学習通信030927
◎哲学がほんとうに必要になってくるのは、何かを考えたり判断したりするときに、その基準とすることができるからです。
 
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問題は、哲学が心のどの部分にまで浸透しているか──稲盛
 
 先生に一つ聞きたいと思っていたことがあります。それは、哲学がどれくらい心のなかに浸透しているのかということです。
 先ほど先生は、いまの日本のリーダーたちが哲学を持っていないとおっしゃいました。哲学とは、思想や道徳、理念といってもいいでしょう。
 
 私も現在、この政財界をはじめ、各界各層のリーダーが哲学、つまり確固たる理念や道徳を持っていないことが、世相を混乱させているもとではないかと思うのです。
 
 しかし私は、哲学というのは、じつは誰もが持っているとも思うのです。ただ、持ち方が人によって違うのです。たとえば、先ほど先生がいわれたように、日本にはマルクス・レーニン主義を信奉し、これを自分の哲学としている人がいます。そのなかにはマルクス・レーニン思想を熱心に勉強して、これを信念にまで高めている人もいれば、たんに知識として持っているだけの人もいることでしょう。
 
つまり、哲学の持ち方、あるいは哲学の浸透度が、人によって差があるのです。また、それによって、行動も大きく異なってくるのです。
 
 また、たいへん教養のある、哲学に精通した人がいるといたします。たとえば、ギリシア哲学や仏教、さらには孔孟思想など、古今東西を問わず、万巻の書をひもとき、あらゆる哲学や思想に通じている方がいるといたします。しかし、それでは知識として持っているにすぎないのです。
 
 じっは、こういった哲学がほんとうに必要になってくるのは、何かを考えたり判断したりするときに、その基準とすることができるからです。いわば、哲学が判断のものさしになるのです。世界情勢の動向にしても、また日本の社会、政治問題にしても、一度その基準に照らして、そこから考えるべきなのです。
 
 このように、哲学が心のなかの最もベースとなるところまで浸透している人は少ないのではないでしょうか。哲学や理念といったものが、心の底の部分でしっかりと固まっているのであれば、その基準となる哲学に照らせば、きちんと答えが返ってきます。しかし、ベースとなるべき確固たる哲学がなく、たんに知識として、心の上っ面のほうで、哲学らしきものがフワフワと浮かんでいるような人もいるのだと思います。
 
そのような人の場合、その知識を一皮むけば、本能や煩悩、つまり欲や怒り、妬み、恨み、愚痴、不平、不満といったものがあり、それでものごとを考えたり、判断してしまうのではないかと思うのです。
 
 もちろん、本能や煩悩は、人間が生きていくためには欠かせないものです。生きていくには欲望が必要ですし、自分の身を守るために怒りを発することも必要です。恨みや嫉妬といった一見マイナスに見える感情も、自分を守るためには不可欠です。そういう本能や煩悩にまつわるものは、たとえ意識しなくても、みんな持っています。
 
 そんな人間が、心の上っ面だけでしか哲学を持っていなければどうなるのか。自分に利害が及ばないような問題の場合には、立派な哲学を前面に出すことが可能です。上っ面の部分の哲学だけで、君子然としたことをいう。
 
ところが自分と利害関係のある話になると、一転して心の底に潜む利己的な欲望の部分に基準を置いてしまい、くだらないことしかいえなくなってしまうのです。つまり、かねてから持っている理念や哲学を素通りしてしまい、欲望の部分でのみ判断し行動してしまうのです。
 
 結局、みんなほんとうの哲学を持っていないわけではないのです。自分に関係ない話のときは、自分なりの哲学に照らして正しいことをいえるのだけれど、自分の利害に関係ある話のときには、そうはならない。だからよく、人格者に見えても、自分と関係のある話のときに、おかしなことをいう人が出てくるのです。
 
 たとえば戦前、共産主義者などで牢獄につながれ拷問にかけられながらも、最後まで思想を捨てなかった人がいます。これは、思想が心の底の部分にまでしみ込んでいる人といえるでしょう。しかし、なかには拷問にかけられて苦しい思いをするうちに、思想を捨ててしまった人もいます。そのような人は、思想を持っているといっても、心の上っ面のほうで理解していただけのことではないでしょうか。
 
 隠れキリシタンにおける、踏み絵も同じことです。作家の遠藤周作さんは、その小説『沈黙』のなかで、この踏み絵について触れています。遠藤さんは、踏み絵を踏むことを、肯定的に描いています。キリスト教は愛の宗教ですから、殺されるのを覚悟してまで踏み絵を踏むことを拒む必要はない。また踏んだからといって、キリストはそれを問題にしないというわけです。
 
 しかし、それだと信仰は守れないと考える人がいます。結局、問題となるのは、命とさし替えてでも守るというほどの哲学を持っているのかということではないでしょうか。哲学にしても宗教にしても、それほど強固に持つことで、自分に不利益をもたらすかもしれません。しかし、哲学や宗教とは、本来そういうものなのです。自分の良心に絶対に恥じないように生きようとすれば、ときに不利益を被ることも出てくるのです。
 
 これを、リーダー論に照らせば、それを承知で勇気を持って、より立派な哲学、思想を持ちつづける人でなければ、各界各層のリーダーにはなれないというべきなのかもしれません。
 
 また、光の屈折にたとえてみましょう。物質に光をあてたとき、ある角度までなら光は反射します。しかし、ある角度以上なら、なかに入ってしまい、反射しません。何度までなら反射し、何度までならうまく入るかということは、物質の構造によって変わってきます。
 
 心の場合も同じで、何か問題が入ってきたときに、上っ面をすべって反射するだけなのか、心の奥にまで入り込むのかは、その人の心の有り様、つまり心の構造によって変わるのです。この心の構造を立派なものにしておくことが最も重要なのです。
 
 修養とか修行という言葉がありますが、これも心の構造を立派にするためのものと考えることができるでしょう。修養なり修行をすることで、哲学を自分のものとしていないと、それを現実の局面で生かすことはできないのです。
(梅原・稲盛著「新しい哲学」PHP p20-25)
 
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羅針盤の求められる時代
 
 いま日本は、長年つづいた自民党政治がゆきづまり、新しい政治の方向をめぐって国民的な模索がおこなわれるという「過渡期」を迎えています。こうした情勢のもとで、科学的社会主義の理論を学びたい=A『資本論』を読んでみたい″などという学習意欲の高まりが一方で見られます。
 
他方で、理論学習というのは難しそうだとか、とにかくまちがった世の中を立て直すため活動したいから、理論学習は簡単にすませるわけにはいかないかといった意見も見られるところです。
 
 しかし、私たちのめざす国政の革新、あるいは社会の変革(世直し)は、正確な理論の構築とその学習なしには実現できないといわなければなりません。
 
 社会の変革は、一部のシステムを少し変えてみるといった程度のことではなく、歴史的な大事業ですから、容易なことではありません。社会のしくみとその変化・発展の基本的な法則を知らなければ成功できない大仕事です。いまの世の中はまちがっているという怒りに燃えて、世直しをするのだと正義感で行動しようとしても、それだけでは成功はおぼつかないといわなければなりません。
 
強い怒りと純粋な正義感は大事なものですが、それだけでは成功の保証はありません。社会的矛盾の原因はなにか、どういう方向をめざすのか、そのためにはどんな準備が必要かなど、考えてみなければなりません。
 
 たとえていえば、私たちが太平洋横断をしたいと考えたとします。強い決意を固め、身体のトレーニングを積んでも、それだけでは不十分です。頭を使って学習し、科学・技術の力で装備の整った船を造り、航海術を身につけ、羅針盤などの器具を取り付け、天候や海流などについての十分な知識を身につけることが最低限必要なことです。
 
 社会の変革の事業は、これ以上の大仕事ですから、さらに十分な準備と学習が必要になります。先の例で、航海の船にあたるものが、この場合、労働組合や政党などの組織ということになるでしょう。
 
羅針盤や航海術などの知識が理論(科学的社会主義の理論)ということになるでしょう。大勢の人々が正確な理論を身につけることがぜひとも必要なのです。
 
──略──
 
●哲学と日常生活の関係は?
 
 これらの理論内容については、第2話以降で考えることにしますが、まずここでは、「なぜそんな難しそうな哲学を学ばなければならないのか」「哲学と自分の日常生活あるいは日常活動とのかかわりがわからない」という疑問が出てきそうなので、この点について考えてみたいと思います。
 
 私たちの日常生活において、哲学を学んでいなければ生活できないということはありません。日常生活はそんなに難しく考えることは必要ありません。
 
 しかし、まず第一に、私たちがものごとに迷ったとき、なんらかの危機に直面したとき、つまりいざというときに哲学はやはり必要なのだといえましょう。たとえば、会社のリストラで「首を切られた」とき、泣き雇人りをするのか、それともたたかうのか、労働者としての生き方が問われることになります。ものごとを根本から考え直す必要が出てきます。このようなとき、どう考えるか、そのときのものの見方、考え方の基本となるのが哲学です。
 
 あるいは、社会全体が危機的な矛盾におちいっているとき、哲学が必要となります。まさに現在の日本のような場合です。科学・技術が発達し、勤勉な労働者がそろっている日本で、生産力が大きくなりすぎて、深刻な不景気がおこっています。
 
会社が発展すれば社員の暮らしもよくなる″といわれてきましたが、いまでは、会社は黒字なのに、リストラと称して人減らし・首切りがあちこちでおこっています。
 
 このように矛盾だらけの世の中です。こんなことがなぜおこるのか、私たちはどのように対処したらよいのか、人間の生き方、社会のあり方を考え直さなければならなくなります。こんなとき、ものの見方、考え方の基本が問われることになります。
 
●ものごとを深く知りたいとき必要に
 
 第二に、右のような危機に直面していなくても、私たちがものごとを深く知りたいと思ったとき、哲学は必要になります。
 
 たとえば、自然現象を考えるとき、目に見えるし、手で触れることのできる対象を観察しているとき、五官などの日常的感覚をたよりにしていれば十分で、とくに哲学的に考える必要はありません。
 
ところが、たとえば、ある種の電磁気現象や、電子や素粒子などミクロの量子論的な世界については、人間の五官はほとんど無力であり、この領域は目で見ることもできないし、手で直接さわることもできない世界です。
 
科学者たちは複雑な観測装置を工夫するなどして、こんな世界にもどんどん研究のあゆみをすすめていっていますが、その場合、どうすれば研究をすすめることができるのか、観測結果をどのように理解したらよいか、常識にとどまらず、哲学的な考え方が必要となりました。哲学はそのような科学の研究のすすめ方にも深くかかわっています。
 
 また社会現象についていうならば、社会現象についての科学(社会科学)の成立は、ごく新しく一九世紀のことです。それ以前において、社会現象や歴史現象について、合法則性があるなどとは考えられておらず、科学的研究の対象とはなりえないと思われていました。
 
歴史学というのは古くからありましたが、これはたんなる記録の学というだけで、法則性を研究する科学とは性格が異なると思われていました。社会は多数の人びとの集まりであり、一人ひとりはそれぞれ考え方も立場も利害関係も異なり、てんでんばらばらに見えます。
 
そのような多くの個人の集まりである社会に法則性があるとは考えられないから、社会についての科学は成り立たないと長い間考えられていました。
 
 ところがヨーロッパで一八世紀のなかごろになると、資本主義の発展がすすむにつれて、社会現象・経済現象に一定の法則性があり、社会現象の科学的研究は可能でもあり、必要でもあるのではないかという考えが出てくるようになりました。
 
これがイギリス古典派経済学の誕生につながるのですが、この場合、社会の合法則性とはなにかという哲学的考察の前進が大きな役割をはたしました。マルクスの『資本論』は、まさにそのような哲学的考察を基礎に成立しました。
 
そのあたりのくわしい事情は、またあとの方で学ぶことにしたいと思いますが、このように、深くものごとを研究しなければならなくなったときに、哲学が必要であるし、役に立つわけです。
 
 そのように考えてくると、私たちはいま、個人的にも、また社会の矛盾にみちた状況からみても、また歴史の発展の過渡的状況からしても、哲学の学習と研究の必要な時期にあると思われます。
(鰺坂真著「科学的社会主義の世界観」新日本出版社 p10-20)
 
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◎「哲学がほんとうに必要になってくるのは、何かを考えたり判断したりするときに、その基準とすることができるからです。」
 
◎その基準が間違っていればどうなるのでしょうか。稲盛哲学か、労働学校で学ぶ哲学か、……もっともっと労働者・青年の中に労働学校をひろげよう。