものを即座に手に入れる魔法のことばとして役にたつことになる。
 
金持ちの家のもったいぶった教育では、子どもはかならず鄭重(ていちょう)なことばで命令するようになり、だれもことわることができないことばをもちいるように仕込まれる。金持ちの子どもは懇願するような調子や言いかたを知らない。かれらはなにか命令するときと同じような調子で、あるいはもっとひどい倣慢な調子でなにかたのむ。そのほうが確実に人々にききいれてもらえると思っているのだ。
 
すぐにわかることだが、かれらの口から出る、「どうぞ」ということばは、「どうあっても」という意味であり、それから、「お願いします」は、「命令します」という意味になる。すばらしい礼節。それはかれらにとってはことばの意味を変えてしまうことにすぎず、命令的な口調でしか話せないことになるにすぎない。
 
わたしとしては、エミールが倣慢になるくらいならむしろ粗野になったほうがいいと思っているから、「お願いします」と言って命令するよりは、「こうしなさい」と言ってたのむほうがよっぽどましだと思う。わたしにとって大切なのはかれがつかうことばではなく、そのことばにあたえている意味だ。
 
 きびしくしすぎるということもあるが、やさしくしすぎるということもある。どちらも同じようにさけなければならない。子どもが苦しんでいるのをほうっておけば、健康、生命を危険にさらすことになる。子どもを現業に不幸にすることになる。あまりにも用心しすぎて、なんでも不快なことはさけさせようとすれば、将来に大きな不幸をもたらすことになる。子どもは弱くなり、感じやすくなる。
 
いずれにしてもいつかは帰って行かなければならない人間の状態の外へ出すことになる。自然からくるなんらかの不幸をまぬがれさせようとして、自然がもたらさない不幸をつくりだすことになる。あなたがたはこう言うだろう。けっして来ないかもしれない遠い将来のことを考えて子どもの幸福を犠牲にしている、とわたしが非難した悪い父親たちと同じようなことにわたしは落ちこんでいる、と。
 
 そんなことはない。わたしが生徒にあたえる自由は、生徒を苦しませているすこしばかりの苦しみを十分つぐなうことになるからだ。わたしは腕白小僧(わんぱくこぞう)たちが雪のうえで遊んでいるのをながめている。皮膚は紫色になり、こごえて、ほとんど指を動かすこともできない。火に温まりに行こうと思えばすぐ行けるのに、そうしようともしない。
 
それを強制すれば、子どもは寒さのきびしさを感じるよりも、百倍もひどい束縛のきびしさを感じることになる。だから、あなたがたはいったいなにが不服なのか。手どもが進んでがまんしようとしている苦しみをあたえているにすぎないわたしが、子どもを不幸にすることになるのだろうか。子どもを自由にさせておくことによって、現在わたしは子どもを幸福にしているのだ。
 
子どもが耐え忍ばなければならない苦しみにたいしてかれを強くすることによって、わたしは将来の幸福を準備しているのだ。子どもがわたしの生徒になるか、あなたがたの生徒になるか、どちらかを選ばなければならないとしたら、かれがすこしでもためらうようなことがあると、あなたがたは考えているのだろうか。
 
 人間の本質からはずれたところにほんとうの幸福があるなどと考えられようか。人類につきまとうあらゆる苦しみを人間にまぬがれさせようとするのは、人間の本質からはずれたことではないか。
 
そのとおりだとわたしは考える。大きな幸福を知るためには小さな苦しみを経験しなければならない。それが人間の本性だ。体の調子がよすぎると精神的なものは腐敗する。苦しみを味わうことがない人間は、人間愛から生まれる感動も快い同情の喜びも知ることはあるまい。そういう人間の心はなにものにも動かされず、かれは人づきあいのいい人間になることができず、仲間にたいして怪物のようなものになるだろう。
(ルソー著「エミール」岩波文庫 p112-119)
 
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◎子どもをめぐって考察を深めれ深めるほど、社会病理の深刻さを実感します。「子どもの早期教育化はまるで、小さな鞄のなかに、いきなり大量の荷物を詰めこんで破裂させてしまうようなものだ。それによってエネルギーを使いはたし、「燃えつき」てしまう子どもたちがいる」……なんということだろうか。
 
◎「苦しみを味わうことがない人間は、人間愛から生まれる感動も快い同情の喜びも知ることはあるまい。……仲間にたいして怪物のようなものになるだろう。」……。労働学校でくりひろげる人間と人間の関係、重要です。
 
◎運営委員会はこの土曜日から映画:学校≠フ鑑賞会を連続で行い論議を深め労働学校の発展方向を深めようとしています。