学習通信030921
◎社会全体の父性の欠如が、自己愛の肥大化を招いている≠ニいう論調はどこにいきつくのか……。
 
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(日経新聞 030921)
今を読み解く 編集委員 森均
少年犯罪、「自己愛」が誘因 広がる父性の欠如
 
 「おとなしい普通の子だったのに……」。凶悪な少年犯罪が起きるたびに、少年の周辺から、こんな驚きの声があがるようになった。
 昔は、問題児が次第に非行をエスカレートさせて、重大犯罪に至るのが普通だった。「あの子なら」と、ひそかに納得できる部分もあった。ところが今は、特段の問題が見当たらない普通の少年が、いきなり人を殺傷する。「普通」が、少年犯罪のキーワードになった印象さえある。
 
 個々の事件を掘り下げていくと、「普通」では片づけられない複雑な原因、背景が見えてくるものだ。しかし、それらは、少年の人権や関係者への配慮といった少年特有の事情から、情報開示されにくい。結局、事件の詳細が教訓として社会に共有されることなく、「普通の子による不可解な犯罪」として、あいまいなまま処理されがちだ。
 
 まず、事実の解明が必要だ。片田珠美著『17歳のこころ』(NHK出版、二〇〇三年)では、精神病理学者の著者が、豊川主婦殺害、佐賀バスジャック事件など、三年前に連続発生した凶悪少年犯罪六件の詳細な調査、分析を試み、「普通」の裏に潜む少年の心の闇に迫っている。
 
 ●幼児の心のまま
 最近、少年非行を論じる際に、「自己愛」「万能感」という言葉がよく使われる。「自分は何でもできる」と思う幼児期特有の感覚なのだが、この書でも、少年犯罪を解明す
るカギとされる。
 
 子供は通常、思春期にかけての成長過程で、現実とぶつかり合いながら、徐々に自己愛、万能感を捨てていく。世の中には不可能なこともあり、時にはそれを受け入れなければならない、という感覚を身に付けていくのだ。
 
 ところが、幼児期の心を引きずったまま大きくなる子供が増えている。彼らは、自己愛が傷つくことを極端に恐れて引きこもる。または、ささいなことでも傷つけられたと感じると、自らをコントロールできず攻撃衝動を暴発させてしまう。事件を起こした少年には、この傾向が共通して認められたという。
 
 社会全体の父性の欠如が、自己愛の肥大化を招いている、と著者は説く。社会規範を子供に教え、幼児期の自己中心感覚を断念させる役割を担う父親、学校、地域の存在は、確かに希薄になった。少子化、過度の母子密着、仮想世界で自己満足に浸れるインターネットなどが、自己愛、万能感をさらに膨らませる。
 
 ●情報共有が必要
 産経新聞大阪社会部編『誰か僕を止めてください』(角川書店、二〇〇二年)も、事件取材で得た多くの事実を基に、自己愛、万能感の肥大化や父性の希薄化など、同様の問題点を指摘する。平素は、普通に見える少年にも、内面の変化が進行中という。そして、「どうして普通の子が」と頭を抱えているだけの我々に、今こそ情報を共有して、背景にある社会病理を議論するべきだ、と訴える。
 
 被害者、遺族への配慮も大切だ。甘いと見られがちな加害少年の処分に加え、少年審判の非公開、密室性などが、被害者側の憤り、いら立ちを増幅させる。同書は「事件直後だけ話題になるが、結局、何が起きたのか、本当のところが解明されないまま風化していく」という遺族の悲痛な声を伝える。事実の解明を抜きにして、再発防止も被害者救済もあり得ないだろう。
 
 高橋由伸著『非行少年へのまなざし』 (朱鷺書房、二〇〇三年)は、現職の少年鑑別所長が少年たちの実像を現場報告した書だ。著者によれば、非行原因諭は百花りょう乱の趣があるが、的を射た鋭は極めて少ない。事件のたびに噴出する議論も、往々にして、推測に基づく「感想発表」に終始し、有効な防止策の検討にはなりにくいという。
 
 「ひょっとしたら、うちの子も……」という正体不明の不安感ばかりが広がっている。浮足立つ前に、正確な情報を社会で共有し、地道な議論を重ねる必要がある。
 
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<男らしさ>へのこだわり
 
 はじめに
 
 アメリカ合衆国において、レイプ犯罪の加害者の九九%が男性であり、性暴力全般をみても、うち七〇〜九〇%は男性が加害者であるといわれている。また、性暴力における加害者と被害者の関係において、見知らぬ者どうしのケースより、見知った者どうしの間でおこるケースがはるかに多いということもよく知られた事実である。
 
 なぜ男性が女性に対して暴力に向かう傾向が強いかをめぐつては、その背後にある構図について、さまざまな観点から議論が行われている。
 
 代表的なものとして、「性役割のあふれだし理論」とでも呼べるような視点が存在している。具体的には、社会学における性役割論の説明がその典型だろう。男性は能動的で、行動的で、積極的な性役割を与えられている。性暴力は、そうした性役割の延長のなかでそれが過剰にあふれだす形で発生するという視点である。
 
 もうひとつは、最近の一部のフェミニズムの議論のなかで展開されている議論だ。たとえば、あるフェミニストは、男性の性暴力の背後には、男性の生理学的機能にもとづく、ある種の攻撃性があるという議論をしている。
 
 すべてのフェミニスト研究者がこうした視点を支持しているわけではない。しかし、攻撃性は男性の本質であり、それがセクシュアル・ハラスメントやドメスティック・バイオレンス(家庭内暴力)の背後に存在するという議論は、男性の論者のなかにもしばしばみられる傾向である。
 
 しかし、こうした議論は、男性というものをあまりに過剰に一般化しているのではないかという批判もみられるようになっている。男性一般をすべて性暴力の潜在的加害者だとして見る視点は、歴史的、社会的、文化的な文脈によるさまざまな男性のあり方が存在しているにもかかわらず、それを見失っているのではないかという批判である。
 
 へゲモニックな男性性
 しばしば、こうした議論の基礎的文献として前回取り上げたロバート・コンネルの議論が狙上に上る。コンネルの議論は、男性を過剰に一般化するということの危うさをおさえたうえで、むしろ、男性性の多様性をきちんと考えようというものだ。歴史的、社会的、文化的規定性のなかで、さまざまな男性性というものがある。単に暴力を男性の本質と規定しないほうがいいという見地である。
 
 しかし、多くの文化を通じて、共通する男性のこだわりがあるとコンネルは主張する。それを彼は、「へゲモニックな男性性」という概念で提示していることは、すでに述べた。
 
 つまり、男性たちは、自分に対して、自分が男であることを証明するために他者に対する覇権を示さなくてはならない。他人に対して、自分が認められる形で、それを表現しなくてはならない。自己のヘゲモニックな男性性を証明する必要性に、男性はいつでもとらわれている、という観点である。
 
 たとえば、『ハイト・リポート』を書いた、シェアー・ハイトの『ハイト・リポート男性版』(中尾千鶴監訳、中央公論新社、一九八二)などを読むと、こうした男性たちの<男らしさ>へのこだわりの姿がよく理解できるだろうと思う。
 
このレポートには、男性が自分のペニスの大きさや、持続時間の長さや、性関係をもった女性の数、といった性的能力における自己の大きさ、大量さ、というものに対してたいへん強いこだわりをもっていること、また逆に、自分の小ささ、少なさに対する負い目があるということが、たいへん生々しく描き出されているからである。
 
 男性たちが感情表現ができない、ということもこのレポートでは、はっきりと指摘されている。たとえば、「男は怪我をしても我慢し、泣いたり、愛情を大っびらに表現したり、他人の感情に反応をみせたりするべきではない。男が激しい感情や、やさしい気持を表すと、身の置きどころのない気持になる」という声などが取り上げられているのである。
 
 あるいは、「どうかすると、感情を露わにしないことがある。ひとりで処理できるんだと自分に言い聞かせてしまうのだ。ロボットになったような気分になるのはしょつちゅうだ」。「自分の感情に正直になろうとするのだが、自分で自分の感情を認めるのがいちばん難しいんだ。いつでもすべて『うまく』いっているふりをする習性ができあがっちゃってるんだ −きっと『泣くな』という訓練と、『男であれ』という訓練のせいだと思う」という声もある。
 
 なかには、「おれは、いつもオトコになりたいと思ってきた」「男は常に自信に満ちていて、度胸があり、自制心がなくてはならない」とか、「男らしさとは、押し出しと、自信と、強さと、声によって決まると思う」とか、直裁的に男性たちの<男らしさ>に対するこだわりが赤裸々に善かれている。
 
 こうしたものを読んでいると、「男は強くなければいけない」、「男は感情を表に出してはいけない」、「男は女をリードしなければいけない」といった、男性の<男らしさ>に対するこだわりというようなものがたいへんよく読みとれる。
 
 <男らしさ>の三つの指向性 − 優越、所有、権力
 こうした男性の<男らしさ>へのこだわり、ヘゲモニックな男性性という議論をめぐつて、ぼくは、これを三つの指向性から分析することを以前から提案してきた。つまり、優越指向、所有指向、権力指向という視点である。
 
 優越指向とは他人より優越していたい、勝負に勝ちたいという心理的傾向である。所有指向とは、できるだけたくさんのモノを所有したい、しかもそれを自分のモノとしてコントロールしたいという心理的傾向を指す。さらに、権力指向とは、自分の意志を相手に押しっけたいという心理的傾向である。
 
 こうした心理的傾向は、女性にももちろん存在するだろう。しかし一般的にみたとき、こうした心理的傾向は、男性のなかにより強い形で存在しているといえるだろう。
 
 小さい頃からのトレーニングのなかで、男性たちは、このような指向性を身につけている。だから、男性どうしの間では、この三つの指向性をめぐる争いはしばしば行われる。どちらが優越しているか、どちらがより良いモノをより多く所有しているか、どちらが相手に自分の意志を押しっけられるかというゲーム(ある目的をめぐる対立、協力、交渉、妥協などの相互行為プロセス)が、(特に中高年以上の)男性間で繰り返される様は、多くの人が気づいていることだろう。
 
当然、このようなゲームは、勝者と敗者を生み出す。また、すべての男性が勝者になれるわけではない。その意味で、男性の多くは、男性どうしの争いにおいては、状況によっては、敗者としての対応を迫られることになるし、また敗者としての対応もそれなりに身につけている。
 
 しかし、このゲームが、異性、つまり女性との間で開始されたとき、男性たちはどのような対応をとるだろう。というのも、男女関係ということになると、男性たちにとって、これはしばしば、絶対負けられないゲームになりがちだからである。「男は女に対して優越していなければいけない。女に負けるようなのは男ではない」、「(『獲得』するまではともかく、いったん 『所有』 したら)女性をきちんと管理できなければ一人前の男ではない」、「男は女に対して自分の意志を押しっけられなかったら男ではない」。
 
こうした、男性たちの女性に対する支配(ヘゲモニー) への傾向は、しばしば観察できるのではないだろうか。しかも、男性たちは、こうした指向性を、無自覚のまま自分の中に身体化させてしまっているのではないか。
 妻が夫より出世してしまったとき
 よく例としてあげるのだが、最近、夫婦共働きのカップルで、妻のほうが先に出世してしまうというケースが烏る。このようなとき、男性たちはどうするだろうか。
 
 多くの場合、このゲームは、男性にとって負けられないものになりがちだ。というより、男性の側の負けを認められないのだ。「お前が俺より先に昇進して俺はくやしい」と言えればいいが、それが言えない。自分が出世競争で負けたことを認めたくないがゆえに、別の場面で、自分の優越性を示そうとする。
 
それは、妻へのいやみであったり(「出世したからって、ちょっといばっているんじゃないか」、「家庭をおろそかにするな」などなど)、ときには、暴力的な行為に発展するケースもあるだろう。負けが認められれば関係はうまくいくはずなのだが、身近な女性に対して負けがどうしても認められないのだ。
 
 所有指向においても、具体例は身近にたくさん存在している。以前、ある講演会で、こんな質問を受けたことがある。
「子育ても終わって、さてパートにでもと思ったら、夫が止めるんです。俺の稼ぎでは食えないのかと言う。私は、経済的な理由からだけでなく、時間もあるし、もう一度社会に出て自分というものを試したいから、仕事がしたいと言うのだけれど、どうしても夫は認めてくれないんです。なぜなんでしょう」
 
 ここにも一種の所有指向があると思う。言葉は悪いが、妻を「所有物」として管理しておかないと安心できないのだ。
 
 こう言うと、所有指向というのは、むしろ女性のほうが強いのではないかという意見もあるかもしれない。たとえば恋愛関係のなかで、男性を所有して離さないというのは、むしろ女性に見られる現象ではないかという批判である。
 
 ただ、女性と男性には、ここでも違いがあるように思う。つまり、ここでいう男性の所有指向は、対象をモノとして管理するということだからだ。逆に、恋愛関係における女性の所有指向というのは、しばしば人格的所有になりやすい。言い替えれば、精神的な絆が重要なのだ。これに対して、男性は、先ほどから述べているように、精神的な絆以上に限りなく客観化したモノのような存在として管理しようとする傾向が強いように思うのだ。
 
 権力指向についても、例はいくらでもあげられる。たとえば、夫が妻に「おーい、お茶」と言う。しかし、妻は気づかないのかお茶をいれる気配がない。こんなとき、中高年の男性のなかには、怒りを露わにする人がいるのではないだろうか。
 
 しかし、この怒りは、飲みたかったお茶が飲めないことから生じたものではないだろう。お茶が飲みたかったら自分でいれればいいだけのことだ。問題は、自分の意志を妻に押しっけることができなかったということから生じているのだろう。まさに、権力指向なのだ。
(伊藤公雄著「「男らしさ」という神話」NHK人間講座 p47-54)
 
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 ところで、君たち共産主義者は女性共有制を採用しょうとしていると、ブルジョアジー全体はわれわれに反対する叫びを合唱する。
 
 ブルジョアは、自分の妻をたんなる生産用具と見ている。彼は、生産用具が共同で利用されるべきだと聞くと、当然、共有の運命が女性にも同じようにあてはまるであろうとしか、考えつくことができない。
 
 問題はまさに、たんなる生産用具としての女性の地位を廃止することにあるとは、ブルジョアは感づかないのである。
 
 そのうえに、共産主義者のいわゆる公認の女性共有制についてのわがブルジョアたちの高潔なおどろきほど、笑うべきものはない。共産主義者は女性共有制を取り入れる必要はない、それはほとんどつねに存在していたのである。
 
 わがブルジョアたちは、公認の売春制度のことはまったく問わないとしても、彼らのプロレタリアたちの妻や娘を自由にすることで満足せずに、彼らの妻を互いに誘惑しあうことを最高の楽しみとしている。
 
 ブルジョア的結婚は、現実においては、妾たちの共有である。ひとが共産主義者を非難できるとしても、せいぜい、共産主義者が、偽善的におおい隠された女性共有制の代わりに、公認の、公然たる女性共有制を取り入れようとしている、ということくらいであろう。
 
それはともかくも、現今の生産諸関係の廃棄とともに、それから生ずる女性共有制、すなわち公認の、および非公認の売春制度もまた消滅するということは自明である。
(マルクス・エンゲルス著「共産党宣言」新日本出版 p80-81)
 
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◎少年犯罪が頻発するなかで男らしさ、女らしさ≠フ話題が集中しています。この論議が何処にいくのか警戒の必要があると思います。
 
◎女性観……深くとらえてください。階級社会における女性の地位、資本主義社会においてどのような様相でしょうか。日本社会の現実においても非公認の売春制度#ヴэtがおこわなわれているのではないでしょうか。