学習通信030924
◎子どもを教育しょうと考えて以来、人は子どもを導いていくために、競争心、嫉妬心、羨望の念、虚栄心、貪欲、卑屈な恐怖心、といったようなものばかり道具につかおうと考えてきた
 
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 「戦い」の評価
 
 個性を伸ばそうとする者は、何らかの「戦い」を避けることはできない。他と異なるものとしての自分の存在を現わしていこうとする限り、他との衝突が生じる。しかし、そのような「戦い」や「衝突」によってこそ、人間は磨かれていくのではなかろうか。一神教としてのキリスト教を信じている文化圏では、結局は「正しい者が勝つ」という信念が強い。
 
このことは「勝った者は正しいはずだ」という考えにつながってくる。従って、生じてくる戦いを避けたり、なくしたりして世界の秩序を保とうとするのではなく、戦いを「公平に」やろうと努力することになる。戦いがフェアに行なわれる限り、勝った者は正しい者だ、と考えるのである。
 
 戦いと言ってもいろいろある。教育の場面で欧米で認められている戦いの最たるものは、「論戦」ではなかろうか。それに勝つことによってこそ「正しい」ことが証明される。
 
 これに対して日本では、「身内」のなかでは論戦をさえ嫌う。日本人は欧米人の好きなディスカッションが苦手である。日本人はたとえディスカッションであれ、相手と対決することは「敵」と見なしていると思われないかという危惧を感じてしまう。
 
「身内」か「よそもの」か、の判断が先行し、よそものとはいくらでも戦うが、それは勝つことが目標になり、ディスカッションを通じて共に新しい、正しいことを見つけようとする姿勢とは異なるものになる。日本の学校内にディスカッションの機会や訓練の場を与えることは、今後大切な課題となることであろう。
 
 これを実現していくためにまず行なうべきことは、教師が(小学校から大学まで)、教師と生徒という潜在的身分意識を超えて、個人と個人として意見を述べ合うことの大切さをよく自覚し、それを実行していくことであろう。
 
障害者の社会進出の運動にとりくむ牧口一二氏は、障害者問題をともに考えるために学校をまわって講演を続けておられるが、その記録において、子どもたちとの会話のやりとりにわれわれが感動するのも、「教える者」と「教えられる者」、「障害のある者」と「障害のない者」といった区分けを排して、両者が人間と人間としてまっすぐにぶつかり合っているからだと思われる。
 
あるいは子どもの表現をめぐってユニークな活動を続けておられる鹿島和夫氏がつくる学級文集「あのねちょう」においても、子どもが教師に対して臆せず自分の意見や感情を表現できるような状況を、鹿島和夫がつくっているから可能なのである。そのことを知らず、一年生担任の教師が単に「あのねちょう」を子どもに書かせても、意味深い詩作品は生まれて来ないだろう。日本の教師がこのような点を自覚することによって、日本の学校も変っていくだろうと思う。
 
 既に述べた日本の一様序列性、しかもそれを身分にして固定しょうとするはたらきなどに嫌悪を感じる人は、よく日本の欠点として「競争社会」ということを強調するが、それは見当違いだと筆者は考える。
 
「競争」という点から見れば、欧米の方が日本とは比較にならない競争社会である。日本人で「競争」を排しようとする人は「平和共存」を唱える。これも一理あるが、それは欧米とはまったく異なる考えであり、それを国際社会のなかで押し通すのは並大抵のことではないという強い自覚がいる。
 
そして、「平和共存のためにはいかなる敵とも戦い抜く」などという矛盾したことを、どのように表現していくかについて相当な工夫がいることも認識していなくてはならない。国際社会に生きることは、大変なことである。
 
 競争そのものが問題なのではない。一時的な競争の結果として一様序列を決定し、それを身分のように考えるところが問題なのである。しかもこの考えの基礎に絶対平等感があることを知っておく必要がある。さもなければ、競争をなくして皆平等であることを強調すればするほど、無意識的に日本的序列をどこかで生み出すことになるからである。
 
 これからの日本の教育は、競争をなくすのではなく競争は必要な限り行ない、論争も歓迎するが、その勝負によって人間の価値を決めてしまわない、という方向に向かうべきだと思われる。人間の個性ということが明確にわかり、人間のほんとうの価値ということがわかってくると、学科やスポーツなどの優劣によって人を測ることなどしなくなるだろう。
 
 欧米は日本よりもはるかに競争社会であると述べた。競争をなくすことよりも、それをいかにフェアに行なうかに努力を傾けてきた。そして、競争のなかで勝ち抜くため、各人が自分を精一杯に表現し、その個性を打ち出すことによって社会も進歩していく、と考える。
 
これはこれで立派なことであるが、それではその戦いに敗れていく者はどうなるのか、ということが日本人としては心配になってくる。そして、アメリカに行き、現実に失業者や犯罪者が多く、凶悪犯罪の多いことを知ると、アメリカの教育に対しても疑問を感じさせられる。
 
 こんな点で私はジレンマを感じざるを得ない。アメリカを模範とは考えられないし、さりとて日本の教育の欠点は、既に述べたとおりである。このジレンマの解決は、灰谷健次郎さんが「登校拒否」の中学生の作文を引用して論じている例を用いるなら、特急列車と普通列車に同時に乗り込むようなことである。それは不可能である。
 
ではどうすればいいのか。おそらくこれは、明確な「目的地」を前提としてのイメージなので、うまく使用することができないのであろう。そもそも、人間の個性を考える限り、目的地もさまざまであろうし、もっと徹底して考えると、そんな明確な目的地など、はじめから誰もわかっていないと言える。
 
従って、ある人にとってあるときには、特急が適切かも知れず、鈍行が必要なときもあるだろう。それらに対して速断した評価を与えることなく、まっとうにつき合っていくとなると、教師の役割というものは大変なことになるが、考えてみると、これからの日本の子どもたちがこのような道を歩むのだから、教師も覚悟をあらたにしなくてはならないのだろう。
(河合隼雄著「日本文化のゆくえ」岩波書店 p60-64)
 
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 生徒をその年齢に応じてとりあつかうがいい。まずかれをその場所において、そこにしっかりとどめておき、そこから抜けだせないようにすることだ。そうすれば、知恵とはどういうものかを知るまえに、子どもはもっとも重要な知恵の教えを実行することになる。
 
生徒にはぜったいになにも命令してはいけない。どんなことでもぜったいにいけない。あなたがたはかれにたいしてなんらかの権威をもつと思っていることを子どもに考えさせてもいけない。
 
生徒にはただ、かれが弱い者であること、そしてあなたがたが強い者であることをわからせるがいい。かれの状態とあなたがたの状態とによってかれが必然的にあなたがたに依存していることをわからせるがいい。それを知らせ、それを教え、それをわからせるがいい。
 
かれの頭上には、自然が人間にくわえるきびしい束縛が、必然の重いくびきが課せられていること、あらゆる有限な存在はそれに頭をたれなければならないことを、はやくからさとらせるがいい。その必然を事物のうちにみいださせるがいい。けっして人間の気まぐれのうちに見させてはならない。
 
かれをおしとどめるブレーキは力であって、権威であってはならない。してはならないことを禁じてはいけない。なんの説明もしないで、議論もしないで、それをするのをさまたげるがいい。
 
かれにあたえるものは、懇願されなくても、嘆願されなくても、なによりも無条件で、最初にくれと言われたときにあたえるがいい。こころよくあたえるがいい。ことわるときは遺憾な面持ちでことわるがいい。しかし、ことわったらぜったいにそれを取り消さないことだ。
 
どんなにせがまれても心を動かされてはいけない。「だめ」といったら、このことばは鉄の扉であってもらいたい。それにたいして子どもは、五回か六回、力をつかいはたしたあげくにはもうそれを打ち破ろうとはしなくなるだろう。
 
 そういうふうにすれば、ほしいものがもらえないときでも、忍耐づよく、むらがなく、あきらめのいい、落ち着いた子どもにすることができる。人間の本性は事物からくる必然にはじっと耐えることができるが、他人の悪意にたいしてはがまんできないのだ。
 
「もうないから」ということばは、それにたいして子どもがけっして反抗したことがない返事だ。もっとも、それはうそだと子どもが考えるばあいは別だ。それにまた、こういうときには中間の道はない。
 
子どもにはぜんぜんなにも要求しないか、それとも子どもをはじめから完全に押さえつけるか、いずれかにしなければならない。いちばん悪い教育は子どもを自分の意志とあなたがたの意志とのあいだに動揺させ、あなたがたと子どもと、たがいに勝とうとして、たえず言い争いをすることだ。そんなことをするくらいなら、子どもがいつも勝っているほうがはるかにましだと思う。
 
 まことに奇妙なことに、子どもを教育しょうと考えて以来、人は子どもを導いていくために、競争心、嫉妬心、羨望の念、虚栄心、貪欲、卑屈な恐怖心、といったようなものばかり道具につかおうと考えてきたのだが、そういう情念はいずれもこのうえなく危険なもので、たちまちに醗酵し、体ができあがらないうちにもう心を腐敗させることになる。
 
子どもの頭のなかにつぎこもうとする先ばしった教訓の一つ一つはかれらの心の奥底に悪の種をうえつける。無分別な教育者は、なにかすばらしいことをしているつもりで、善とはどういうことであるかを教えようとして子どもを悪者にしている。そのあとでかれらはわたしたちにむかっておごそかな口調で言う。「人間とはこうしたものだ。」そのとおり、きみたちがつくりあげた人間はそうしたものなのだ。
 
 人はあらゆる手段をもちいるが、ただ一つだけはもちいない。しかもこれだけが成功に導くものなのだ。それはよく規制された自由だ。可能なことと不可能なこととについての法則だけで子どもを思うままに導いていくことができないなら、子どもを教育しょうなどと考えてはならない。
 
可能なことと不可能なこととの範囲はどちらも子どもにはわかってはいないから、子どもを中心にして思うままにそれをひろげたり、ちぢめたりできる。わたしたちは子どもを束縛し、押しやり、ひきとめる。ただ、必然の絆をもちいてそうするのであって、子どもがそれにたいして不平を言えないようにする。
 
事物の力だけで子どもを柔軟に、そして従順にして、子どものうちにどんな悪も芽ばえさせないようにする。なんの結果ももたらさないかぎりは、けっして情念は刺激されることはないからだ。
 
 ことばによってどんな種類の教訓も生徒にあたえてはならない。生徒は経験だけから教訓をうけるべきだ。どんな罰もくわえてはならない、生徒は過ちをおかすとはどういうことか知らないのだから。けっしてあやまらせようとしてはならない、生徒はあなたがたを侮辱するようなことはできないのだから。
 
その行動にはいかなる道徳性もないのだから、生徒は罰をうけたり、しかられたりするような、道徳的に悪いことはなに一つすることができない。
 
 わたしにはもうよくわかる。恐れをなした読者は、そういう子どもをわたしたちのまわりにいる子どもとくらべて考えてみるだろう。それは読者の思いちがいだ。あなたがたが生徒にくわえているたえまない拘束は、活発な生徒の心をいらだたせる。
 
あなたがたがいるところでは拘束されているだけに、そこからのがれると生徒はいっそうひどくさわぎたて、それができるばあいには、どうしてもくわえられているきびしい束縛の埋め合わせをしなければならない。
 
都会の二人の生徒は村ぜんたいの子どもよりもっとひどく村を荒らしまわることだろう。りっぱな家の子どもと農夫の子どもを同じ部屋に閉じこめてみるがいい。農夫の子どもがまだじっとしているうちに、りっぱな家の子どもはなにもかもひっくりかえし、ぶちこわしてしまうだろう。
 
なぜか。しばらくのあいだあたえられた放任状態を、一方はいそいで濫用しょうとするが、もう一方の子どもは、いつも自分が自由であることを知っているので、いそいでその自由をもちいるようなことはけっしてしない。そのほかに理由は考えられない。しかも農村の子どもも、たいていは甘やかされたり、意志をさまたげられたりしていて、わたしがこうあってほしいと考えている状態からははるかに遠いところにあるのだ。
(ルソー著「エミール」岩波文庫 p127-130)
 
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◎学校での競争≠フなかで「強迫観念」にかられた青年が労働学校に参加してきます。講義を学んで答え(正解)探し≠ェはじまります。そんな答えはないよ≠ニいってもあるんでしょう あたってますか?=@3ヶ月あまりの労働学校生活で徐々にですが解放されてきます。
 
◎労働学校・運営委員会で映画学校≠フ観賞を始めました。深く学びとってほしいと。労働学校をイメージとしてとらえるための計画です。たんなる観賞≠ネらつまらないものになるでしょう。運営委員会でとりあげる必要はありません。