学習通信030926
◎「人間の本性」と「資本の本性」が共鳴しながら……
 
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──才能ある人問を活躍させる自由社会を〔中谷〕
 
 確かに組織と個人のあり方というものは、大きな変化を遂げつつあります。これは多くの人が忘れていることですが、日本だけではなくアメリカでも八〇年代ぐらいまでは組織の時代でした。大企業組織の時代と言われていたのです。ところが、エマージング・テクノロジーが新たな可能性を示し始めたときに、今度は個人の創造能力というものが非常に重要になってきました。
 
 オーケストラのようにガチッと楽譜が決まっていて、逸脱する余地がほとんどないような形態によるビジネスが主流である状況を大企業の時代だとすると、これからはジャズのセッションの時代です。やる気のある人たちが一緒になって、それこそ乗りで演奏する。ピアノがメロディを奏でたら、今度はサキソフォンがそれに合わせるという即興演奏のような形態です。
 
 要するにお互いに刺激し合って、もっとおもしろいものがどんどんできてくる。このような互いに刺激し合ってどんどん新しいものを創造するプロセスを、ジョン・ケイオーは「ジャミング」と呼びました。日本で言えば連歌のようなもので、誰かが上の句を詠むと、即興で下の旬をつくる。これで新しい歌が創造されるわけです。このようなジャミングこそイノベーションの源泉だと思うのですが、今まさにそのような時代に入ってきたのではないでしょうか。
 
 そういう意味では、個人がその気になって動き出すと、大きなことができる可能性のある時代と言えるでしょう。しかも、個人としての潜在能力を発揮できるような立場に立った人は、今までの常識では考えられないような成功を収めるという例が、これから数多く出てくることになるでしょう。
 
 ただ、こういう話をするといつも出てくるのが、「それでは、知意のある人間が栄えて、知恵のない人間が滅びるじゃないか。いわばアメリカ型社会のような弱肉強食の推奨ではないか」という論調です。
 
 私はこの論調に基づく、「本当にやる気があって才能ある者でも報酬はほどほどにしておくべきだ」という考え方はおかしいと思います。たとえば、五パーセントの人が才能を開花させて大きく羽ばたいたとしましょう。確かにその人たちは報われて豊かになるかもしれませんが、その人たちがもたらす付加価値は社会全体に行き渡ることになるのです。逆に、頑張っても報われない悪平等社会では、こういうすごい人たちが出てこない。
 
 社会政策がしっかりしていれば、能力ある人たちが払ってくれた税金で、普通の人たちをもっと豊かにしていくことができるのです。つまり、インセンティブをできる限り活用して、みんなが元気でおもしろい人生を送れるようにしてあげたほうがパイは大きくなります。その大きくなったパイから何パーセントかをセーフティネットのほうに回していくという政策をとればよいのです。
 
 競争やインセンティブを否定してしまったら、それは社会主義の国です。もう誰も動かなくなってしまいます。日本社会が今陥っている問題はまさに社会主義病です。私はそれを「モラルハザード症候群」と言っていますが、頑張っても大して報われないと同時に、頑張らなくてもみんなある種の保証を与えられているので、自分がイノベーターになろうとしなくなってしまったのです。
 
下手に動いて目立ってしまうと、先のような論調で叩かれてしまいますし、これを打ち破るにはかなりのエネルギーを要します。それだったら既存のシステムでうまく立ち回っていたほうが無難だと考えるようになってしまいます。
 
 私は日本経済が低迷しているもっとも大きな原因が、ここにあると考えているのです。
 それに「日本がアメリカみたいになる」と言う人には、何を考えているのかと私は言いたい。
 
 明治の開国以来、日本は西洋からいろいろなものを吸収してきましたが、それで日本が西欧やアメリカと同じになったでしょうか。文化や価値観、生活習慣など日本とアメリカは大きく異なったままです。日本がアメリカと同じだと言ったら、アメリカ人はきっとびっくりするでしょう。
 
 一国の文化的伝統というものは、そんなにヤワなものではありません。日本は日本です。決してアメリカにはなりません。
 
■──自己責任の精神がかつての日本にはあった〔竹中〕
 
 弱肉強食論というのは、私や中谷さんが話すと必ず反論として出てくるものですが、その議論を突き詰めていくと二つの点に行き着きます。
 
 第一のポイントは、そのような主張を唱えている人は、アメリカのことをほとんど知らない。第二のポイントは、日本の歴史をほとんど勉強していない、あるいは上っ面しか学んでいない、ということです。
 
 日本人がこんなに情けなく人にねだるようになったのは、ぜいぜいここ一〇年から一五年の話でしょう。昔の日本人は、もっと誇り高い民族だったはずです。自分のことは自分できちんとやろうとする民族だった。
 
 今の社会システムの問題点は、困ったことがあったら人にねだれ、人からくすねろ、という世界になっていることです。「所得再配分」という言葉を使って、制度として人のものを強奪することを正当化するシステムです。
 
 われわれが子供の頃はまだ井戸がありました。井戸があったということは、水という生活でもっとも重要なライフラインすら、自己責任において見つけ管理していたということです。もし、自分の庭を掘って井戸が出なければ、隣に交渉して水を分けてもらうとか、共同井戸を利用するとか、自分の生活の基本を自分自身で支えていたのです。
 
 また公共投資に関しても、江戸時代の公共投資は、ほとんど自普請(じふしん)です。これは所得のある程度高い人が代表して自普請するやり方で、低所得者のケアをしていたものですが、それでも所得のある人の足を引っ張るようなことはしていませんでした。
 
 そういう意味で、日本の社会はきわめて競争的な社会で、能力の高い人には頑張ってもらって、その中で余裕のある人が社会的ケアにお金を回すという仕組みだったのです。競争とボランティアを組み合わせたような社会です。
 
 どちらかといえば、今のアメリカ社会に近い。能力の高い人は儲けもするがボランティアもするのがアメリカです。ところがどうでしょう。日本では他人のことを思いやることが大切と言いながら、ボランティアはほとんど定着していません。今の日本の社会のほうが、昔に比べてずっと不健康です。弱肉強食論を口にしている人たちは、そこのところを誤解しています。
(中谷巌・竹中平蔵著「ITパワー」PHP p61-65)
 
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 もっと本質を議論しよう。資本主義というシステムは、「果たして将来はどうなるのだろう」「いつ資本主義は崩壊するのだろうか」と疑問視されつづけながらも、これまで生き延びてきた。そして、シュンペーターには申し訳ないが、さらに生き延びていくように思われる。その理由は、それが「人間の本性」に最もフィットしたシステムだからである。
 
 人間は欲深く、自分のことしか考えない側面を持つ。他人には勝ちたい、負けたくないと考える。もっと豊かになりたい。もっと楽をしたい。もっと喜びを知りたい。結局、人間の欲望には際限がない。こういう「人間の本性」にマッチしたのが資本主義なのだ。
 
「人間の本性」と「資本の本性」は共鳴する関係にあるのである。人間の際限のない欲望にマッチする経済システムが資本主義なのだ。少なくとも、社会主義ではなかった。
 
 AIBOを開発するような、心の奥底に潜んでいたものすごい人間の欲望を満たす経済システムは、やはり資本主義である。社会主義の経済からAIBOやディズニー・シーは出てこない。その意味では、AIBOやディズニー・シーは資本主義の象徴といえるかもしれない。
 
実用性でいえば必要がないと思われるものさえ生み出してしまう経済システム。しかし、その新しく生み出されたものは、人生や人々の暮らしを豊かに感じさせてくれる。人間の限りない欲望に対してアンサーを見つけてくれうる柔軟なシステム。それが資本主義である。
 
 だから、元気がある人、元気のある企業がどんどん出てくるような社会にするというのが、資本主義の基本である。心の奥底に引っ込んだ需要を引き出してくるような企業が活躍するのが資本主義である。新陳代謝しない経済システムは資本主義ではない。だから、そういう環境を整えてやらなければ、資本主義の元気は出てこない。
 
 そういう資本主義の本質に気づいていれば、日本経済の将来を過度に悲観する必要はない。少なくとも、GDPのコンマ何パーセントの上下などで一喜一憂するべきではない。日本資本主義の設計図がしっかりとデザインされるなら、いずれ経済は上向いていく。
 
「人間の本性」と「資本の本性」が共鳴しながらも、制御されながら拡大していくという日本資本主義の基盤を設計することこそが求められているのだ。
 
 たしかに、いまの日本経済はきわめて危ない瀬戸際にいる。
 しかし、これを乗り切ることは、本来ならそれほど難しいことではない。やるべきことは単純である。「資本の本性」をコントロールする制御装置──フェアなルール、フェアなジャッジ、フェアなエンフォースメント──を整備することに尽きる。不良債権問題でいえば、問題企業と問題銀行の退場を断行するということになる。
 
 恐れずに果断に実行しょう。「いまよりもっと悪くなる」 といって何もしないのが最も悪い結果をもたらす。それをやったからといって日本の国富がなくなってしまうようなことはない。脆弱だった韓国経済ですら復活できるのだ。麻薬中毒患者に、モルヒネを与えるような治療をいつまで続けようというのだろうか。禁断症状は辛いが、廃人になるよりマシである。
 
 「資本の本性」をコントロールする制御装置が整備されれば、後は「やりたい族」経営者の出番になる。何も物怖じする必要はない。感謝・自律・互助をベースにしたニッポン・スタンダードを創り上げて、米国資本主義に打ち克つ新しい日本資本主義を打ち立てようではないか。ビジネスチャンスは必ずある。
 
日本経済は、シュンペ一夕ーのいう「人間の経済的欲望がいつの日にか充足されて、それ以上の生産的努力を推し進めようとする動因がほとんどなくなってしまう」という段階にはほど遠い。
 
 ビジネスの成功は、ビジネスモデルではなく、経営者の意志にかかっている。成功する秘訣は「成功するまでやりつづけること」に尽きるからだ。
 明治時代多くの銀行救済を成功させた安田善次郎は、その経験から事業が成功するかしないかは、「一にも人物、二にも人物、その首脳となる人物如何」と言明している。最近の日本では、猫も杓子もビジネスモデルだと言って騒いでいるが、本当に幾多の事業を見てきた安田善次郎の見解は違う。才能や経験は枝葉のようなものにすぎず、「その人物が満腔の熱心さと誠実を捧げ、その事業とともに祭れる覚悟でかかる人であれば十分」とした(『20世紀日本の経済人』)。
 
 親米でも嫌米でもなく、「アメリカ万歳論」でも「外資ハイエナ論」でもない、日本独自のニッポン・スタンダードを確立しょう。それが、日本経済が復活するための本格的なスタート地点を提供してくれるはずだ。
 
 私は、荒々しい「資本の本性」が剥き出しになった米国資本主義とは異なる、新しい日本資本主義を確立できるのではないかという手ごたえを感じながら日々を生きている。微力ながら「炭鉱のカナリア」として、ニッポン・スタンダードを追求する旅路を極めてみたい。
 その旅路は始まったばかりである。
(木村剛著「日本資本主義の哲学」PHP p298-301)
 
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 この矛盾はどこから生ずるのか。工業と競争の本質からそしてそれにもとづく商業恐慌から生ずる。現在の無秩序な生活手段の生産と分配は、欲望の直接的な充足のためではなく、金もうけのためにおこなわれており、各人が勝手に仕事をして金もうけをしているこういう制度のもとでは、いつ売れ残りが生ずるか分からない。
 
たとえばイギリスは多くの国にさまざまな商品を供給している。もしかりに工場主が、それぞれの国でそれぞれの商品が毎年どのぐらい必要とされるかを、知っているとしても、それぞれの時期にその国に在庫がどのくらいあるかは分からないし、まして自分の競争相手がその国にどのくらい送るかは、なおさら分からない。
 
彼はただ、絶えず変動しつづけている価格から、在庫と需要の状況について不確実な推測をくだすことができるだけであり、当てずっぽうでその商品を送らなければならない。すべてが盲目的に、でたらめに、多かれ少なかれ、ただ偶然をたよりにおこなわれているにすぎない。
 
ほんのすこしでもよい知らせがあると、みんなができるかぎりのものを送りだす──そして間もなく、その市場には商品があふれ、売れゆきはとまり、資本は回収されず、価格は下落し、そしてイギリスの工業には労働者になにも仕事がなくなってしまう。
 
工業の発展のはじめのころには、こういう停滞は個々の製造部門と個々の市場にかぎられていた。しかし、競争の集中作用によって、ある労働部門で失業した労働者を他のもっとも習得しやすい部門へ投じ、またある市場ではもはや売れなくなった商品をほかの市場に投じ、このようにして個々の小さな恐慌をしだいに接近させることとなり、これらの小恐慌はしだいに結びついて、周期的にくりかえされる一連の恐慌となった。
 
このような恐慌は、たいてい五年ごとに、短期間の繁栄と全般的な好調につづいておこる。国内市場も、すべての外国市場と同じように、イギリス製品であふれ、これらは徐々にしか消費することはできない。工業活動はほとんどすべての部門でとまり、資本が回収できないとそれに耐えられない小工場主や小商人は破産する。
 
もっと大きな工場主や商人は、不況のどん底の時期がつづくあいだは商売をやめ、機械をとめるか、「短時間」しか、つまり半日ぐらいしか、動かさない。賃金は、失業者の競争、労働時間の短縮、利益のあがる商品の売れゆき不振のために、下落する。
 
労働者のあいだに全般的な貧困がひろがり、個々の労働者がもっているかもしれないわずかばかりの貯金は、たちまち使いつくされ、慈善施設は満員になり、救貧税は二倍になり、三倍になってもまだ不足し、餓死寸前のような人びとがふ、え、そして大量の「過剰」人口が一挙にあらわれて、おどろくべき数になる。こういう状態がそれからしばらくつづく。
 
「過剰」な人びとは、できるだけのことをして、なんとかきりぬけていくが、きりぬけられないものもいる。慈善活動と救貧法が、これらの人びとの多くがなんとか生きのびていくのを助ける。他のものは、あちこちで、競争にあまりまきこまれず、工業からはなれた労働部門で貧しい生活を送るーそして人間というものは、しばらくのあいだなら、どんなわずかなものでもなんとか暮らしていくことができることだろう!
 
──しだいに事態は好転する。山のようにつまれていた商品在庫は消費される。商人も工業家も元気を失っていて、品不足を急速に埋めることはできないが、ついには価格が上昇し、各方面からよい知らせがはいってくるので、活動が再開される。市場はたいてい遠いところにあり、最初の新しい輸送貨物がとどくまで、需要は増大しつづけ、それとともに価格も上昇しっづける。
 
最初に到着した品物は奪いあいとなり、最初の販売によって取引はいっそう活気づき、そのあとに到着する予定の品物にはさらに高い価格が見込まれ、いっそうの値上がりを期待して投機買いがはじまり、こうして消費のためにつくられた商品が、まさにもっとも必要とされるときに消費からひきはなされていく
 
──投機はほかの人にも買い気をおこさせ、新しくはいってくる品物を先取りしてしまうので、価格はいっそう上昇する──
 
こういうことがすべてイギリスへ報告され、工場主はふたたび元気よく働きはじめ、工場が新設され、好況期を利用するためにあらゆる手段がとられる。ここでも投機がはじまり、外国市場の場合とまったく同じ作用をする。価格は上昇し、商品は消費からひきはなされ、この両方によって工業生産は最高度に活動するようにおしすすめられていく
 
──それから「あやしげな」投機師があらわれる。徴らは擬制資本で仕事し、信用で生活し、すぐにどしどし売ることができないと破産するような連中で、こういう一般的な、無秩序な金もうけ競争のなかへとびこんできて、彼ら特有のむちゃくちゃな情熱にかりたてられていっそう無秩序に、またあわただしくさせ、そのために価格も生産も気が狂ったように上昇していく──
 
それは狂ったような大騒ぎであって、きわめて冷静な、経験豊かな人をもまきこみ、まるで全人類に着替えをさせる必要でもあるかのように、まるで数十億もの新しい消費者が月世界で発見されたかのように、ハンマーをうち、糸を紡ぎ、布を織るのである。
 
あやしげな投機師は、金が必要になると、海外市場でとつぜん売りはじめる──もちろん市場価格以下で。なぜなら、いそがなければならないから──誰かが売ると、次つぎに売る人がでて、価格は動揺し、投機師たちはおどろいてその商品を市場へ投げだし、市場は混乱し、信用は不安定となる。
 
商店は次つぎと支払いを停止し、破産がつづき、そして、消費に必要とされる量の三倍もの商品が在庫し、輸送の途中にあることに気づく。この情報は、その間に全力をあげて製造をつづけていたイギリスにとどき──ここでもパニックの恐怖が人びとの心をとらえ、海外での破産がイギリスでの破産をひきおこす。
 
さらに売れ残りのために多くの商店がつぶれ、不安のあまり、ここでもまたただちに在庫品がすべて市場へもちこまれ、そのためにいっそう恐怖がかきたてられる。これが恐慌のはじまりであり、それはふたたび以前とまったく同じ経過をたどり、のちにふたたび繁栄期にうつっていく。
 
このように繁栄、恐慌、繁栄、恐慌とつづく。そして、この永遠の循環のなかでイギリスの工業は動きまわっているのだが、それは、すでにのべたように、ふつう五年ないし六年でひとまわりするのである。
 
 ここからあきらかになることは、イギリスの工業は、繁栄の絶頂の短期間を除いて、失業労働者という予備軍をもち、もっとも活況を呈する数ヵ月間に市場が必要とする大量の商品を生産できるようにしていなければならないということである。この予備軍は、市場の状況によって予備軍のどれだけの部分が就業できるかによって、多くなったり、少なくなったりする。
(エンゲルス著「イギリスにおける労働者階級の状態-上-」新日本出版社 p131-135)
 
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◎資本主義とは……。エンゲルスの解明をよく学んで下さい。「繁栄の絶頂の短期間を除いて、失業労働者という予備軍をもち」といっています。資本主義にとって失業労働者は不可欠なもの。
 
◎「「炭鉱のカナリア」として、ニッポン・スタンダードを追求する旅路を極めてみたい。 その旅路は始まったばかりである。」と木村氏はいうが、我々はたまらない。
 
◎竹中路線は小泉再選によってさらに勢いづくにちがいない。当然、国民の抵抗を逆の教訓にしながらぬけめなくつづくのだと。116期の経済学コースは、現実の日本経済が抱える重大問題を選び出して学習します。今後の日本を捉える上で不可欠といえるのではないでしょうか。