学習通信030925
◎日本には間違った平等思想、間違った反競争思想が存在している。──他者と競争すること自体が、反社会的とする勢力がある。そこでは人間の根源的関係を見いだす……
 
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二十世紀の世界、殊に先進国の社会と個人について深い影響を及ぼした人に社会と歴史についての、カール・マルクスと人の心の分野でのジグマント・フロイトがいる。
 
 共に大胆な理論によって、社会や人間の心を分析し、一般的と称する理論を打ちたてたが、両者ともに、二十一世紀の今日、理論が実証性を欠くとして、批判されるようになっている。それにもかかわらず、マルクスの資本主義社会での、貧富の差の拡大傾向への理由づけと、その改良への提言は、将来とも長く影響力を持つであろう。
 
 それと同様に、フロイトの理論も、それが実証性を欠くとして、今世紀中には批判の対象となり、やがては誤った理論として、精神病、神経症についての理論の歴史の中に残る存在になってしまうことであろう。
 
 しかし無意識という問題を心理学、精神病理学の中に持ちこんだという点で、フロイトの業績は、マルクスの資本主義の毒の発見と共に、長く残るであろう。
 
 私たちは確かに自分の行動をすべて意識している訳ではない。私たちが生きているのは体の生理現象がその機能を果たしているからだが、そのすべてを意識しない。心臓は私たちが生きている限り動いているが、その運動を我々は意識することは希である。
 
 心臓は敵に会ったり、私は男だから美しい女性に会ったり、自分が社会的に重大な場に直面している、と思う時には心臓は高鳴る。勿論、激しい運動をして、全身に大量の血液の供給が必要になっても、心臓の鼓動は激しくなる。
 
 私は長距離走をしている時に、基礎体力を計るために、順天堂病院でさまざまな検査を受けたことがある。その中で心臓の限界を計るために、心臓が止まってしまった場合に備えて、電気ショックを与える機械を傍らに、ランニングマシンを使って極限の速度で持久走をした。もう耐えられないという時の脈拍数を計り、後は寝台に横になって、平常の脈に戻る時間を計測するのである。
 
 一分置きに脈拍を計るのだが、ほとんど平常脈にもどると、私は退屈してきた。そして帰りに何処で昼飯を食おうか、などと考えているうちに、順天堂病院にくる途中、お茶の水の駅からの道で美しい女性に会ったことを思いだした。その途端、脈拍が上がった。
 
 脈拍数を計ってくれていた医師が、
「おや、ちょっと上がりましたね、どうしたんでしょう」
と言ったが、それは美しい女性が私の心と体に影響を与えたのである。
 この際の脈拍の上昇もまた無意識である。だから無意識、というか、人間の肉体や心に人が意識せずに、反応する機能があることは疑いをいれない。
 
 私の父は私に教えた。
「とにかく好きなことをやっていろ、可愛い女の子の名前は一度で覚える。いやいや覚えた歴史の年号など、試験が終って三日もすれば忘れる」
 父の教育方針も極端だが、美しい女性に対する時のさまざまな生理的反応が、意識の世界にも反映して、彼女の名前や電話番号を一度で記憶させることになることは確かであろう。たとえ美しい女性と知っても、私が彼女らと交渉をもてるとは限らないのだし、ましてや彼女らとの問に深い関係をもつことは社会が許してはくれない。
 
 それは私が社会的存在で、反社会的行動を取れば、社会生活が不可能になることも、理由の一つである。私の彼女らに近づきたいという意欲は、ブレーキをかけられ、接触する機会があっても、あくまでも社会が認めてくれる範囲内にとどめようとする。
 
 つまり私は社会生活を円満? に営んでゆく上で、私の欲求の多くはブレーキをかけられる。ブレーキをかけられた欲求は、日常生活の中で活動を許されることもなく、次第に忘れられてゆく。石川啄木の作品に、
 
 砂山の砂にはらばい初恋の
    痛みを遠く思いいずる日
 
 とあるが、その時には幾らか心臓の鼓動は増えるものの、初恋に悩んだ日々の時ほどではあるまい。それにしても、何故、砂山にはらばっている時に、そのことを思いだしたのだろうか、初恋の日々のある事件、ある時につながるものが、その砂山に、そしてその時の姿勢にあるのだろうか。
 
 いずれにせよ、私たちの心には確かに無意識の世界があり、そこに多くの思い出や欲求が埋めこまれていて、それが時にはストレスといわれる心身症状をおこすことは、まず間違いないらしい。
 
 今日本の社会に、殊に若い人の間に、セックスレスとでもいうべき状態があるとするなら、そこでは性的意識を無視し、それを無意識の世界に追いこもうとする社会的圧力があることも、理由の一つかもしれない。
 
 男性は社会生活において、女性を性の対象としてばかり見ることは許されない。第十二章で書いたたとえを使うなら、円と正方形の交差した部分だけで接しなければならないのである。女性も男性に対して、男女平等という理由で、完全に同じ待遇を要求しなければならず、そこでは彼女も女性であることを忘れて、いわばユニセックスの状態で行動しなければならない。
 
 一時期、父親の復権ということが言われたが、それは父親が父親らしさを失い、母親の変形のような形になったことを、憂えたのである。しかしそういう生理的な性、セックスも、役割としての性、ジェンダーもない家庭で育ち、男女平等というモットーを、男女同質という意味に取り違えた教育を受けた若い世代は、女の誇り、男の自信を失おうとしているのではないか。
 
 女らしさを生理的存在としての肉体のみを根拠とし、その誇りを女性として肉体的に美しくあることにしか認めない娘。そして自分の肉体を性欲の満足を得る道具としてしか考えず、幼児的男らしさで満足している若者。一度は批判したのだから、フロイトをあまり引用したくはないのだが、一つの仮説として引用するなら、彼はリビドーという用語で人間の生きる意欲を説明した。
 
 これはラテン語で欲望を意味する単語で、それをフロイトは最初は「性的エネルギー」の意味に、後には性的エネルギーを根拠としながらも、それに起因するさまざまな力──奮闘心とか物事を達成しようとする意欲など──、そして自己保存の本能的力も、この単語で現した。フロイト的に言えば、日本の現代の若者はリビドーが希薄というか、それが無意識の枠の中に深く埋めこまれている、と言えるのかもしれない。簡単に言えば、生きる意欲が薄弱なのである。
 
 またフロイトは抑圧されたリビドーの働きの一つである攻撃性の一種として、自己への攻撃性、死の衝動の存在があるとも言っている。
 
 今の日本には間違った平等思想、間違った反競争思想が存在している。そこでは自分が他者と違う存在になること、他者と競争すること自体が、反社会的とする勢力がある。そこでは人間の根源的関係を見いだすべきホモとヘテロの自覚は、無意識の底に埋めこまれてしまいがちである。
 
 もしこのような傾向が、日本の若者の無気力と日本社会の非活性化の妨げになっているとするなら、もう一度、人間の行動の強いエネルギーを供給する性の意識と自覚をとりもどすべく、われわれは努力すべきではないだろうか。
(三浦朱門著「「生きる力」と「性」を考える」青春出版社 p214-219)
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社会には、個人にとっての安心のよりどころが必要。かつては「会社」が最大のセーフティネットだった
 
 いま、日本の多くの企業が変わろうとしています。とくに、これまで規制に守られてきた産業は、本格的な競争を余儀なくされますから、その産業に勤めている人は非常に厳しい状況に直面することになります。人員の削減や賃金の抑制といったリストラは、現在が不況だからというだけではなく、仮に景気がよくなっても続くと考えておいたほうがよいでしょう。
 
 このことは、先にも述べたように、新たなことにチャレンジできるチャンスだととらえることもできます。これまでの規制から解き放たれて、能力のある人は画期的なことに挑戦することも可能になります。ただ、ここで一つ問題なのは、本格的な競争が起これば、ある種の確率で失敗者が出るということです。
 
 もちろん、競争なのですから、勝つときもあれば負けるときもあるのは当然です。したがって、敗者が出ること自体は問題ではないのです。ただし、負けた場合に、再チャレンジできるような社会でなければ、これは人間にとって耐えられない社会となります。おそらく、いくら精神的にタフな人でも参ってしまうでしょう。
 
 そこで、敗者復活の仕組みが非常に重要になってきます。
 個人というのはとても弱い存在です。いかに能力があり、いかに頑張ることができる人でも、何らかの安心のよりどころが必要です。
 
 かつては、「会社」が非常に安心できるよりどころとなっていました。そのため多くの人は、会社に不満がなかったわけではないけれども、辞められなかったのです。何しろ、不況になってもよほどのことがない限りはボーナスも支給されますし、勤続年数とともに給料を自動的に上げてくれていました。
 
大手の銀行などの場合は、第二、第三の就職先までめんどうをみてくれたのですから、個人にとって最大のセーフティネットは会社だったといって間違いありません。
 
セーフティネットが整備された社会なら
四回コケても五回目で大成功することも
 
 ところがその会社が、環境変化のなかで社員を丸抱えすることができなくなりつつあります。したがって、会社に代わる安心のよりどころであるセーフティネットを、今度は社会がつくつていかなければなりません。それは失業保険であったり、あるいは、時代の変化によって自分の技術が通用しなくなったときに改めて技術教育を受けられるようにする補助制度といった仕組みです。
 
 多くの産業で本格的な競争が起きつつある今日、そうした仕組みが切実に求められているのですが、まだつくられていないというのが日本の現状です。いまの日本でセーフティネットという場合には、二部の弱者と称する人たちのための政府丸抱えの制度や政策をいいます。これはほんとうの意味のセーフティネットではありません。セーフティネットと施しは違います。
 
 セーフティネットは、あくまで自らが努力して頑張る個人を前提に、その頑張ろうとする意思を支えるシステムです。教育訓練であるとか、ある程度の年齢になれば能力が落ちていくのは不可避ですから、そこで必要になる年金の制度などが、まさに求められているセーフティネットでしょう。
 
 セーフティネットが整備されていれば、四回コケても五回目に立ち上がり大成功をおさめる″といったことも不可能ではなくなります。そうしたチャンスが与えられる爽やかな社会になってほしいと切に思います。
 
 
だれでも夢にチャレンジできる機会が大切。IT時代は下手をしたら格差が広がる一方になる
 
 もう一つ大切なのは、だれにでもチャレンジする機会が与えられるということです。
 たとえば、大成功して大金持ちになった人がいたとします。こうした例がたくさんあって、それを見た人たちが、自分もああなりたい、と思う社会はよい社会だと思います。ただし、その夢にチャレンジできるチャンスがみんなに与えられていなければ意味がありません。
 
あの人のようになりたいけれども自分は挑戦するチャンスがない、という社会は最悪です。機会の平等を確保すること、だれもがグローバリゼーションやIT革命というチャンスに挑戦していける仕組みが重要になるのです。
 
 ITの時代、デジタルの時代になればなるほど、個人の所得格差が出てきます。デジタルデバイドという言葉がよく使われるようになっていますが、デジタル技術が使える人と、そうでない人とは大きく分かれてしまうということです。
 
 アメリカでデジタルデバイドという言葉が出てきた後、今度はデジタルオポチュニティ(機会)という言葉が使われるようになりました。これが意味するところは、挑戦の挽回が与えられなければ、貧しい人はいつまでたってもデジタル技術を使うことができません。ですから、だれもがデジタル技術を使える機会を確保する仕組みが必要だ、ということです。
 
 けっして難しいことではないはずです。政府にやる気があればすぐにでも実現できることではないかと思います。
(竹中平蔵著「みんなの経済学」幻冬舎 p173-176)
 
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 どんな種類の動物も当然に、彼らの生存手段に比例して増殖するのであり、それを超えて増殖しうるような種類の動物はけっしていない。しかし文明社会では、生活資料の乏しさが人類のより以上の増殖を制限できるのは、下層階級のあいだだけであり、しかもそれは、彼らの多産な結婚が生みだす子どもたちの、大きな部分を死亡させるというしかたでしか、制限できないのである。
 
 労働にたいして気前よく報酬が与えられると、労働者はその子どもたちに、よりよいものを提供できるようになり、したがってまた、もっと多数の子どもたちを養育できるようになるから、増殖の限界は自然に拡大延長される傾向がある。
 
このことば、労働にたいする需要が必要とする割合に可能なかぎり対応して必然的におこるのだということもまた、一言に値する。この需要がひきつづき増加するならば、労働の報酬は必然的に労働者の結婚と増殖を促進し、その結果彼らは、ひきつづき増加する需要をひきつづく人口増加によって充足しうることになる。
 
いつであれ、もし報酬がこの目的に必要な額以下であれば、人手の不足が報酬を引き上げるだろうし、また、もし報酬がそれ以上であれば、人手の過度の増殖がまもなくそれをこの必要な率に引き下げるだろう。市場は、一方のばあいには労働供給が不足であり、他方のばあいには労働供給が過剰なのだから、遠からずその差だけ、労働の価格をその社会の事情が必要とする適当な率まで引きもどすだろう。
 
このようなしかたで、人間にたいする需要は、他のどんな商品にたいする需要とも同じように、必然的に人間の生産を規制し、その進行があまりにゆるやかなときには促進し、あまりにも急速なときには停止させるのである。
 
世界のさまざまな国のすべてで、すなわち北アメリカで、ヨーロッパで、そしてシナで、人間の増殖の状態を規制し決定するのは、この需要なのであり、この需要が北アメリカではそれを急速に進行させ、ヨーロッパではそれを緩慢で漸進的なものとし、シナではそれをまったく停滞的なものとしているのである。
 
 奴隷の消耗は主人の経費負担となるが、自由な使用人の消耗は本人白身の負担になるといわれてきた。しかし後者の消耗も、実際には、前者の消耗と同じように、主人の負担となるのである。あらゆる種類のやとい職人や使用人に支払われる賃金は、職人や使用人にたいする社会の需要が増加しているか、減少しているか、停止的であるかによって必要とされる程度に応じて、その層を大体において存続させうるようなものであるにちがいない。
 
しかし自由な使用人の消耗も同じく主人の負担になるにしても、それは一般に主人にとって奴隷の消耗よりもはるかに少なくてすむ。奴隷の消耗を補充ないし修復──といっていいなら──するのにあてられる基金は、一般に怠慢な主人あるいは不注意な監督者によって運用されるのがふつうである。
 
自由人について同じ役目をはたすのにあてられる基金は、自由人自身によって運用される。富者の経済を支配するのがふつうな乱脈は、自然に奴隷の管理にもはいりこむ。貧者のきびしい節約とけちな配慮とは、自然に自由人の経済にもあらわれる。そのようなことなる管理のもとでは、目的は同じでもその実行に要する費用の程度はきわめてことなったものとならざるをえない。
 
したがって、自由人によってなされる仕事のほうが、奴隷によってなされる仕事よりも結局は安くつくということは、あらゆる時代、あらゆる国民の経験から明らかだと私は信じる。ふつうの労働の賃金があれはど高いボストン、ニュー・ヨーク、フィラデルフィアでさえもそうであることがわかっている。
(アダム・スミス著「国富論」岩波文庫 p144-146)
 
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 ここからまた、アダム・スミスが(前掲書(〔133ページ〕)次のような命題をたてているのは、まったく正しいということになる。「労働者にたいする需要は、なにかほかの商品にたいする需要と同じように、労働者の生産、つまり生産される人間の量を、規制し、その生産の進行があまりに緩慢であればこれを促進し、あまりに急速であればこれをとめる」。
 
ほかのすべての商品とまったく同じように──労働者が少なすぎると、価格、つまり賃金は上昇し、労働者は楽になり、結婚がふえ、いっそう多くの人間が生まれ、いっそう多くの子どもが育ち、ついには十分な数の労働者が生産されることになる。労働者が多すぎると、価格が下がり、失業、貧困、飢餓が生じ、その結果、伝染病が生じ、「過剰人口」を奪いさる。
 
そしてマルサスが先にのべたスミスの命題をいっそう詳しく展開し、過剰人口はつねに存在し、世界にはいつも人間が多すぎると主張しているのも、彼なりにやはり正しい。ただ、彼が、現在ある生活手段では養いきれないぐらい多くの人間がいると主張しているのが間違っているだけである。過剰人口はむしろ、すべての労働者が体力のゆるすかぎり毎日精一杯働かなければならないようにしている、労働者同士の競争によって生みだされているのである。
 
もし、ある工場主が一〇人の労働者を毎日九時間働かせることができるとしても、もし労働者が一〇時間働くなら、九人しか仕事につくことができなくなり、一〇人目は失業するであろう。そして、もしこの工場主が、労働者にたいする需要があまり大きくないときに、この九人の労働者に解雇というおどしをかけて、同じ賃金で毎日一時間余分に、つまり一〇時間働くよう強制することができるなら、一〇人目を解雇して、その賃金を節約することができる。
 
ここで小規模におこなわれていることは、一つの国民について大規模におこなわれている。労働者相互の競争によって最高度にまで高められた個々の労働者の能率、分業、機械の導入、自然力の利用は、多数の労働者を失業させる。
 
しかし、これらの労働者は市場からでていく。彼らはもはや買うことができないので、彼らがいままで必要としていた量の商品はもはや必要とされなくなり、したがってもはや生産される必要はなくなる。
 
したがってこれらの商品の生産に従事していた労働者もまた失業し、同じように市場からでていき、こういうことがつねに進行し、同じように循環する──というよりはむしろ、その間にほかの事情がはいりこまなければ、そうなるのである。
 
つまり、先にのべたような生産を増大させる工業上の諸手段が導入されると、生産された商品の価格の下落がつづき、その結果として消費が増大し、こうして失業していた労働者の大部分は、もちろん長いあいだの苦しみののちにではあるが、新しい労働部門でようやくふたたび仕事につくのである。
 
これに加えて、最近六〇年間にイギリスでおこったように、外国市場を征服し、そのため工業製品にたいする需要が一貫して急速に増加すると、労働者への需要も増大し、それとともに人口も、同じ割合で増大する。
 
したがって、ブリテンの人口は、減少するどころか急速に増加し、なお増加しっづけている──そして工業が発展しつづけ、労働者にたいする需要も全体として大きく増加したにもかかわらず、イギリスは、すべての公認の政党(すなわち、トーリ、ウィッグ、急進派)の告白によれば、たえず多大な過剰人口をかかえ、依然として、労働者をもとめる競争よりも、労働者のあいだの競争の方がいつも大きいのである。
(エンゲルス著「イギリスにおける労働者階級の状態」新日本出版社 p129-131)
 
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◎「自分が他者と違う存在になること、他者と競争すること自体が、反社会的とする勢力がある。そこでは人間の根源的関係を見いだす…… もしこのような傾向が、日本の若者の無気力と日本社会の非活性化の妨げになっているとするなら……」。すごい文章にでくわしました。競争≠ェ少子化問題にもつながるというのだ。
 
◎スミスの「国富論」から引用は、エンゲルスの「状態」に引用されている部分です。生活手段(賃金)に比例して労働者の増殖……。私たちには実感としてわかります。